1 どうしてこんなことになってしまったの
「さて。可愛い迷い子をどうしようか」
――どうして、こんなことになってしまったのだろう。
大きな手によって両手首をシーツに押しつけられたセシリアは水色の瞳を揺らめかせ、自分にのしかかる青年の顔を不安げに見つめた。
ベッドサイドに置かれたランプの淡い光を受けた金色の髪はけぶるように美しい。けれども額に落ちた前髪の奥に煌めく青色の目はセシリアを見下ろしている。二人の体勢も相俟って、その輝きは獲物を狙う獰猛な肉食獣のそれを思わせた。
「あ、の……」
懸命に声を振り絞ったけれど、そこから何を言ったらいいか分からない。精一杯の勇気は小さな吐息に紛れて霧散して行った。
記憶の中にある彼の目は理知的かつ冷静で、それでいて優しいものだ。
けれど今はその面影すらどこにもない。
野性を色濃く帯びた視線に寸分違わず瞳を貫かれ、セシリアは捕食される小鹿さながらに震えることしかできなかった。
「そんなに怯えないで、僕の可愛い小鹿姫」
彼もまた、自らが優位に立つ捕食者だと理解しているのだろう。
それに関してはその通りだと言う他ない。だからセシリアも懸命に自分は彼の獲物じゃないと、虚勢を張ろうとはしたけれど無駄だった。そもそも、最初の状況からして上手く立ち回れるはずもない。抵抗らしい抵抗もできないうちに、こうしてあっという間に組み敷かれてしまったのだから。
手首を押さえる力がわずかに緩む。
もしかして解放してくれるのだろうか。安堵したのも束の間、青年の右手がセシリアの手首をひとまとめにして頭上に掲げた。それから捕縛を右手のみに任せたことで空いた左手が、押し倒された拍子に解けたプラチナシルバーの柔らかな髪をそっとかき上げる。耳が剥き出しにされたのが分かり、手つき自体は優しいのに反射的に身体が強張った。
鋭く息を呑む。いよいよ首筋に鋭い牙を容赦なく立てられる時が来たのかもしれない。さらに怯えた目を青年に向けた。
おいしくありません。
食べないで下さい。
そう訴えるのも違う気がして、けれども他に言いようもなくて結果的に口を噤んだ。良心の呵責を覚えてくれたらと、自分でも期待のできない願望を瞳にこめる。
「困ったな。別に本能のまま君を食い荒らしたりはしないよ」
形の良い眉尻を下げ、青年の指先が耳朶【じだ】を軽くなぞった。くすぐったさに思わず身を捩らせる。するとセシリアの反応に気を良くしたのか、青年は「可愛いね」と熱のこもった声で囁きながら何度も指をすべらせた。
「本当に……」
信用しているし、この先もずっと信用したい。それでも彼が嘘を告げていないのか確認を取ろうとした時、青年は恍惚とした様子で軽く唇を一舐めして囁いた。
「ああ、でも、こんなにおいしそうだから、早く食べてしまいたいな」
「や……やめて、下さい……」
やっぱりセシリアを食べるつもりでいるのだ。か細い声で懇願するも、青年は優しい笑みを浮かべるだけだった。だけどその目はぎらついた光を宿したままで、ちっともセシリアを安心させてはくれない。
困り果てて瞳を閉じた。
まぶたの裏に、煌びやかなホールで数刻前に見た眩いばかりの姿が映る。
光の女神の寵愛をほしいままにしているかのような、完璧なまでの姿は幻だったのだろうか。
ホールにいる全ての年若い令嬢たちの、セシリアの羨望の視線と感嘆の吐息とを一身に浴びた彼と本当に同一人物なのだろうか。
「観念して、僕に全てを捧げてくれる気になったのかな」
目を開けて、その綺麗な姿を見つめる。
遠い存在だったはずの人物と二人きりで、こんなにも顔が近い。それは本来なら胸を甘く高鳴らせてくれる状況であるべきなのに、とてもそんな気分になれないでいる。
早く解放されたいと願うなんて思ってもみなかったことだ。
繋がりは浅くても顔馴染みの情に訴えかけるべく、セシリアはひりつく喉から声を振り絞った。
「だ、誰にも……言いません。ですから」
「じゃあ君はあんな現場を見た相手を、他言しないという口約束だけで帰せる?」
「それは、あの」
見てはいけないであろう場面を見てしまったことは申し訳なく思う。
でもわざとじゃない。事故だ。
だって誰が思うだろう。
夜会が開かれている最中に王城内で、主賓の一人である第二王子があんなことをしているなんて。
「もっとも」
口ごもるセシリアの小さな唇に青年の指先が触れる。
「無垢な君が、夜会の途中で一人抜け出した第二王子が人知れず自慰に勤しんでいたなんて、家族にも言えるわけがないと思うけれど」
柔らかな低い声が紡ぐにはおおよそ不似合いな、ふしだらな行為を示す言葉にセシリアの頬が真っ赤に染まった。
そう、言えるわけがない。
分かってくれているのならどうして。
涙を滲ませて責めるような目を向けても彼に響いた気配はない。愛おしむように唇の輪郭をなぞり、中心を押した。弾みで薄く開き、青年の指先を少しだけ咥え込む。たちまち青年はふるりと身を震わせて指をさらに奥へと押し込んで来た。
「君の中は、想像通り温かくて柔らかいね」
指が歯に当たったのが分かった。迂闊に喋ったら噛んでしまいそうで、セシリアはじっとなすがままにするしかない。
「っ、ふ」
さすがにセシリアの唇から声が漏れた。
他人の指が咥内を探っている。ひどく不思議な気分だった。不快な行為であるはずなのにそう思わないのは、セシリアが彼に好意を抱いているのと、どうしたらいいのかあまりにも分からなすぎるせいだ。ただ指に触れたりしないよう舌を懸命に逃がすのに、何故か彼の指が執拗に追って来る。
「そのままもう少し舐めてみて」
舐めれば許してもらえるのだろうか。
彼の意図も目的も分からないまま、恐る恐る指に舌を這わせる。舌の動きを助ける為に唾液が分泌されたのだろう。小さな水音があがった。
わずかな音が、ひどくはしたない響きに感じられて羞恥心を大きく煽る。
「いい子だ。上手だね」
指が抜き差しを繰り返し、その動きに合わせて水音がどんどん大きくなって行く。
このままではいけないと本能的に思った。でも、セシリアにできることは何もない。身体の奥底に生まれつつある未知の感覚に怯え、咥内を侵食する指が望むまま奉仕をするだけだ。
唾液が唇の端から滴りそうになって慌てて飲み込む。
青年の指を咥えたままのせいで上手く嚥下できずに思いの外大きく喉が鳴った。
「ああ――ごめんね。つい夢中になってしまった」
謝罪の言葉と共に指が口から引き抜かれた。ほんの一瞬、そのことに寂しさを覚えてしまった自分に愕然とする。
違う。そんなふしだらなものではなくて。でも違うならこの気持ちはどこから。
理解の及ばない感情を必死に振り払うセシリアを見下ろし、青年は先程までセシリアの口腔に忍ばせていた自らの指を軽く舐めた。
「――甘いね」
自分では知りようもない唾液の味に甘いという感想を受けて頬が染まる。褒め言葉だと受け取って良いのかも分からず、ただ羞恥を覚えた。
「あ、の……。信じて、下さい。私……本当に」
「そうだね。他人が隠し通したいであろう秘密を知っても、君がそれを言いふらしたりする軽率さを持ち合わせてはいないことくらい分かってるよ」
「でしたら」
「でもね、セシリア」
言い募る言葉を遮り、青年はなおもねだるようにセシリアの唇をなぞった。
「僕が君を想って自慰している現場を見たのだから、君が僕を想って自慰してるところを見せて欲しいんだ」
ひどく切なげだった様子を思い起こせば、よく分からない何かが下腹部の奥でじんわりとうごめき、セシリアはゆっくりと振り払うようにかぶりを振った。
「ユリウス殿下、それは」
本当に――どうして、こんなことになってしまったのだろう。
2 未練を断ち切る最初で最後の機会
仲睦まじい様子で、華やかに飾られた廊下を二人の少女が歩いている。
柔らかなウェーブを描くプラチナブロンドを結い上げ、パステルブルーの繊細なレース生地に金色の刺繍をさりげなく施したドレスを纏う愛らしい少女はセシリア・ハイネル。
明るい金の髪を編み込み、鮮やかな真紅のシルクに漆黒のバラ模様の刺繍が美しいドレスを纏う大人びた少女はその姉のマリエ・ハイネル。
正反対な印象を与える二人は、共にハイネル侯爵家の令嬢だ。
「人がたくさんいるから、はぐれてはだめよ」
「はい、お姉様」
セシリアにとって王城は物語の世界に迷い込んだような絢爛豪華さで、二度目の登城では煌びやかな雰囲気にはまだ慣れずに圧倒されるばかりだった。
ありとあらゆるものに目を奪われながら大広間に辿り着き、見上げるうちに後ろへと倒れてしまいそうなほど高い天井からいくつも吊り下げられたシャンデリアに見惚れていると、姉のマリエに声をかけられた。
まだ幼い子供に対するような言葉に、セシリアは素直に頷き返す。
「いいこと、セシリア」
「決して殿方と二人きりになってはいけません、でしょう?」
「そうよ。決して殿方と二人きりになってはだめよ」
デビュタントの日はもちろん、今夜のような王族の誕生日や新年といった大規模なものではなくとも王城で開かれる夜会に参加すると決まってから、一日に何度も聞いた言葉を復唱する。マリエは深く頷き、けれどもなお心配は尽きないようで自身も同じことを言った。
父やマリエが過保護なまでにセシリアを心配するのには理由がある。
本来なら十四歳になると迎えるはずのデビュタントを父のエスコートで半年前にようやく果たすまで、セシリアは領地で暮らしていた。風邪を引いたり熱が出やすく、穏やかな場所で療養する為だ。やはり身体が弱く、ベッドに臥せりがちだった母はセシリアが九歳の時に帰らぬ人となっており、父や姉は余計に心配でならないのだろう。
銀に限りなく近い金の髪や淡い水色の瞳、透き通ってしまいそうなほど白い肌と、色素が薄めなこともきっと、家族の心配を必要以上に煽ってしまっている。成長して人並みの健康を得たと主治医の先生が保証してくれたにも拘わらずだ。
だから王城はもちろん王都自体にも馴染みがない。畏まった夜会も同様だ。
本音を言えば療養とは関係なしに夜会などには出ず、領地でのんびりと静かに暮らしていたい。華やかな夜会が嫌いというわけではないけれど、賑やかな場所は性に合わないのだ。
領地暮らしの長いセシリアには未だに決められた婚約者がいない。
だけどもう十八歳を迎えた。長女マリエと、入り婿となるジョルジュ――急なトラブルにより今日の夜会には遅れて参列するらしい――が家を継ぐことになってはいるし、家族も皆、嫁になど行かずに家で暮らせばいいと言う。そうは言ってもセシリアだって、いつまでも甘え続けているわけにもいかないと理解している。さすがにそろそろ相手を決める必要があった。
できれば恋愛結婚がいい。
年頃の少女らしく夢を見てはいるものの、絶対に叶わないと現実も知っている。セシリアの想い人はとても遠い存在だからだ。
そして今日は未練を断つ最初で最後の機会かもしれない。そう思ってやって来たのだ。