【第1章】
濡れた音が部屋に響く。
この音がどこから出ているのかなんて考えたくなくて、私は目を閉じた。けれど、視覚が遮断された分、他の感覚が敏感になっている。少し中をこすられただけで腰が浮いて、もう声も抑えられない。
「あぁっ! んっ、んうっ……」
「だから声、我慢するなって」
「ん、やっ、あっ」
男の長い指が私の中をこすりながら、出たり入ったりを繰り返した。その度に指がどんどん奥まで届くようになって、ぐりぐりと、掻き回すようにっ……。
「ほら。愛液が出てるの、自分でも分かるだろ?」
「わ、わからっ、な……あっ」
「意地っ張りだな。こんなに濡らしておいて」
男の言葉に涙がにじんだ。羞恥で顔が熱いのに、それ以上に、触られているところが熱い。
分からないなんて言ったけれど、本当は奥からとろとろしたものが溢れているのが分かる。足を閉じることもできず、美貌の男を睨みつける。
すると、ぬるん、と指が出てまた恥ずかしい声が出てしまった。代わりに、入り口に硬いものがあてがわれる。それが何か分からないほど、私は初心ではない。
触れた部分が熱くて、そこから身体が溶けてしまいそうなほどだった。
男は血のように真っ赤な目を細めて、私の目尻に溜まった涙を指で拭った。
「いつまでも変な意地張ってないで、身体の力を抜いておけ」
「んっ……!」
先端が、ぐぐっと入り口を押し広げて入ってくる。指よりもはるかに太いそれに広げられて、不思議と痛くはないのに、また涙がにじむ。
「……いくぞ」
「っ……」
――ああ、私、ついに処女を失うんだ。
私を組み敷くこの男は本物の悪魔。私が呼び出して、親が遺した会社の借金をなくしてほしいと願った。悪魔は望みを叶えてくれた。この悪魔に処女を捧げることを、対価として。
*
私、エルフリーデ・シュヴァルツは王国の北にある領地で、温泉の湯元を所有している家の娘だ。まだまだ認知度の低い温泉をお父様とお兄様が国中に広めようとしていた――半年前までは。
半年前、両親とお兄様を乗せた馬車が事故に遭った。はるか下の川へ転落して、誰ひとりとして助からなかった。
家族を一度に亡くした私には、家と会社だけが残された。
葬儀を終えて家の整理をしていた私はすぐに、会社に借金があることを知った。それも、結構な額だった。
お祖父様の代にできた借金らしい。お父様が少しずつ事業を整え、お兄様が手伝うようになってからは順調に返済していた。
「お父様……どうして、何も教えてくれなかったの……」
うちに借金があるなんて一言も聞いていない。けれどそれは、家族が私のために言わなかったのだろうとすぐに分かった。
私には婚約者がいる。相手はこの地方を治める領主の跡取り息子だ。会社を経営していてたくさんの使用人も抱えている我が家だけど、あくまで平民であることを考えれば破格すぎる話だった。
私は昔から不美人で、特別愛想が良いわけでもないので、なぜ婚約することになってしまったのかさっぱり理由が分からない。
相手が相手だけに簡単に断れる話ではなかったのだろうけれど、先方から望まれるままに婚約は成立してしまった。けれどいつか破棄したいと思っていた。
取り立てて頭が良いわけでもなかったけれど勉強して、手に職をつけて、いつか家から出てひとりで暮らすつもりだった。家族もそれを察していたのか私には好きなことをさせてくれていたし、家業のことも何も話さなかった。
順調に返済できているとは言え、借金が私の足かせとならないように。きっと、そのつもりだったのだ。
「お兄様……私、温泉のこと何も分からないよ。どうやって借金を返したらいいか分からないよ……」
このまま会社を畳むことも考えた。けれど使用人にまとまった額の退職金を払えるほどの余力がなかったし、何の実績も持たない私ではまともな紹介状を書いてあげられない。
今まで通り経営を続けて、同じくらいの売上を得ることができれば、借金も少しずつ返していくことはできる。……でも、それが私にできるのか、自信がなかった。
そんな時に現れたのが、年に一回顔を合わせるかも分からない、婚約者のマルティン・フォン・グリュンテだった。
久々に会ったマルティンは全ての借金を帳消しにし、会社の経営を助けると言った。婚約者なのだから当たり前のこと。ただし、今いる使用人は全員解雇すると。
「借金を帳消しにしてやるのに、その上退職金なんて出せるわけない。紹介状も書けない。僕は君のところの使用人たちなんて知らないからね。紹介のしようもないからさ」
婚約者とはいえ顔を合わせることもめったになければ、手紙のやり取りをしたこともない。話していて楽しいとか安らぐとか思ったことはなく、むしろ価値観の違いに将来に不安を募らせていくだけの相手。
どうせ政略結婚みたいなものだからと耐えてはいたけれど、この状況で笑いながら言ったマルティンに、すっと冷えていくものを感じて……思わず言ってしまったのだ。
「大切な使用人は誰ひとり解雇させません。借金は私が返します。あなたの力は借りません」
「借金が焦げ付く前に僕を頼りに来るんだよ」
私の言葉に、マルティンは一瞬きょとんとしたような顔をしたけれど。やれるものならやってみろとでも言いたげに笑いながら、帰っていったのだった。
ああ言ったからにはやるしかない。事実、使用人を路頭に迷わせないためにはこうするしかない。
幸いなことに退職金とまではいかなくても、数ヵ月分の給与を支払えるだけの現金なら残されている。使用人のみんなに頭を下げ、それでも残ってくれた人たちと今まで通りの経営を続けようとした。
けれど実際のところ、そう上手くいくはずもない。一度借金の返済が滞ってしまってからは、坂道を転がり落ちるかのようだった。
明日までに滞納金を支払わなければ、抵当となっているこの土地の権利が元締めに移る。そしてこの元締めというのが、グリュンテの一族が経営している金融会社だった。ここの繋がりが分かった時にようやく、私の婚約の本当の理由も理解した。
土地と、付随する温泉。そして私が、借金の担保となっていたのだ。
孫娘を抵当にしてまで借金するなら、相手をもっと選んでほしかったよ、お祖父様……。
「お願いお母様……助けて……」
正直、首を吊って家族の元にいきたい気分だった。そんなことをしても残される使用人たちに何も良いことがないから、しないけれど。
そうやってお父様の執務室で家族に祈り、眠れない夜を過ごしていた時のことだった。整理整頓する暇もなく散らかり放題だった部屋の隅で、本と書類の山が雪崩を起こしたのだ。
しばらく無視していたけれど、借金のことを考えていてももうどうにもならないので、現実逃避のために雪崩を整理することにした。
雪崩の内訳は、経営の本、地質学や薬学の本、使用人からの報告書に、見ると落ち込む財務諸表。そして、何やら異色な革張りの本だった。四隅は金具で補強されている。
「なんか嫌な感じの本ね」
表紙にもよく分からない文字が書かれている。適当に開いてみた中身の文字も読めなかったけれど、あるページで手が止まった。なぜか、この見開きだけ読める文字で書いてある。
「……ますます気味が悪い」
本を閉じて……すぐにまた開いた。閉じる直前に目に入った文字が『悪魔召喚』に『願いを叶える』だったから。マルティン以外なら何にでも縋りたい気分だった私は、もう一度開いたそのページを熟読した。
「こんなものかしら?」
数時間後。
ソファや雑多なものを動かして無理やり作った空間に、インクで悪魔召喚の魔法陣を描いた。その真ん中に立ち、ペーパーナイフの尖った先端で人差し指を刺す。ぷっくりと血が出てきたので、傷口を下に向けてぎゅっと圧迫した。
ぽたりと一滴の血が落ちる。
この本によれば、魔法陣を描いたらその中央に立って血を垂らし、悪魔の名を呼ぶだけで良いらしい。しばらく待っていると背後から悪魔がやって来るので、願いを叶えてもらえるように交渉すればいいのだとか。
「フィストス――――なんてね」
本気で神にも悪魔にも縋りたいと思っていた。けれど、こんなものはただの現実逃避だ。魔法陣が割と簡単で、手軽にできると思ったから少しやってみただけ。
我ながら非常に気味の悪いことをしているという自覚はある。
「やれやれ……」
お茶でも飲めば少しは落ち着くかもしれない。そう思って魔法陣から出ようとした瞬間、背中を冷たい風が撫でた。驚いて振り向こうとして……動きを止める。
――悪魔召喚中は、絶対に振り向いてはいけない。
本に書かれていたことを思い出す。
――悪魔は背後からやって来る。悪魔が魔界の階段を登り地上に現れる時、冷たい風が吹く。
まさか。だって、こんなのただのいたずら本みたいなものでしょう? 昼間は温かくても夜は冷える。きっとどこか、窓を閉め忘れただけ。
早く窓を閉めて……それで……。
『――望みを言え』
「ひぎゃあああああっ!」
だから、聞こえるはずのない低い声が響いた時、私はとんでもない悲鳴を上げながら、文字通り飛び上がった。叫んで、逃げ出そうとして、足を止める。
――契約が結ばれるまで魔法陣から出てはいけない。魔法陣は悪魔を呼ぶためだけではなく、悪魔から契約者を守るためにも必要なものである。
本にそんなことも書いてあったことを思い出したから。冷や汗が出る。
出たらどうなってしまうの……。どうしてそこまで書いておいてくれなかったの……。
『望みを言え、人間』
「え、あ……」
低い声が冷気を伴って背中を撫でているかのようだった。
やっぱり、これ、悪魔の召喚に成功しちゃってる。ただの現実逃避のつもりだったのに、後ろに悪魔がいるらしい。悪魔に声をかけられたら振り向いてもいいって書いてあったような……。
意を決して振り向いてみる。そこには霧のようなもやもやしたものがあるだけで、想像していた何かがいるわけではなかった。けれど私の息は一瞬、止まった。
その霧がゆらゆらと動きながら、陽炎のように人の形を象っていたから。
「っ、あなた、悪魔、なの? 大悪魔フィストス?」
『いかにも』
「願いを、叶えてくれる?」
『対価があるならば、何でも』
「何でも……」
ゴクリと喉が鳴る。願うならば借金の返済をと思っていた。けれど今、この悪魔は「何でも」と言った。
『お前が願っていることを言え。富か? 名誉か? 全智でもいい。魔法の力を与えることもできるぞ。それに――死者を蘇らせることも』
人の形をした霧が嗤う。目を細めて、口を歪めて。まるで私の考えることなどお見通しだとでも言うように。
『何でも言ってみろ。望みのままに』
「望み……」
言えば、家族が戻ってくるのだろうか。実際に悪魔が目の前にいるのだから、できるのかもしれない。優しかった両親に、少し意地悪だった兄に、また会えるのかもしれない。
……会いたい。あの日、すぐに帰ってくる予定だったから、簡単な見送りしかしなかった。
次に会った時は冷たくなっていて、少しも動かなくなっていた。全身を覆う布を取ってはいけないと言われたから、最期に顔を見ることも許されなかった。
指にはめられたままだった両親の結婚指輪や、布からはみ出る髪色が、紛れもなく家族のものだった。ただ、それだけだった。
『ほら。望みは? 何を願う?』
「…………」
『せっかく悪魔を呼び出しておいて、だんまりか?』
悪魔の言葉に首を振った。それは違う。
これが夢だったとしても――私は願わずにはいられない。
「……借金を、返済したい」
お父様。お母様。お兄様。
会うのはいつか、私が同じ場所へ行った時に。その時は、なんで急に死んでしまったんだと文句を言わせてください。
今考えるべきなのは目の前の借金のことだ。お父様たちが戻ってきたとして、明日までに返さなければいけない借金を工面できるはずがないのだから。
借金さえなくなれば少しは時間が稼げる。経営を安定させて、マルティンとの婚約をどうにかする方法を考えないと。
『借金? 金か』
「そう。全額よ。負債をゼロにしてほしいの」
『いいだろう。では対価として寿命を貰おうか。五十年』
「五十年は多すぎるでしょう」
私はもうすぐで十九歳だから、八十歳まで生きるはずだとしたら、もう折り返し地点を通過してしまっている。
『なら四十年』
「だめ。というか、寿命はあげられない」
事業がいつ落ち着くかも分からないのだから。誰かに後を引き継ぐにしても候補すらいない今の状況では、寿命が何年あったって足りないと思う。だから寿命を縮める系のものは却下する。
『なら、美術品は何かないか? 最近の人間界ではどういうものが流行っている?』
「うちに金目のものはないの。ごめんなさい」
売れるものは売り払い現金に変えてしまった。それでも足りなくなって、今に至る。
『……願いを叶える気がないのか?』
「あるわよ! だから切羽詰まって、悪魔召喚なんてやっちゃったんだから!」
正直なところ対価のことなんて全く考えていなかった。現実逃避のために冗談で試してみた悪魔召喚だから、まさか成功するなんて思ってなかったし。頭にあるのは借金のことだけだったし……。
『では処女を貰おうか。お前のその匂い、まだ処女だろう』
「それだ!」