薄暗い私の寝室では、淡く白く月下美人≪げっかびじん≫が花開いている。甘い香りがいつもよりずっと濃厚に感じられた。
九月初めの温い夜。
カチカチと無機質な音を立て巡≪めぐ≫るのは、機械仕掛けの惑星だ。
ガラスケースには、無惨にもピンで張りつけられた美しい昆虫たちが並べられている。
まるで目の前にいるジャンのようだ。彼は闇の中でも、ほのぼのと光って見える。
陽だまりを閉じ込めたような琥珀≪こはく≫色の髪のせいなのか。スミレ色の瞳が、朝日が昇る直前のように瞬いた。静かにたたずむ彼は、絵画の中の王子様にしか見えない。
しかし、ジャンは性奴隷である。私の処女を奪うために雇われた男だ。
私は、イザベラ・ディ・リッツォ。伯爵家の女主人である。昨年、兄の伯爵が妻とともに事故で亡くなり、残された甥が伯爵家を継ぐまでのあいだ、後見人として伯爵家を切り盛りすることになったのだ。
この世界では二十五歳までに異性と交わらなければ、賢者の印が現れてしまう。賢者の印が現れたら、賢者・聖女となり家族と別れ、俗世のしがらみを断ち切ることが定められている。
私は昨年まで聖女を目指して生きてきた。聖女は高貴なる仕事で、あえて目指す者も多いのだ。しかし、兄の死によって、聖女になる夢は諦めざるを得なくなった。
甥のセシリオはまだ七歳。伯爵を継ぐことはできない。祖父母もいないリッツォ家では私が伯爵を継がなければ、伯爵家は取り潰される。聖女になったら爵位を継ぐことができないのだ。
そのため、私は町一番の性奴隷を購入し、処女を捨てることにしたのだ。それは、聖女になる夢を捨てることでもあった。
ジャンに対する初対面の印象は、美しくて軽薄な男。仕事が終わったら、金を払って別れればいい、そう思っていた。
そう、そのはずなのに――。
ジャンの唇が私のナイトドレスのボタンを外した。
胸の鼓動が聞こえそうなほど近い距離に緊張して、息を止める。瞼をきつく閉じて、体を硬くする。
ジャンのことは信じている。なにしろ町で一番の性奴隷だ。
でも、初めては怖いのだ。
私は美しくないことを知っている。
取るに足りない女だということを。
どうにか着飾って体裁を保っているが、服を一枚脱いだなら、ただの肉の欠片でしかない。
そんな醜い自分をさらすのが嫌。
好きな人に見られるのは嫌。
そう思う反面、ジャンにしか見られたくないと、そう願うのだ。
ボタンがひとつ外されるたびに、ひとつずつ暴かれていく私。なすすべもなく震えて、脅えて、きっとジャンは呆れているだろう。
バサリと服が落ちる音がして、驚いて目を開いた。
私の上に跨がるジャンが上着を投げ捨てたのだ。
薄目で彼を確かめる。
慣れている彼には、こんな私が笑えるだろう、そう思ったのだ。
しかし、違った。
ユラユラと揺れるランプの光に、ジャンの髪が照らされて月光のように輝いている。湿りけを感じる肌に、筋肉の膨らみが影を落としている。
切羽詰まったような真剣な眼差しで彼はゴクリと唾を飲み込んだ。砂漠の中でオアシスを見つけた旅人のように、渇望する目に射られ、私は思わず顔を覆う。
見てはいけないものを見てしまったという気まずさと、恥ずかしさにいたたまれない気持ちになる。
ジャンは私の両手を取ると、指と指のあいだに彼の指を差し込んだ。
「オレを見て」
「……いや……」
「……お願いだから」
泣きそうな声に切なくなって、オズオズと彼を見る。彼のスミレ色の瞳はまるで夜の闇のように蠱惑≪こわく≫的に輝いていた。
「イザベラ……、怖かったら言って」
ジャンが囁く。私は黙って頷いた。
「痛かったら言って」
「……痛いと言ったら、やめてしまうの?」
私は尋ねた。
これはただの肌の触れ合いではない。今夜、私は男と交わらなければいけないのだ。途中でやめられては困る。
ジャンは一瞬息を呑んだ。そして困ったように目を逸らす。
「……それって、煽ってるんですか?」
彼の問いの意味がわからず、私は首を傾げた。
ジャンは困ったように緩く頭を振った。
「痛くないようにするために、教えてほしいんです」
ジャンは笑った。
「オレの特技はこれだけだから」
自嘲するような答えに、私の胸はチクリと痛む。
ジャンは性奴隷として生きてきて、それ以外の生き方を奪われてきたからだ。
「……ごめんなさい」
私が思わず謝れば、ジャンは小さく笑って私の額に口づけた。
「気持ちよくしてあげる」
「! っジャン!」
笑いながら落ちてくる唇。
「可愛い」
ジャンが笑い、瞼にキスが落ちる。
「ここも可愛い」
鼻先に触れ、耳にキスをしながら可愛いと囁く。キスをするたび「可愛い」と告げる。
顎をたどって、首筋に。
そのたびに緊張した体は、必要以上にビクリと跳ねる。まだなにも始まっていないのに、息が上がって恥ずかしくなる。
そして、ジャンは唇を指でなぞり逡巡≪しゅんじゅん≫した。
「……ここにキスしてもいいですか」
脅えて震える声は、まるで神への祈りのようだ。
「ええ、……お願いよ、唇に」
恥ずかしさをこらえつつ言葉にする。
この一夜が終わったらもう彼には会えない。彼は性奴隷から人になる。もう関わってはいけないのだ。
だから、最後に本心を振り絞ると、ジャンは泣きそうな顔で笑った。
「っ、あんまり可愛いこと、言わないで」
むさぼるように唇を奪われて、私はなにも考えられなくなる。
首筋に、胸元に、キスがたくさん降ってくる。甘い吐息が絡まり合う。
優しく触れる唇に、丁寧な指先に、愛されているのだと実感する。
自分でも聞いたことのないような声が洩れる。暴かれていく、私自身が知らなかった私。それを、ジャンは可愛いと愛おしんでくれる。
素肌の胸と胸がピッタリと重なり合って、体温が混じり合う。あいだの空気がキュッと潰れた。
こんな私でも愛してくれる人がいるのだ――。
このまま、時間が止まればいいと、そう思いながら、チクタクと音を立てて巡る星の音を聞いた。
しかし、時間は止まらない。明日、彼はこの屋敷を出ていくのだ。
きっと、優しいジャンのことだ。ここにいてほしいとすがれば、そばにいてくれるに違いない。
でも、それはいけないこと。私にはわかっている。彼を解放してあげなければ。性奴隷から解放され、人としての人生を歩んでもらいたい。人として、自分が本当に大切な人を愛せるように。
嘘ではなく、心から「好きだ」と言えるようになってほしいから。
私は私の意志で、引き留めることを諦めた。
朝の日差しの中、私はジャンを人の世界へと送り出した。
ジャンが出ていった寝室の片隅では、月下美人の花が醜く萎れていた。
これが現実なのだと突きつけるように。
◆◆◆
首につけられた鉄の鎖と、これ見よがしの南京錠。
オレは奴隷No.1919194。名前はまだない。購入したご主人様が新たにつける。そういうものだ。薄い茶色の髪は蜂蜜にたとえられ、紫色の瞳はブドウ酒にたとえられる。主な仕事は、色恋にまつわることだ。
いわゆる、性奴隷。
オレは十八歳にして、すでに三度目の出戻りである。
けして能力が低いわけではない。その逆だ。能力が高すぎるために、オレを買ったご主人様は恋に溺れてしまうのだ。最終的にオレはご主人様の親族に嫌われて、店に戻されてしまうことになる。
しかし、それはオレにとって悪いことでもなかった。箔≪はく≫がつくのだ。おかげで、オレはこの町で一番高値の性奴隷である。
その上、オレが店に戻されるのを待っているお客もいるから、買い手はすぐにつくのだ。そしてよりいい条件で買われることになる。それは生活の安定を意味するし、収入が増えることでもある。奴隷の買い取り金額の半分は、奴隷自身に入るからだ。
オレの夢は、最終的に自分の権利を買うことだ。奴隷を辞め、安くて低い地位でいいから、貴族の地位を買う。