【第一章】さあ、本音でいきましょう。
頬に冷たいものがあたった。
やっぱり雨かよー。しかも傘忘れたし……と空を見上げて呟いたあと、いや違うと思い直す。
今日は睡眠を貪る予定で、出かけるつもりがいっさいまったくなかったから、たぶんこれは夢だ。
半分覚醒したあたりで、また頬にポタリとあたる。
雨漏り? いやまさかね。
嫌々目をあけると、私の上に上半身裸の人がいた。
「なんで?」
「すっげーどしゃ降り。やべーよ」
「おめーがやべーよ」
ずぶ濡れの髪の毛からポタポタと滴が私の頬に落ちてくる。
ぎし、とベッドが軋んだ。
いやー……クソほどイケメンだよなぁ。
まさかこれほど顔面偏差値のヤバい男がテレビの中以外にもいたとは。
なにを食べて育ったらこんな顔になるのだろう。
薄くあけた唇がゆっくりとおりてきて。
私は両手を伸ばした。
彷徨う片方の手を包み込んで、指が絡められる。
もう片方の手は、彼の頭のうしろへまわす。
いつもは柔らかい、今はずぶ濡れの髪に触れ、そっと引き寄せて。
「せいやっ!!」
ゴンッと鈍い音がして、イケメンは悶え苦しんでいる。
しまった。もう少し加減すればよかった。
軽い脳しんとう状態に陥った私は、うつ伏せになって枕に額をあてて呻く。
「百歩譲って頭突きはいい。なんだよその〝せいやっ〟って。女の子って、えいっとかじゃないの?」
「頭突きはいいのかよ」
私は真顔で顔面偏差値のヤバい男を見た。
「くっそいてーし」
「だいじょうぶ。私もだよ」
先に回復した私がよろよろと起き上がってタオルを取りに行き、彼の頭を覆って水滴を拭き取る。
せめて拭いてからベッドあがれよ。濡れたじゃねーかよ。まじやめろよ。
ブツブツ文句を垂れ流しながら拭いてやると、彼はタオルのすき間からにこりと笑う。
さて、この半裸のイケメンはどうやって室内に入ったのかを説明したい。
そもそもこの人は私の彼氏でもないし、どちらかというと友人でもない。
どういう関係なのかを語るには、少々時を遡る。
三年ほど前、この家でちょっとした騒動が起きた。
そのときも今も私はひとり暮らしだったのだが、私の家には左手の薬指に指輪をはめたスーツ姿の中年オヤジが月に二度ほど泊まっていた。
その日はたまたま私のスマホが充電切れで、たまたまバイトのピンチヒッターを命じられ、いつもは鍵をあけて招き入れる私が帰宅する前に、たまたま中年オヤジは到着してしまった。
何度電話をかけても繋がらず、私の身になにか起きたのだと勘違いしてパニックになった中年オヤジは、窓をガタガタして開けようとしたり、ドアをドンドン叩いたり、ドアノブをガチャガチャさせて「怜ーー!?」と叫びまくったりしたらしい。
そんなシーンに、隣のマンションに住んでいたこのイケメンが出くわした。
今も当時もそう変わらないが、私は薄ら半目でやや遠目に見たら高校生に見えなくもない童顔だ。
彼はときどきすれ違う私とこのボロアパートを見て「女子高生がセキュリティ皆無の、見るからにひとり暮らしサイズのアパートに住むなんて、きっと気の毒な理由があるのだろう」と最初は思ったらしい。
そのうち、既婚の中年オヤジが出入りしているのを何度か見かけ「犯罪に手を染めなきゃいいなー」程度には気にしていたのだとか。
そしてその日、その中年オヤジが、女子高生の名前を叫びながら狂っている。
ヤバいヤツだと感じた彼は、背後から中年オヤジの腕を捻りあげ、「オジサン、おまわりさんのとこ行こうかー」と声をかけた。
当然、中年オヤジも黙ってない。
「貴様は怜のなんなんだっ!?」と暴れまくる。
そこへ、私が帰宅した。
「きみ、レイちゃん? 高校生なのにだめだよこういうの。一緒におまわりさんのとこ行って謝って、このオジサンと縁をきろうね?」
あぁ、勘違いしているのだなと、すぐに理解した。
「あの……このオジサン、父です。そして私は高校生じゃありません」
「え?」
たしかにとっくに成人している娘の家へ父親が頻繁に泊まりに来るのは、世間的に過保護の域だと思う。
でもほんとうに過保護なのだからどうしようもない。
そっと手を離し、引いた表情で私と父を見て。
彼は素直に謝罪した。
父は大変怒っていたけれど、彼が帰ったあと「今どきの人間なのに見知らぬご近所の身の安全を考えられるとは立派だ」と褒めていた。
要するに、彼のことをいたく気に入ったらしい。
もともと月に二度ほどの宿泊も、電車で二時間もかけてやってくる過保護すぎの父親だ。
彼が近所に住んでいるならしばらくは安心だと、それからは訪問も宿泊も急に減った。
でも私は、真剣に父へ尋ねたい。
どうして合鍵を使わなかったのか。
それと。
「ただの近所住まいの、親戚でもなんでもない男に合鍵を預けるほうがよっぽど危ないぞ」
と、教えてあげたい。
そういうわけで、今日も彼は鍵を使って入ってきて、いつものようにくつろいでいる。
それはいいのだけれど。
「ねえ」
「んー?」
「私のカレーは?」
「食った」
「そうじゃなくて、私のぶんは?」
「食った」
チラリと引きしまった腹を見る。
あの量がここに入っているだと? うそだろ。
「なに、あの地獄の辛さ」
「辛いのがカレーだろ。なに言ってんだよ。返してよ、私の貴重な食料!」
「だってもう食っちったもん」
シンクには空っぽの鍋と汚れたお皿とスプーン。あと、昨日作っておいた温玉の殻がぶん投げられていた。
そして、食べるのを楽しみにしていたパピコを咥えてテレビをつけている。
心底真顔になる。
「ボクシング習おうかな……」
「ああ、ダイエット的な?」
「いや、攻撃力的な」
「それ以上レベル上げてどうすんだよ!?」
「私、レベル最大まで上げて戦うタイプ」
「おぞまし……」
鼻で笑いテレビのリモコンを操作する彼をその場に置いて、私はシャワーを浴びた。
出てくると彼はベッドの上でうつ伏せになって真剣に録画の番組を見ている。
空手家のドキュメンタリー番組だ。
『せいやっっ!!』
テレビから聞こえた声にびくっと体を震わせ、唖然とした顔で画面を指さしながら私を見る。
そうですよ。さっきのアレは、コレですよ。
今度は私が鼻で笑ってやった。