序章
しんしんと雪が降る。
体の芯から冷えるような寒さで目を覚ました桃花は、隣にいるはずの気配がないことに気づいて慌てて飛び起きた。
「皓月様っ」
「どうした?」
返事はすぐにあった。
雪の日の朝、隣で眠るつがいが寒がるだろうと、火桶に炭を足して戻ってきた皓月だ。
彼は布団の端に膝をつくと、桃花の顔を覗きこんだ。
「怖い夢でも見たのか?」
厳冬に輝く月のような銀色の髪と、鋭いまなざしの紅い瞳を持つ彼は、男性にしては端正で美しい顔立ちをしている。その美貌に見とれた桃花だったが、まるっきり子供扱いな問いかけを思い出して、ぶんぶんと首を横に振った。
「皓月様が、いなくなっちゃったのかと思って」
目が覚めたときに気配がなくて、びっくりしただけだ。
けれど男には、寂しかったと甘える睦言のように聞こえたらしい。普段は感情の薄い目元がふっとなごむ。彼は桃花を抱き寄せると、新しくしたばかりの綿入れの布団を被って横になった。
「……つがいの傍からいなくなったりしない」
あまりにも甘い声に、一瞬、なにを言われたのかわからなかった。
うさぎ獣人の桃花は、耳の良さには自信がある。聞き間違いなんてしたことがない。それでも皓月にしてはめずらしい、甘い甘い声だったから、自慢の耳を疑ってしまった。
胸の奥がくすぐったいような感情に埋め尽くされ、桃花は幸福なため息をこぼした。大好きな皓月の腕に抱きしめられ、一緒に布団を被ってごろ寝をするなんて、なんとしあわせな朝だろう。
数日前から降り続く雪は、皓月の庵から都へと続く道をすっかり覆い隠してしまった。その道を歩いて皓月が調合した薬を届けに行くのが桃花の日課だが、あまりにも雪が深すぎて昨日より外出できずにいる。
そして皓月も、今日は乾燥させた薬草の整理をすると言っていたのに、桃花を抱いて横になったまま起き出す気配がない。それどころか不埒な彼の指先は、腕の中にいるつがいの衣の合わせ目から差し入れられ、柔らかな肌をそっと探りはじめた。
「ぁ……」
繊細な指の動きにぞくぞくと体を震わせ、桃花は儚く声を上げた。皓月の手がまるで慈しむように、やわやわと胸を揉んでいる。
忍び寄る甘やかな快感と大好きなつがいに触れられているという事実が、うさぎ獣人の脆い理性を溶かしていく。
「寒くはないか?」
やさしい声で尋ねられて、即座に首を横に振った。
寒さ厳しい冬の日の朝。火桶の炭が灰になり震えていたはずの桃花は、つがいのほのかな温もりと彼が与えてくれる快楽に、すっかり肌を熱らせていた。
「だいじょうぶ、ぁ……あっ」
愛撫の手に身を委ね、白い肌を紅潮させて身悶える。
外は一面の銀世界。寒空の下、厳しい冬が広がっている。
けれど暖められた部屋の中で、しあわせなうさぎ獣人はつがいに愛されて悦びに溺れた。ふたりで一緒にいると、すべてが満ち足りたように感じる。
これ以上の幸福があるだろうか。
「皓月さま……だいすき」
込み上げる気持ちを、言葉にして伝える。
可愛らしい告白をされた皓月の手が一瞬止まり、すぐにまた、これまで以上の熱心さで、己のつがいを愛し始めた。
第一章
都でも有数の規模を誇る薬問屋。
往来の多いその店の前で、地面に額を擦りつけんばかりに土下座をしている娘がいた。
「お願いですっ……お金が足らない分は、働いて、絶対に持ってきます! だからどうか、桜病のお薬を売ってくださいっ」
夏の終り。澄み渡った縹色の空の下、娘の声が悲痛に響く。
ツギハギだらけの粗末な着物と、痛々しいほどに痩せた体。
物見高い通行人の視線を気にすることなく、必死に、祈るような面持ちで声を張り上げる娘には、ふわふわと毛が生えた長い耳があった。
そして、血色を映す真っ赤な瞳。
この国ではさしてめずらしくない、うさぎ獣人の特徴だ。
「うるさいっ! 金の無い者には薬はやれんと言っとるだろう。おまけに桜病の薬だと? あんなに高価な薬を、ただ同然でやる馬鹿がどこにいる。あんまりしつこいと、警邏に引き渡すぞ!」
娘の目の前にいるのは、薬問屋の主人である狸の獣人だった。
立派な身なりをして、ちょうど問屋街の会合に出かけるところを引き留められて気が立っている。奉公人がどかそうとしても、うさぎの娘は這いつくばって動こうとしないのだ。
「お願いします、お薬がないと母様が……っ」
「知らん。儂には関係ないことだ。ええい、そこをどけっ!」
強い力で肩を蹴られて、娘はころんとひっくり返る。
狸の獣人はなおもひどい悪態をつくと、奉公人と共に娘の脇をすり抜けていった。
大きな薬問屋の主人であるから、このような事態にも慣れきっているのだ。道理の通らぬことを喚き立て、邪魔をする貧乏娘に辟易していた。
一方、手と膝を擦り傷だらけにして起き上がった娘は、真紅の瞳に涙をにじませた。
狸の旦那が正しいことは、娘もよくよく承知している。
お金がなければ薬は買えない。けれど、薬が買えなければ病にかかった母親が助からない。大切な母を助けたい。だけど貧しいうさぎ獣人にはお金がない。
堂々巡りだ。それでも、娘は貧しくとも愚かではなかった。
大好きな母とまだ幼い弟妹たちの顔が頭にちらついてひどい無理を言ってしまったが、狸の旦那が言うことは正論だ。かくなる上はなんとかお金を工面しようと、思いを新たにしたとき。
娘の目の前に、長い影が差した。
「おい」
艶やかな銀色の髪と紅い瞳。
見上げた先にいたのは、誰もがはっと息を呑むほどの美しい青年だった。
粗末な灰色の衣を着て色落ちした藍の帯を締めているが、衣は襤褸でも青年の美しさは少しも損なわれていない。ため息が出るほどきれいな人だ。
しかし、娘にとっては彼の美しさより、その背に背負う大きな風呂敷包みのほうが重要だった。
芍薬を模した花紋――この国の薬屋を表わす紋様が、青年の風呂敷に印されていた。つまりは目の前の美しい青年も、母を救う薬を扱っているのかもしれない。
薬があれば母は助かる。
でも、お金がないのは変わらない。
娘の瞳にわずかな希望と、そして現実を映す絶望が交互にちらついた。
「……薬がいるのか?」
まるで氷を散らすように冷ややかな声だが、娘にとっては天の恵みのように聞こえた。
「母様が桜病なんです。お薬があればきっと……でも、うちは貧しくて」
桜病はうさぎ獣人特有の病だ。
すべてのうさぎ獣人が罹患するわけではないが、放っておくと死に至る怖ろしい病なので、その存在は広く知られている。
症状としては微熱と咳。
頬がうっすら桜色に染まるような微熱が続き、しかし咳がだんだんとひどくなり、最後には血を吐いて死んでしまう。
その期間、わずか十日程度。
感染するわけではないことだけが唯一救いの、怖ろしい不治の病だった。
――けれど、それはすでに昔の話。
十数年前に特効薬ができたおかげで、適切な治療をすれば命を落とすことはない。
ただし、その薬がとてつもなく高価なのだ。
貧しいうさぎ一家の一年の収入では、とうてい買うことができない。
それでも娘は、どうしても薬が欲しかった。
「お願いです……わたし、絶対にお金は返しますから。どうかお薬を分けていただけないでしょうか。薬をいただけるなら、どんなことでもいたします。絶対に嘘は言いません!」
「……どんなことでも?」
「は、はいっ! どんなことでも!」
祈るように乞うように、娘は地面に手をついて青年を見上げた。
けれどその娘に、他方から投げかけられる声があった。
「やめとけ、そいつ蛇だぞっ」
娘ははっと、声のした方向に顔を向けた。
見るとイタチの獣人が、眉を吊り上げた怖い表情をして、銀髪の青年を睨みつけていた。
周りにいる人々も彼らを遠巻きに見つめているが、美しい青年に向ける視線はどこか怯えが混じっている。
「蛇の薬師だ。ろくなもんじゃない。おまえ、喰われるぞ!」
娘はもう一度、青年を見上げた。
瞳の色は娘と似ているが、青年の種族は怖ろしい蛇族だった。
蛇の獣人の一族は、昔から他の獣人とは離れて暮らしているためか、あまり良い印象で語れることがない。
おまけに十年ほど前、人々を苦しめる中毒性の高い麻薬を流行らせた蛇獣人がいたので、彼の一族はすっかり嫌われ者だった。
しかし青年が蛇獣人であることくらい、娘も最初から気がついていた。
それでも、唯一声をかけてくれたこの青年に、すがりたいと思ったのだ。
青年は表情ひとつ変えることなくイタチに視線をくれると、そのまま踵を返して歩き出してしまう。
娘は慌てて立ち上がり、彼の後を追いかけた。
「待って! 待ってください。お約束は違えません、どうかお薬を……」
「……物好きな娘だな。聞いていただろう。蛇の薬師が信用できるのか」
感情のない硬い声に、拒絶されたような気がした。
でも、ここで諦めるわけにはいかない。母親の命がかかっているのだ。
娘は力いっぱい、頭を縦に振った。
「信じますっ……だって、声をかけてくださった方だから」
彼以外、頼る人がいないということもある。
桜病の薬が高価なのは、その希少性に起因している。うさぎ獣人のみがかかる稀な病の特効薬であるため、大量生産されず流通もしていない。
狸の旦那の薬問屋には在庫があると聞いて駆けつけたが、そこいらの薬師が簡単に用意できる薬ではないのだ。
それでも、声をかけてくれた青年を信じたい。
娘の必死なまなざしから目を背けると、蛇獣人の青年は小さくため息をついた。
「……なら、ついて来い」
心配そうに見つめる人々の視線を振り切るように、うさぎの娘は蛇の青年の背中を追いかけた。
姫兎、といううさぎ獣人の種族がいる。
獣人の特徴を表わす耳は真っ白な毛に覆われ、瞳は血の色を映して赤い。一般的なうさぎ獣人よりも小柄で力も弱いが、色素が薄く見目の良い、非常に美しい一族だった。
山奥の村で家族とひっそりと暮らしていた桃花も、そんな姫兎族のひとりだ。
貧しい暮らしのせいで体は痩せ、みすぼらしく見えるが、顔の作りは悪くない。
大きくてくりっとした赤い瞳。毎日、冷たい川の水で清めている真っ白な肌。唇は桃の花びらのようにふっくら可憐で、それになんといってもうさぎ獣人の特徴である純白の耳がたいへん美しかった。
桃花はその可愛らしい顔を涙でくしゃくしゃにして、丁重にお礼を告げた。
「ありがとうございます、桜病のお薬……このご恩は一生、忘れませんっ」
お礼を告げる動作に併せて、白い耳がふわりと揺れる。
蛇の青年が暮らす街外れの庵に案内された桃花は、小さな土間でしばらく待った。
奥から戻ってきた青年が手にしていたのは、白い薬包。彼はもったいつけるでもなく、薬の包みを桃花に渡した。
この薬が、桜病の特効薬らしい。
桜病は薬さえ飲めば、たちどころに良くなる病だ。
桃花にとっては手の中にある小さな薬包が、大切な人の命を救う奇跡に等しい。
「礼はいいから、早く持っていけ。母親が待っているんだろう」
美しい蛇の青年は億劫そうに言い放つと、大きな瞳に涙をにじませて喜ぶ桃花から背を向けた。
土下座するうさぎ獣人を哀れんで声をかけてくれたものの、それ以上彼女に関わる気はないらしい。
しかし桃花には、まだ話さなければいけないことがあった。
「あの、お代は」
そう、代金の話がまだだった。
桃花の懐にある包みには、いくばくかの金子が入れられている。
家中からかき集めたなけなしのお金だ。もちろん桜病の薬を買うにはまったく足りないけれど、保証金代わりにはしてもらえるだろう。
ところが青年は、興味なさそうに首を振った。
「必要ない。以前に頼まれて用意していた薬の余り物だ。それに、桜病は体力を消耗するからな。金があるなら滋養のあるものでも食べさせてやるといい」
「そんな、だめです! こんな高価な薬、ただでいただくわけにはまいりません」
桃花のような貧乏うさぎでも知っている、非常に高価な薬なのだ。
貧しい桃花だが、ただで貰うつもりは毛頭ない。狸の旦那に、お代は必ず払うと誓った言葉も嘘ではなかった。いまはない。だけど頑張って働いて、本当にお代を届けるつもりだった。
ふるふると頭を振ると、純白の耳も一緒に揺れる。
桃花の目の前で、銀髪の青年は鬱陶しそうにため息をついた。
「……なにも、ただでやるとは言っていない」
低い声で呟くと、青年はくるりと振向いた。
暗く輝く紅い瞳が、無防備な姫兎をじっと見つめる。
桃花はなんだかよくわからないけれど、心臓が掴まれたみたいに胸が苦しくなった。
喉の奥がヒリつき、呼吸がはっはと短くなる。
怖い。まるで蛇に睨まれた蛙みたいだ。
うさぎ獣人の桃花にとって、蛇獣人は本能的に怖れてしまう種族だった。彼自身がなにかをしたわけではない。むしろ桜病の薬をくれた良い人だ。おまけに顔貌がとても美しい。
それでも、いくら容姿が美しくても、蛇獣人にじっと見つめられるとうさぎ獣人の桃花は萎縮してしまう。
「金はいらない。代わりに、体で返してもらおう」
「カラダ……?」
「俺の薬が効いて、おまえの母親が良くなったと判断したら……今度はおまえがここへ戻ってきて、俺のために働くんだ」
桃花は赤い瞳を、まん丸くした。
白い耳が頼りなく揺れる。
「でもわたし、なんにも取り柄がないうさぎです。働くと言っても」
「……おまえも雌だろう。わからないか」
桃花の頬が、ぼぼっと火のついたように真っ赤になった。
さすがに青年の言わんとしていることを察せられないほど、そこまで鈍感なうさぎではない。
桃花には弟や妹がたくさんいるし、出稼ぎに出ている父親が帰ってくると、母親はすぐに新たな子供を身籠もった。身籠もりやすいのはうさぎ獣人の特徴だが、貧乏人の子沢山一家なのだ。
発情した獣人がどうやって子供を作るのか、知らないわけではない。
「姫兎は抱き心地がいいらしいからな。俺が喰ってやる」
青年の声が淡々と響く。
桃花はぎゅっと目を閉じると、大きく深呼吸した。
薬包を握る右の手が震えた。
大事な大事なお薬だった。この薬があれば、母親は恐ろしい病から解放される。弟妹たちは喜ぶだろうし、出稼ぎから戻ってきた父親も、きっと桃花を褒めてくれる。
なんとしてでも手に入れたい、大切な大切なお薬だ。
それに桃花は成人している。
早熟なうさぎ獣人なら、すでに子供を産んでいてもおかしくない年頃だ。
だから、自分のことは自分で決める。
狸の旦那から薬を買うには金が要ると言われたときも、金子を得る手段として、身売りを考えなかったわけではない。取り柄のない桃花には、それくらいしかまとまったお金を手にする方法がないからだ。
――だから、大丈夫。
喰われることはちっともいやではない。
たとえ相手が、本能的に恐怖を感じる蛇の獣人であっても。
「わかりました。母様が回復したら必ずこちらに戻ってきます。そして、誠心誠意、ご恩をお返しします」
もし母親が救われるなら、どんな対価だって桃花は払う。大切な恩人にこの身を捧げることを、厭う理由などどこにもなかった。彼は、桃花にとって救世主なのだから。
心を決めた姫兎は、蛇の青年をまっすぐに見つめる。
その純粋すぎるまなざしに、青年は居心地悪そうに顔をしかめた。
「……精々、親孝行してこい」
「はいっ!」
母の病が癒えたら、この美しい蛇獣人に喰われるために戻ってくる。
大丈夫――桃花は正直だけが取り柄の善良うさぎだ。約束を違えることなんて絶対にしない。心を決めると、気持ちはすっと楽になった。
その日のうちに、桃花はもらったばかりの薬包を大切に握りしめて街を出た。
街から、山奥の村までは二日ほどかかる。すぐに戻ってきても四日がかりだ。それでも必ず戻って、恩人に感謝の気持ちを伝えるのだ。
若い姫兎を散々脅して見送った蛇獣人が、彼女が戻ることをちっとも信じていないことに、単純な桃花はまったく気づかなかった。