第一章 仮面舞踏会の夜に
鏡の中には、肩を剥き出しにした舞踏会用の深紅のドレスを纏い、鮮やかな紅を引いた見たこともない女が映っていた。
癖のある重たい黒髪は高く結い上げられて、露わになったうなじに香油が塗り込めてある。ささやかな胸はこれでもかというほど押し上げられ、視線を落とせば無理に作られた谷間らしきものが見え隠れしている。
「よく似合っていてよ? マリア」
「無理です……リディア様、こんな」
こんな姿で公衆の面前に出るなんて、地方育ちで社交場というものを知らないマリアには考えられないことだった。これまで、デコルテの開いたごく一般的な舞踏会用のドレスすら着たことがなかったのだから。
マリアは鏡に映るもう一人の人物……美しい金色の髪を持つリディア王女に不安げな視線を送る。
このような艶やかなドレスは、きっとリディアのほうが似合うだろう。なのに彼女は「意外性がないとつまらない」と言い、自身は百年前の流行だった古風な暗い色のドレスに杖を持って、魔女を想像させる装いを楽しんでいる。
「大丈夫、仮面を着けてしまえば……ほら、誰だかわからないでしょう?」
リディアはマリアの背後に回り、蝶の羽を思わせる仮面を自らの手で着けてくれた。
仮面によってマリアの幼さを残した菫色の瞳が覆われてしまうと、妖艶で謎めいた貴婦人が出来上がる。
「魔法をかけてあげるわ、マリア。今夜はいつものおとなしいあなたではなくて、自信に満ち溢れた大人の女になるの。せっかくの仮面舞踏会なんだから楽しみましょう」
魔女になりきっているリディアが、杖を動かしてでたらめな呪文を唱えるので、思わず二人でくすりと笑い合ったところで、扉を叩く音がした。
「おお! リディア、それにマリアも随分化けたな」
現れたのは、リディアの兄でこの国の王太子でもあるジークフリートだった。仮面舞踏会が開催される今夜、彼も妹のリディアに合わせたのか、怪しげな魔法使いを装っている。
「お兄様、それは褒めていることにならないわ」
「失礼。……美しいよ、二人とも」
ジークフリートはリディアと同じ金色の髪をフードの隙間から覗かせて、大げさにお辞儀をしてみせる。
マリアにとっては雲の上の存在のはずのジークフリートとリディアだが、本人たちはまるで古い友人のように接してくれる。それがあまりに自然だから、甘えてしまいそうになるが、ためらう理由もあった。
「あの……本当に大丈夫でしょうか? 私のような者が王宮の舞踏会に参加しても……」
「なにを言っているの? あなたはオルシーニ家の娘なんだから、当然資格があるわ」
マリアは首を横に振りたくなる衝動をかろうじて抑えた。王家が認めてくれているのに、頑なに否定するのは不敬にあたるだろう。でも〝オルシーニ家の娘〟を名乗ってもよいのか、疑問がある。
アンナ=マリア・オルシーニ。
それがマリアの正式な名前だ。オルシーニ家はこの国で侯爵の位を授かっている名門貴族だが、実はマリアはオルシーニ家の本当の娘ではなく養女である。
先の侯爵夫人が、幼くして亡くなった実の娘アンナの代わりにと、同じ黒髪を持つ孤児だったマリアを養女にしたのだ。
マリアを実の子のように可愛がってくれた養父母が亡くなり、現在は義理の兄が当主となっているが、彼はあるときから徹底してマリアの存在を無視していた。まるでマリアなど最初からいなかったかのように。
侯爵家の当主だというのに軍に身を置いたままで、領地のことは家令に任せ自ら顧みることはない。
義兄が領地の屋敷に帰らなくなり七年たつが、そのあいだにマリアは結婚適齢期である二十歳の誕生日を迎えてしまった。
貴族の娘であれば十代のうちに社交界にデビューし、婚約者を定めるものだが……義兄がマリアの結婚に積極的に動いてくれることはなかった。偽者の令嬢なのだからしかたのないことだ。
そろそろ自分で将来の決断をしなければならない。そんなことを考えていた矢先に、王女付きの女官として臨時で迎えたいという誘いを受け、マリアはこの王都にやって来た。
なんでも、五人いる王女専属の女官のうち二人が同時に長期で出仕できなくなり、マリアが代理の候補になったのだ。
てっきり義兄がマリアの存在を思い出し、手を回してくれたのだと喜んだのだが……。
実は今回の招待は王太子ジークフリートの計らいで、義兄はなにも知らないらしい。
王宮に来てもうすぐ二ヵ月、王女に仕える女官としての立ち振る舞いや仕事にようやく慣れてきたマリアだったが、あくまでも臨時の女官なので、もうすぐ役目を終えることになる。
アルベルトに会わないまま領地に戻ることになりそうだと思っていたのに、今日になって、軍の任務で地方の視察に行っていたという義兄の帰還を聞かされた。
同時にジークフリートから思い立ったように、仮面舞踏会への参加を申しつけられてしまった。
大勢の侍女たちの手により身支度を整えられ、もう後戻りはできそうにない。
「さぁ、あいつはきっともう会場にいるはずだ。黙っていたらいつ君の正体に気づくと思う? きっと喜ぶだろうな」
ジークフリートはなぜか、義兄とマリアの関係が良好であると思い込んでいる。
嫌われているのだと説明したかったが、オルシーニ家の名誉を傷つけないために、兄があえてそう思わせている可能性も捨てきれず、口を噤むしかなかった。
マリアはジークフリートにエスコートされ、舞踏会が開かれている大広間へと足を踏み入れた。
王家の兄妹は正体を隠して楽しむつもりのようだが、もともと目立つ容姿をしているので、高貴な人物が入場したことを告げなくとも、自然と注目が集まった。
その流れで、どうしたってマリアにも視線が向けられてしまう。
「あの女性はどなたかしら?」
王太子らしき人物の隣にいるのは誰かと、気になってしまうのはしかたない。
さらにジークフリートやリディアの周りには、どんどんと人が集まってきてしまった。仮面舞踏会は、普段なら自分から声をかけることができない相手に近づくことができる日だ。
マリアは尻込みし、そっとその場から離れ壁際に移動した。
目の前に広がる光景は、これまでマリアが身を置いてきた場所とあまりに違う。きらびやかな世界など、知らなかったのだ。
馴染めない自分が情けなく、思わずため息が出る。そうやってうつむいた視線の先に、黒い靴が見えた。
「どこか、具合でも悪いのか……?」
はっとして、顔を上げる。
マリアの目の前には、黒の軍服に装飾のない仮面を着けた背の高い黒髪の男性がいた。
「とある貴公子に、君のことを頼まれた」
彼はそう言って、遠く離れた場所にいるジークフリートのほうを見ていた。どうやら彼に命じられ、マリアに声をかけたらしい。
「あの……」
七年ぶりでも……仮面をつけた姿でも……マリアにはその人が誰かすぐにわかった。
彼こそが血の繋がらない兄、アルベルト・オルシーニだ。
刺すような視線を感じ、マリアは身を竦ませた。「どうしてこんな場所にいる?」と怒られると思ったから。勝手に領地から出てしまったので、なんと釈明すればいいのかわからなかった。
軍服を着たまま参加していることからも、命じられてしかたなく舞踏会にやってきたことが伝わってきて、最悪の再会となってしまったかもしれないと気づく。
「その……私……、ごめんなさい」
なにか言わなければと思いながら、うつむき目を泳がせてしまう。
「どうして謝るんだ? 君のパートナーは忙しいらしいから、困ったことがあれば私に言ってくれ。……ああ、挨拶がまだった。はじめまして、お嬢さん」
「はじめまして……」
アルベルトは、マリアの正体に気づいていないようだった。ジークフリートのいたずらで、マリアの存在を知らせずアルベルトを驚かせようとしているのだろう。
それにしても、それほどまでに七年という歳月は長かったのだろうか?
それともアルベルトにとってのマリアという存在が、簡単に忘れてしまうくらいちっぽけなものだったのだろうか?
自分は一瞬で彼のことがわかったのに……。寂しさを感じながら、ためらいがちに差し出された手を取ると、アルベルトは身を屈め指先に唇を寄せてきた。
実際にその唇がマリアの指先に触れることはなかったけれど、手袋越しでもわかるごつごつとした力強い手の感触に、懐かしさと安らぎと、そして相反するような胸の高鳴りを覚える。
もしも自分たちが義兄妹ではなく、ただの男と女として出会えていたら?
心の中で何度も打ち消していた、そんなありもしない夢の世界に、マリアは今いるのかもしれない。
アルベルトはしばらくのあいだ、黙ってマリアのそばにいてくれた。
「随分無口なんだな。それにまるで怯えているみたいだ。とって食われる訳ではない、堂々としていたらいい」
低い独特の温かみのある声が身体に直接届き、丸くなりかけていた姿勢が自然にピンと伸びる。マリアが敬愛し、そして恋した「お兄様」が確かにそこにいた。
「あの……私、どこかおかしくないでしょうか?」
「いいや……君は美しいと思う」
アルベルトから放たれた装飾のないたったひと言に、マリアの心臓は一気に跳ねる。仮面をつけていても、頬や耳が熱を持ち紅潮しているのがきっとわかってしまっただろう。
マリアが大袈裟に反応してしまったから、アルベルトもどことなく気まずそうにしている。お互いになにも言えなくなり、ただ探るように視線だけを絡ませていた。
どれくらいの時間を見つめあっていたのだろう。楽団の奏でる楽器から美しい旋律が聞こえてきて、二人は我に返った。
(ああ、この曲……)
懐かしい曲にマリアが反応すると、合わせたようにアルベルトが手を取ってきた。
「……せっかくだ。踊らないか?」
二人がダンスの輪の中に向かって歩き出すと、周囲から小さなざわめきが沸き起こる。マリアが視線だけで疑問を投げかけると、アルベルトは仮面の奥の瞳を細めて言った。
「私が女性と踊るのが珍しいのだろう」
ジークフリート同様、参加者の多くはこの男性が何者であるか気づいているらしい。
そもそも間に合わせなのか、軍服を着たまま仮面だけ着けて参加しているのだから当然と言えば当然だった。
爵位を持つ若き軍人侯爵は、いまだ独身であるのだから。
「珍しいって……どうしてですか?」
「……苦手なんだ」
マリアは首を傾げた。アルベルトがどれだけ素敵にステップを踏むのかを知っていたからだ。
七年前、突然アルベルトが領地の屋敷から出て行ってしまうまでのあいだ、マナーを習得するための練習に付き合ってくれたことが何度かある。そう、まさにこの曲で二人は踊ったのだ。
あの頃からマリアは、いつかこの人と華やかな場所でお気に入りのドレスを着て踊ってみたいと思っていた。
そして、当時はそれは遠くない未来に実現するものだと信じて疑わなかった。もちろんエスコート役の家族としてだけれども。
一度手にしかけ、そしてそれが叶わないものだと残酷に思い知らされた夢が、ふたたび現実となったことで心は知らずに弾んでいく。
アルベルトのリードは完璧だ。マリアは羽が生えたように軽い調子でくるくると回る。
「嘘みたい、楽しい!」
「そうか、それはよかった」
素直に喜びを表現すれば、アルベルトもそれに同調するように微笑む。
最初の曲が終わっても、二人は向き合ったまま、どちらともなく手を取り合って二曲目を踊り出していた。
「苦手なんて……やっぱり嘘」
「苦手と言ったのは、ダンスのことではないから」
耳元近くで囁かれたアルベルトのつぶやきは、マリアを落ち着かなくさせた。このとき、純粋に仮面舞踏会を楽しんでいたマリアは油断していたのだ。
「どうやら私たちは息が合うようだ。君とははじめて踊った、……いや、はじめて会った気がしない」
アルベルトの甘さを含んだ言葉を、マリアは彼の意図したとおりに受け取ることができなかった。
気づかれてしまう? いいえ、まだ大丈夫?
この夢のようなひとときが一気に遠ざかってしまいそう……
二曲目の途中からどう踊ったのかよく覚えていない。最後のターンで躓きそうになっていたことすら、アルベルトに受け止められるまでわからなかった。
「少し休んだほうがよさそうだな」
どうしたのかと、アルベルトが心配そうに見つめている。正体を知られたら、もうこの優しい瞳はマリアに向けられることはない。そう思うと苦しくてたまらなくなった。
アルベルトはマリアを休ませようと、庭園に連れ出してくれた。彼は一ヵ月ここで女官をしていたマリアより内部に詳しいようで、生け垣の迷路を抜けた先に置かれたベンチまで案内してくれる。
夜空に浮かぶ月は細くて、泣きそうな顔を隠してくれるようだ。
「踊っていただいてありがとうございました。一生の思い出にします」
「大袈裟な、またいくらでも機会はあるだろう。今夜でなくとも」
マリアは小さく首を横に振った。
「急にどうしたんだ? 私はなにか気に障ることを言っただろうか?」
「いいえ、ただ慣れないのに無理して高い踵の靴を履いたせいで……」
言い訳だが、嘘でもない。今夜の靴はマリアの足に合わせて作ったものではない。それに普段履いたこともない高さのある靴だったから、すでに足は悲鳴を上げている。
「だったら、脱いでしまえばいい」
うつむいたまま座っていたマリアの前に黒い影が飛び込んできた。アルベルトがマリアの足に手をかけて、さっさと靴を脱がせてしまう。
「今度会うときは、もっと柔らかくて低い靴を履いてきてくれ。私は無理をして着飾る女性は苦手だ」
「今度?」
「君は王太子殿下の知人だろう? きっと遠くない未来に私たちは正式に会うことになる」
確かに自分たちはまた顔を合わせることになるだろう。でも、アルベルトはマリアとは別の意味で言っている気がした。
「どうして?」
マリアが理由を尋ねると、アルベルトが小さくため息を吐く。
「殿下は、私が早く結婚すればよいと思っているから、こうやって時折世話を焼いてくるんだ」
「あなたはいつも、殿下に勧められた女性に親切なのですね?」
「いいや」
アルベルトはふっと笑った。
仮面の奥に覗く黒い瞳に吸い込まれてしまいそうになる。まるでマリアだけが特別なのだと言われている気がしてしまう。
「そうだとしたら、私はとっくに結婚しているだろう」
アルベルトは身体が触れるくらいの距離で隣に腰かけると、マリアの仮面にそっと触れてきた。
そのまま後頭部に手を回されてはっとする。彼はマリアの仮面を取ろうとしているのだ。
「顔を見せてくれないか?」
「いけません……」
「では、せめて名前を」
「私の名前は……名前は……」
ふと、マリアの中でよからぬ考えが浮かぶ。このままアルベルトが気づかずにいてくれたらいいのにと。
「マチルダ……私の名前はマチルダです」
嘘を口にしてしまった。ものすごく悪いことをしている自覚はある。
でも、この時間をどうしても終わらせたくはなかったのだ。
そんなマリアのよこしまな願望は、空に見透かされていたようだ。
ぽつ、ぽつと、雨粒が落ちてきた。
雲が厚くなり、このまま庭園で過ごすことはできなくなりそうだ。
「私、もういかなければなりません」
マリアはベンチから立ちあがろうとした。でもその前にアルベルトが手を重ねてくる。
「……マチルダ。次はいつ会える?」
甘く囁かれ、マリアは渇望に抗えなかった。
「……また、どこかの仮面舞踏会でお会いしましょう」
ただの、男と女として――。
もう少し、あと一度でいいから偽りの時間を過ごしたい。
だからマリアは大切なことを告げぬまま、彼と次の約束をしてしまった。