一日目
朝、ケイティが目覚めると、そこは知らないベッドの上だった。
ブランケット一枚を頼りなく引っ掛けただけの自分の裸体。妙に気だるい全身。じっとしていても違和感のある足の間の、奥の部分。
上半身を起こして見てみれば、ただ眠っただけではこうはならないだろうと思うほど、シーツがぐちゃぐちゃに乱れている。
素肌を隠すためにまとったブランケットからかすかに覚えのある香りが漂って、一気に目が覚める。香りと連動して、じわじわと昨晩の記憶が蘇ってきた。
「…………」
ひどく酒に酔ったかのようにおぼろげで、断片的にしか覚えていない。しかし、おぼろげだろうが断片的だろうが、全く覚えていないわけではない。
ケイティは頭を抱えた。
「……どうしよう」
掠れた自分の声に驚くと同時に、部屋の扉がノックもなしに開く。
「起きたのか」
顔を出したのは、おそらくこの部屋の主――昨晩の記憶の中にいる人物だった。
ジーク・ハイン。
色素の薄い金の長髪に、透き通った水色の瞳。職業の割には引き締まった長躯。滅多にないほど容姿に優れ、魔法自然学会の若き天才と呼ばれる頭脳の持ち主。さらには、実はやんごとない家の生まれであるとも噂されている。
そんなジークに言い寄る女性――時には男性もいるらしい――は後を絶たず、そのほとんどと最短一夜からの関係を持っているのだとか。
「朝食を作ってるから。先に風呂に入ってきたらいい」
ジークは素肌にブランケットを巻きつけるケイティに向かって淡々と告げた。このような状況には慣れているのだろう。
女性なら来る者拒まずとまで言われるジークではあるが、ケイティのことは嫌っているはずではなかったのか。生物学上は女でもきっと自分だけは拒まれるだろうと、むしろ安心して一緒に仕事をしていたはずの相手だったのに。
「風呂はここを出て左の突き当たりだ」
「あ、はい……」
昨晩、誰と、何をしたのか。なぜ、嫌われているはずのジークの家で、目が覚めたのか。
それをはっきりと思い出したケイティは、起きたばかりだというのに、気絶しかけた。
***
研究助手のケイティはその日、煮えたぎる鍋をひたすらに混ぜていた。本来ケイティの仕事ではないが、人手不足のため応援に駆り出された形だ。
しっかり煮詰まるまで混ぜ続けて、解放された時には終業時間が過ぎてしまっていた。手厚く礼を述べられながら魔法薬開発研究室を後にし、自身の所属する魔法自然学研究室へ足早に戻る。
薬研へ応援に駆り出される直前、先輩研究員であるジークに「後で少し話があるから」と言われていた。この時間なのでもう帰宅してしまっているかもしれないが、万が一待っていたらと思うと小走りになる。
うっすら額に浮かんだ汗を拭いながら自然研の扉を開けると、金の長い髪が揺れた。
「先輩、お待たせしました」
「……おつかれ」
誰もいなくなった研究室に、ジークだけが残っていた。論文の執筆に行き詰まったかのような表情で椅子に腰掛けている。
ケイティの席はジークの隣だ。机の上には『応援おつかれさま! 先に帰るけど、冷たいお茶を用意しておいたから飲んでね』と同僚からの書き置きがあった。
熱い鍋を前に一汗かいたところなので、同僚の配慮がありがたい。
(あ、これね)
見てみれば、ケイティの机の端にグラスが置いてある。半分はジークの机にはみ出てしまっているが、同僚が用意してくれたのは、このお茶のことだろう。
身体が水分を欲していたので、ためらうことなく一気に飲んだ。
知らない味のお茶だった。少し甘みの強めな薬草茶といった感じで、まったく冷たくない常温だが、乾ききった身体に水分が染み込んでほっとする。
空になったグラスを置いて、さて先輩の話とは、と視線を移すと、ジークは目を丸くしてケイティを凝視していた。
「どうかしましたか?」
「それ、俺のなんだが……」
「えっ!?」
ジークが指差すグラスは、つい今ほどケイティが飲み干したものだ。
ジークの机にはみ出てしまっていると思ったのは間違いで、元々ジークの机に置いていたものが資料に追いやられていくうちに、ケイティの机にはみ出てしまったらしい。
「す、すみません! すぐに淹れ直します!」
「いや、いい。そのままで……それより、何ともないか?」
「何とも?」
「体調に異変は?」
「ないです」
その言葉に何故か、ジークは訝しげな顔をした。そして、突拍子もないことを言い始める。
「……室長についてどう思う?」
「ええ? 急ですね。室長は立派な方だと思います。研究員としても、上司としても」
自然研室長のダリスは、ジークとケイティの直属の上司だ。研究員としては若手の部類だが、室長に抜擢されるほど優秀な人物である。
研究以外はてんで駄目、という研究員にありがちな短所はなく、よく部下をまとめ導いている。いずれ所長になるのは自然研のダリスだともっぱらの噂だ。
「他には?」
「えーと、穏やかな方ですよね」
「後は?」
「じ、字が綺麗、とか? たまに寝癖が付いてるな、とか……」
「……」
今度はケイティが怪訝な目をジークに向ける番だった。何が聞きたいのかさっぱり分からない。
「じゃあ、俺のことは?」
「えっ?」
予想もしていなかった突飛な質問にケイティの声が裏返る。
「俺のことは?」
「え? えっと」
念を押すようにもう一度問われて、しどろもどろながら答えた。
「……研究者として、尊敬してます、とても……」
ケイティが研究の道を志したのは、ジークの書いた論文がきっかけだった。だから憧れてさえいる。
しかし人間性はちょっとどうかな、とは口にできなかった。
ジーク・ハインという人間は、仕事ができて、顔もいい。
その事実は本人も正確に認識している。だからなのか、相対的に相手を見下す節があった。
本人は気を付けているつもりらしいが、自分基準でしか発言しないので、結果として相手の神経を逆撫でしているのである。
また、大体の人間に対しては敬語なのだが、それもただの慇懃無礼のような感じになっている。
にもかかわらず、この男は研究所内外問わずそれはもう大層女性にモテる。
ケイティもジークが貴族風の美人女性に告白されている場面を目撃したことがある。噂によれば「来る者拒まず去る者追わず」らしいが、果たしてあの女性とも関係を持ったのだろうか。
さらなる噂によれば、同性に言い寄られることもあるらしいのだが、真偽の程はケイティには分からない。なぜならケイティはジークに嫌われているから。
そういうことにおいては数少ない、拒まれる側の人間なのである。
ジークは妙に多いケイティの会話の間から言葉にしていない何かを察したのか、難しい顔をして彼女を見つめていた。
「……」
「…………」
気まずい。
ケイティは視線をそらした。
「あの、この質問は一体……?」
「お前が飲んだのは俺が作った薬だ」
「ええっ! 何の薬ですか!」
「大したものじゃない。というか、たぶん失敗してる」
薬の効果が出てしまっていないか確認のための問診だったらしい。
製薬が専門外だからといって、素直に失敗を認めているのは珍しいことだ。
「後で自分で飲むつもりで放置してたんだ。悪かった」
「い、いえ」
「念のため緩和剤でも作れないか確認してくるから、そこで待ってろ」
「はい……」
この天上天下唯我独尊かと言わんばかりの先輩が「悪かった」と謝罪を口にした。
驚くケイティを尻目にジークが立ち上がると同時に、研究室の扉が叩かれる。顔を出したのは先程までケイティが派遣されていた薬研の美女、ベルミナだ。
「ねぇジーク、ちょっといい?」
「ちょうどよかった。俺もお前に用がある」
そんなことを言いながら、二人は連れ立って研究室の外に出ていた。廊下で何やら話している声が聞こえるが、会話の内容までは聞き取れない。
ジークと同期のベルミナは研究所で一番の美人で、浮名の多いジークの本命だと言われている人物だ。実際気安い仲のようで、慇懃無礼な敬語は使わないし、お互いを名前で呼び合ったり、二人で会話しているところを時々見かける。
ケイティは椅子に座って手持ち無沙汰にしながら、空になったグラスを見つめていた。
並び立つジークとベルミナは美男美女でお似合いだった。ケイティの緩和剤よりベルミナとの会話を優先したくなるのも分かる。
終業後の人気のない廊下。いま二人は、どんな表情で、何を話しているのだろうか。
考えると胸が痛くなる。呼吸が苦しくて、身体が熱――
(いやいやいやっ、なんで!?)
ケイティは荒くなった呼吸を意識して抑えながら、ゆるゆると首を振った。
「ぅ……」
頭を揺らしたせいでくらりと身体が傾く。こらえきれず机に突っ伏すと、今度は自分でも分かるほどの体温の高さに驚いた。
熱い鍋の前に長時間いたから、これはきっと熱中症だ。もっと水分を捕って、身体を冷やさなければ。
しかし身体が全く言うことを聞かない。そればかりか、腹の奥にどんどん熱が溜まって、訳も分からず泣きたくなるほどだった。
「ケイティ!」
ベルミナとの会話を終えたらしいジークが研究室に戻ってくる。机に突っ伏して呼吸を荒くしているケイティに気がついて、慌てた様子で駆け寄ってきた。
「おい、大丈夫か?」
「んっ……」
軽くゆすられただけで、その振動が身体の奥まで響いた。
顔を上げれば心配そうに眉を寄せるジークが見える。突然ジークの香りが強くなって、頭に靄がかかった。
「しっかりしろ。立てるか? 医務室まで……」
「はい……、あっ」
身体を支えながら立たされそうになった瞬間、耳元に聞こえたジークの声が腰に響いた。反射的に上ずった声が出て、自分で驚いて口を塞ぐ。
「……、……っ」
身体の奥が熱い。自分では絶対に手が届かないところに妙な感覚がある。
自分の身に何が起こっているのか分からない。どうにかしてほしい。誰かに助けてほしい。
きっと真っ赤になってしまっているだろう顔に、とうとう涙がこぼれた。