1 人間になんてなりたくなかった
世界はこんなにも鮮やかな色に満ち溢れていたのか。
葉の落ちた枝の隙間から見える空の深い青、そばに建つ屋敷の緋色のレンガがオフィーリアの目を刺激する。
世界にはこんなにも様々な感覚が存在していたのか。
抱えているバラの棘が手のひらに食い込む痛み、膝をついている土と枯れ葉の冷たさ。そして、襟元のフリルが首筋をくすぐる感触。
体の中を血が駆け巡る。指先まで熱が行き届く。
しかしそんな初めての感覚に気付かないくらい、オフィーリアは突然目の前に現れた男に視線を奪われていた。
黒い髪も、真ん丸に見開かれた灰色の瞳も、その顔の作りも何もかもあの人に似ている。
「マンセル……」
もう懐かしいとすら感じる名前を呟くと、目の前の男ははっとしたように体を震わせ一歩後ろへ下がり、オフィーリアを睨み付けた。
「何者だ。ここで何をしている」
声まで似ているではないか。マンセルの若い頃に、彼はとてもよく似ていた。
オフィーリアは立ち上がろうとして、よろけて地面に倒れる。腕からこぼれて散らばったバラを見つめながら、ようやく気付いた。体がいつもと違うことに。
思わず手のひらを見る。柔らかな皮膚に覆われていて、裏には小さな爪までついている。
「……どうして……」
呟いたオフィーリアの鼻先に、長い剣の切っ先が突き付けられた。
「答えろ。お前は何者だ」
懐かしい声が、冷ややかに問いただす。分厚い外套の下に帯刀していたらしい。
オフィーリアは大きく息を吸って、喉を冷やす空気の冷たさに驚きながらも、男を見上げた。
「……私はオフィーリア。魔術師マンセル・エリントンに心を込められた、人形です」
「人形?」
男の顔が疑わしげに歪む。
突き付けられていた剣が下ろされ、ほっと息をついたのも束の間。男が一歩近付き、そして剣を振り上げる。その切っ先が、オフィーリアのスカートを縦に切り裂いた。
破れた生地の隙間から覗く足を見て、男は鼻を鳴らした。
「どこからどう見ても人間のようだが。つくならもう少しまともな嘘をつけ」
馬鹿にしたような彼の言葉は耳に入らず通り過ぎていく。オフィーリアは唖然と自分の足を見下ろしていた。どうしてここに人間の足があるのか理解できない。つい数分前、この男が目の前に現れるまでは、この体についていたのは動くたびにキシキシと音のする丸い関節の付いた人形の足だった。
マンセルの声が蘇る。何度も何度も謝りながら、「お前をひとり残して逝くのがつらい」と泣いたマンセルの声が。
「……マンセルは死を悟り、ひとり残される私を哀れに思って、私に魔術を施しました」
器である人形の体が形を保っている限り、心が死ぬことはない。この深い深い谷底にある小さな森には旅人どころか悪党すら寄り付かず、長い時間をかけて体が朽ち、一緒に心が朽ち果てるのを、ずっとひとりきりで待たなければならなかった。
なのでマンセルは、残り少ない力を振り絞りオフィーリアに魔術を施した。
「誰かに愛されると、心だけでなく身も人間になる術を」
男が目を見開く。地面を向いていた剣の切っ先が、またオフィーリアを指した。
「俺がお前を愛したとでも?」
「マンセルの魔術は完璧です」
「くだらん」
吐き捨てるように言って、男は剣を鞘へ仕舞った。外套の下、美しい刺繍が刺されたスーツの内ポケットを探って、取り出した手紙をオフィーリアの眼前に突き付ける。
「俺はシリル・エリントン。マンセル・エリントンの孫であり、正式な後継者だ」
シリル。よく知っている名前だった。マンセルが遠い街にいる家族と鳥を使ってやり取りをしていた手紙で、一番よく見た名前だ。直接名前を聞いたこともある。マンセルは嬉しそうに、シリルがどれほど優秀な魔術師かを話していた。
ようやく合点がいった。顔も声も偶然似ていたわけではない。血縁者だったのだ。
「祖父から手紙が届いた。近いうちに死ぬだろうから、俺を後継者とし魔術の書物や研究資料全てを相続させると」
シリルの持つ手紙を斜め読みする。確かにそれはマンセルの字で、シリルが言った通りのことが書いてあった。こんな内容の手紙を出したことは、オフィーリアは聞かされていなかった。
手紙を仕舞って、彼は尋ねる。
「……祖父はどこにいる」
その視線から彼はもう分かっているのだろう。上手く動かない腕を伸ばし、彼が見つめる大きな石に触れる。墓石の代わりに置いた、名前も刻まれていない石だ。
「こちらに」
灰色の瞳が震える。悲しみに染まるのかと見ていたが、彼は細い息を吐いて、大きく視線を逸らした。
「書物と資料を引き取りに来た。祖父に囲われていたのか知らんが、この屋敷は放棄する。住みたければ住めばいい」
言うだけ言って、シリルは踵を返す。
「待ってください……」
彼を止めようと足を踏み出したが、思っていたより人間の足の可動域が広かった。よろけて小さな悲鳴と共に地面に突っ伏す。
どこにどう力を入れればいいのか分からず、起き上がることができない。
「まだ人形ごっこを続けるのか?」
また馬鹿にするような声が降ってきて、オフィーリアはシリルを見上げた。
「マンセルの日記を読んでください。一番古い日記です。そこに私のことが書いてあります」
手を突っ張って上半身を起こそうとしたが、肘が震えて上手くできない。さっきまでどうやって座っていたのかも分からなくなってしまった。体がバラバラになってしまったようだ。
シリルは眉をひそめてそれを見下ろしてから、黙ったまま屋敷へ足を向けた。しかし少し歩いて立ち止まる。くるりと振り返った顔は忌々しげに歪められていた。
彼はオフィーリアの元に歩み寄ると、その腕を掴んで引っ張り、湿った落ち葉と泥の上に伏していた体をいささか乱暴に座らせた。
「……ありがとうございます」
礼を言うオフィーリアにちらりとも視線をやらず、シリルはさっさと屋敷の中へ消えた。
ぼんやりと、彼のいなくなった空間を見つめる。布越しだったというのに掴まれた腕はまだ熱い。人間の体はこんなにも熱いものらしい。
散らばったバラを一本ずつ指で摘まみ上げていく。驚くほど柔らかい人間の肌に棘が刺さらないように、注意深く全て拾い上げた。それを墓石に供える。
ざらざらの石の表面に触れてから、オフィーリアはさらに長い時間をかけて立ち上がりシリルを追いかけた。
鏡に触れる。
屋敷に入ってすぐ、壁に立てかけてあるだけの木枠の鏡には、驚いたように目を真ん丸に見開いている人間の女が映っていた。
自分の頬に触れる。鏡の中の女も頬に触れた。
瞬きもできる。口を開くと、その中には歯や舌も揃っていた。
本当に、人間になってしまった。
ずっしりと体が重くなる。顔を上げていられずに、体を見下ろす。着ていた生成色の服は悲惨な見た目になってしまったが、シリルの剣がよく砥がれていたのが不幸中の幸いだ。布は一直線にきれいに裂けていて、簡単に繕えるだろう。
緩く波打つ髪にはいつの間にか泥がこびりついていた。スカートについていた枯葉を払って、足を絡めて転ばないようにおそるおそる歩を進め、自室に戻る。
時間がかかったが服を着替えて、キッチンの井戸のそばで汚れた服をたらいに入れる。その中に水を半分溜めた頃には、体を動かすことにもだいぶ慣れていた。歩くたびに足の裏がビリビリと痺れる感覚もほとんどなくなった。
意を決して、シリルがいるであろう書斎へ向かう。
物音もしない部屋をほんの少し開いた扉からそっと覗くと、シリルは立ったまま机の上に置かれた一冊の本を捲っていた。マンセルの日記だ。
マンセルはここで暮らし始めてすぐ、オフィーリアに心を込めた。ふたりで暮らして今年でちょうど二十年。日記は亡くなる少し前まで、毎日欠かさず書き込まれている。
マンセルと同じ声で、シリルがぼそりぼそりと日記を読み上げた。
「……銀の髪に真白い肌。光を灯さない瞳はエメラルドでできている。その美しい人形は、国内随一と謳われた人形師による最高傑作だ。様々な人の手を渡り歩き、私が最後の所有者となった。この森は深く静かで寂しい。私は直に老い、この世を去るだろう。それなのに私は、心に迫る孤独の闇に怯え……人形に心を吹き込むという罪を犯してしまった。この人形は永遠にも思える時を、私が死した後もひとりで生きなければならないというのに」
マンセルは実の娘のように孫のように、オフィーリアを愛した。オフィーリアは人間のような複雑な感情は持ち合わせていなかったが、それでも彼を愛する気持ちは本物だった。
シリルはオフィーリアに気付かずに、一番古い日記を閉じて一番新しいものを開く。ぱらぱらとページを捲って一番最後の日付で手を止め、そして目を伏せた。
マンセルの流麗で美しかった字は歪み、枠をはみ出て見る影もない。その頃には彼は、ほとんど目が見えていなかった。
『私の愛する人形を』
掠れて読みにくい文字はそこで途切れていて、その続きを知る術は永遠に失われた。
扉を開いて、部屋には入らずに声をかける。
「信じていただけましたか?」
シリルが顔を上げる。
彼はオフィーリアを上から下まで何度も眺め、最後に無遠慮に顔を見つめた。長い前髪をかき上げて、彼は日記を閉じる。
「お前が人形だったことは信じよう。だが、祖父の魔術は正常に発動していない」
「マンセルの魔術は完璧です」
同じ台詞を繰り返すと、シリルは顔を顰めた。
「耄碌じじいが死に体で施した魔術なんぞ、信用ならん」
オフィーリアは眉を寄せ、シリルを睨み付ける。
「マンセルは最期まで偉大な魔術師でした。彼の魔術はいつでも正確でした」
「俺はお前など愛していない」
「あなたは強情です」
シリルが日記に拳を叩きつける。
「強情なのはどちらだ。そんなに俺に愛されたいのか?」
「マンセルの魔術を認めろと言っているだけです」
「どうだか。俺の顔は祖父さんに瓜二つらしいな。人形風情が一丁前に、持ち主に恋い焦がれでもしていたんじゃないのか?」
違うと、なぜか咄嗟に言葉が出なかった。マンセルを愛していた。ただそれは、持ち主に対する愛情のはずだ。
言葉に詰まったオフィーリアに、シリルは不愉快そうに言い捨てた。
「似ているのは顔だけだ。残念だったな」
彼が窓の外に目をやる。古いすりガラスの向こうの森は薄闇に包まれ始めていた。
小さな舌打ちが聞こえた。
「お前の相手をしている暇はない。何泊かするつもりだ。先ほども言ったように、この屋敷はお前にくれてやるから好きにしろ」
「……分かりました」
俯いて、スカートをぎゅっと握り締める。
無機物に命を宿す。人形を生きた人間に作り変える。そんな奇跡のような魔術を扱えるのは、この世界に数人といないだろう。そんな実力を持ったマンセルがわざわざこんな回りくどい魔術を施したのは、オフィーリアのためだった。
彼はオフィーリアに選択肢を与えた。
人形として生きたいのなら、このままここにいればいい。そうすれば誰に会うことも、誰に愛されることもない。
人間として生きたければ、街に出ればいい。人間に愛されるために作り出されたこの外見なら、すぐに誰かが見初めてくれるだろうとマンセルは言っていた。街に出るための用意もしてくれていた。
そしてオフィーリアが選んだのは、ここで人形のまま、マンセルの墓石と共に朽ち果てることだった。
それなのにどうして、マンセルはシリルが来ることを教えてくれなかったのか。これでは選択肢の意味がない。
人間になってしまった。もう人形には戻れない。
かたかたと音が聞こえて顔を上げる。シリルが日記を本棚から全て取り出しているところだった。それも持っていってしまうのかもしれない。
心臓の辺りが痛むような気分になる。恐らく、寂しいという感情だ。
「お願いがあります」
まだいたのかとでも言いたげに、シリルは細めた目をオフィーリアに向けた。
「……何だ」
「日記だけは置いていっていただけませんか?」
「駄目だ」
彼は視線を外して、そばの机の上を整理し始める。
「見たところ、日記にも研究の記録がつけてある。全て持ち帰る」
「……分かりました」
なぜか声が震えて、鼻の奥が痛くなって、目の前が滲んでぼやけた。
目から水滴が落ちて、ようやく自分が泣いていることに気付く。
手のひらで涙を受け止めて見つめる。マンセルは涙もろい男だった。感動し、喜び、悲しみ、怒るたびに涙を流していた。彼のものと同じだ。温かな体から流れ出るくせに、とても冷たい水滴だった。
大丈夫だ。悲しむことなんてない。マンセルが残したものなんてまだまだある。
さらに人形ならあと数十年、もしくはそれ以上かかったであろう生からの解放が、人間になったおかげであと数日で済む。悲しみも寂しさもそれまでだ。
もうじきマンセルの元へ行ける。シリルに愛されていようがなかろうが、どうでもいい。
シリルがこちらを見ていることに気付いて、くるりと踵を返す。彼に涙を見られたくなかった。
その理由は、オフィーリアにはまだ理解できなかった。