プロローグ
――あれが、帝国の聖女か。
切り立った崖の上から見下ろすダレスの目には、荒涼とした大地に立ち、多くの怪我人に囲まれたひとりの女が映っていた。
純白の長衣に包まれた身体は、女性にしてもかなり小柄だ。彼女が小さく身動きするたびに、白く長い裾が波打つように揺れる。
その肩から背中に流れる髪は、月光のごとき淡い金色。
光のせいで瞳の色まで確認できないが、女の口許には周囲の怪我人たちを安心させるように、穏やかな笑みが浮かんでいた。
「将軍……」
騎乗のダレスは、声をかけてきた配下を視線ひとつで制した。
この距離であれば、多少物音を立てたところで、気づかれることはまずない。
しかし、相手は帝国の切り札とも呼ばれる聖女。
そしてダレスは、その帝国へ反旗を翻したジルヴァルト王国の将軍だ。万が一にも見つかるわけにはいかない。
聖女が砦を出てこの場所に現れた、という報せを斥候から受け取ったとき、配下の制止も聞かず、ダレスはただひとり馬を駆った
普段は帝国軍の要所で厳重に守られている聖女。その姿を自らの目で確かめられる機会など、そうそう訪れるものではない。
これまで幾度となく煮え湯を飲まされてきた相手――その顔を、どうしてもこの目で見たかった。
そしてできることなら、帝国の護りの要である聖女を捕らえたい、と本気で考えていた。
彼女を失った帝国は、士気の低下と共に兵力が半減するだろう。それほど聖女が女神セレスティアから授けられた癒やしの力は強力で、ジルヴァルト王国にとっては脅威だった。
「狙いますか?」
「いや」
優秀な射手なら、ぎりぎり狙える距離だ。捕らえて自軍に引き込むことは無理でも、殺すことなら可能だ。相手を害する力を持たない女でも、存在する限り戦が長引く。
しかし聖女を目にした今では、ダレスはその必要性を感じなかった。
月光のように柔らかな光が、聖女を中心に広がっていく。清らかな光に触れた怪我人たちは、瞬く間にひとり、またひとりと起き上がり、手足を動かせるようになる。
先の戦いで負傷者の多かった帝国軍は、重症者のほとんどを砦の外へ置き去りにした。聖女は彼らをたったひとりで救おうとしている。
驚くべき神の御業だ。
癒やしの力を持つ者は稀にいるが、同時に癒やせる相手はひとりかふたり。最高位の神官たちでさえ、これほどの奇跡は起こせない。
凄まじい、恐ろしいほどの奇跡の力。
怪我が癒えた者たちの歓喜の声が、ダレスのもとにまで聞こえてくる。
ところが光の中心にいる聖女の顔色は、癒やされた兵士たちとは対照的に土気色だ。彼女自身がまるで、命の危機に瀕した重病人のような。
「あれはもう、長くないな」
ふらつき倒れ込む聖女を、傍にいた兵士が慌てて支える。
顔を上げて弱々しく微笑む聖女は、再び祈りを捧げるように指を組み、柔らかな光を放ち始めた。
癒やしの力は、無尽蔵ではない。
奇跡の力はどのような怪我も癒やすことができるが、奇跡を起こした者は肉体的にも精神的にもひどく疲弊する。だからこそ一度に癒やせる人間の数は限られており、無理をすると奇跡の担い手も短命になるという。
聖女の力はダレスの軍にとって脅威ではあるが、あのように後先考えず力を使い続けていれば、彼女自身が使い物にならなくなるだろう。命を削ってまで怪我人を癒やす無償の愛は素晴らしくとも、戦場における聖女の有用性を考えると愚かというより他にない。
帝国は聖女を、使い潰すつもりなのか。
――もったいない。あれが自軍に組みしている女であれば、もっとましな使い方をしてやったのに。
しかしいまさら死にかけの聖女を捕らえたところで、役に立つ可能性は少ない。早晩、彼女は命を落とす。帝国は希代の癒し手を失い、兵の補充に難儀するはずだ。
それまで時間を稼ぎつつ、聖女の死と共に一気に攻勢を掛ければいい。なにも今、聖女殺しの汚名を被る必要はないだろう。
「……胸くそ悪ぃ」
舌打ちと共に吐き出した言葉は、風の音にかき消される。
「はっ? 今、なんと」
「なんでもない。無駄足だった。戻るぞ」
手綱を引き、馬の頭を陣の方向へ向けさせる。
女の死を待ち望む自分自身に対して、思うところはある。
おそらく聖女は、清らかで心優しく、女神に与えられた恩寵を無償で差し出す健気な女なのだろう。
愚かで哀れな死にゆく女。
もちろん敵対する軍に所属する女を、哀れんでやる必要はない。
戦場できれい事を言うつもりはなく、自軍の被害を抑えるためなら、どれほど非道な手であれ使ってきた。
それがダレスの、軍を率いる将軍であり、兄であるジルヴァルト国王に忠誠を誓う王弟としての正義だ。
ただ、ひとりの男としての部分が、自ら進んで命を投げだす無辜の女を見殺しにすることに、良心の呵責を感じる。
女の死を望むなら、顔を見るべきではなかった。
馬の腹に合図を送り、崖の上から離れる。
助けてやる義理はないのだと、自らに言い聞かせながら。
しかし後になって、ダレスはこのときの決断を、永久に後悔することになる。
第一章 帝国の聖女
目が覚めても身体が鉛のように重たい。
リュリュは濡れた目尻を指先で拭うと、浅く息を吐きながらゆっくりと身体を起こした。薄いシーツを敷いただけの粗末なベッドが、ぎしりと音を立てる。
またいつもの悪夢を視ていたようだ。頭の中に薄暗い靄がかかり、鼓動が激しく脈打っている。
今から十三年前。五歳になったばかりの厳しい冬、リュリュは家族を失った。
オルトリア帝国の北にある貧しい寒村を、盗賊の一団が襲ったのだ。
飢えた盗賊たちは金目の物や食料を漁ると、村人を皆殺しにして去っていった。幼いリュリュだけは母親によって飼い葉桶の中に隠されたので、見つからずに難を逃れた。
しかし物心つく前の少女にとって、それは真の救いであったのかどうか。
悲鳴が止んで村を静寂が支配すると、リュリュは家の中に戻り、冷たくなっていく両親と共に過ごしていたらしい。近隣の町から助けが来るまでの三日間、物言わぬ骸となった彼らの傍らで、声をかけながらずっと。
そのときのことを、リュリュは克明に記憶していない。
ただ――ひとりぼっちになり、泣いても叫んでも誰も応えてくれない。その恐怖だけが、胸の奥底に孤独という形で沈殿している。
くり返し視る悪夢の中で、リュリュは常にひとりきりだった。
「リュシエンヌ・シャリエ! 司令官殿がお呼びだ」
閉ざされた小部屋の外から、冷ややかな兵士の声が聞こえてくる。
そのひと声が、ぼんやりと霞んでいた意識を一瞬で覚醒させた。
「すぐに参ります。どうか、少しだけお待ちください」
リュリュは慌てて、重たい身体を叱咤して着替えを済ませた。
ここの砦の司令官は短気だ。機嫌を損ねれば、また殴られるかもしれない。
痛いのは怖い。だけど真に怖いのは肉体的な痛みではなく、用済みとみなされ道具としての価値を失うことだ。
寝乱れた髪をわずかばかり整えると、『リュシエンヌ・シャリエ』と小さく呟く。
自分のものではないような、たいそうご立派な名前だ。孤児のリュリュには、まったく相応しくない。
しかし聖女としてのその名で呼ばれるときだけ、リュリュは自分に価値を感じる。
聖女でいる間は、誰かに必要とされている。ひとりぼっちではないのだ。リュシエンヌ・シャリエでいられるなら、どのような犠牲も厭わない。
そのような決意を固めたリュリュだが、兵士に連れられて向かった部屋で、一本の美しい毒の瓶を与えられた。