一章 身代わりの花嫁
ララを乗せた馬車が丘を越えると、黒にも見える濃い緑の城が車窓から嫌でも視界に入り込むようになった。
「…………」
従者に気がつかれないように口の中で噛み殺したため息を呑み込み、きつく手のひらを握りしめる。本当ならこの馬車に乗っているべきだった姉は今どうしているのだろうか。
優しく美しい姉のことばかりが頭をよぎり、気を緩めると涙が出てしまいそうだ。
輿入れに合わせ作られた、豪華なドレスや贅沢な家具。数週間後に予定されている挙式。それらすべては姉のために用意されたもの。いくら突然に失踪したからと言って妹の自分が掠め取っていいものではない。
「お姉さま」
こらえきれずに呟いて唇を噛む。
滲み出た涙で見つめる先の城はずいぶん大きくなった。あと半時もすれば到着してしまうだろう。
「お姉さまが行方不明!?」
知らせを受けて母のもとに駆けつけると、父は蒼白な面持ちで部屋中を歩き回り、母はソファで今にも意識を失いそうになっていた。
「ああ、ララ……あの子が、テレザが……なんてこと」
助けを求めるように伸ばされた母の手は血の気を失い氷のように冷たくて、少しでも熱を与えたくて両手で包み込み優しくさする。
「数日後にはあちらへ向かわなければならないというのに! なんということだ!」
激高した口調で叫ぶ父の顔には姉への心配はない。プライドを傷つけられた怒りと、縁談による利益を失う恐怖で染まっていた。そんな父の顔を見ていられず、母のほうへと向き直る。
「お姉さまはいったいどうしたというのです?」
「それが……手紙が……」
震える声で母が指し示した小さな便箋には姉が好きなマリーゴールドの絵。その繊細な文字は紛うことなき姉の字だ。
――ごめんなさい。私は行きます。
その短い文字を何度も目で追うが、その意味するものを理解できない。
姉は美しくて聡明で誰よりも優しく自慢の姉だった。あっという間にまとまった縁談も姉の評判からすれば当然だと、我がことのように誇らしかった。喜び合ったはずではないか。それなのに、なぜ。
「庭師の男も一緒に消えている! 駆け落ちをしたのだ!!」
父の叫びに「まさか!」とララは頭が真っ白になった。
責任感の強い聡い姉が、駆け落ちするなんてあり得ない。きっと間違いだ。そう信じたかった。
だが現実は残酷で、姉が庭師と思われる男と町を出たのを目撃した者は一人ではなく、使用人の間でも二人のただならぬ関係を見たという声が以前からあったのだと知らされた。
怒り狂った父が八方手を尽くしたが二人の行方は掴めていない。
婚礼前に娘が平民と駆け落ちしたとなれば相手方に責任を問われるだけでなく、地位や名声に傷がつくのは当然。
父はそれをなにより恐れ、あろうことか妹であるララを身代わりに輿入れさせると言い出したのだ。
「そんな……身代わりだなんて! お相手があることなのですよ!!」
もう一人の娘をも失おうとしている母が必死に父にすがりつくが、父にとっては母の心情や娘の境遇などどうでもいいことらしく、ひたすらにこの難局を乗り越えることばかりを考えている。
「相手方には了承を得ている」
「…………!!」
「逃げたテレザを探し出して連れ戻すまでの間だ。形だけでも約束通り婚約しておけば、あとでなんとでもなる」
そんな、と力なく呟いたのは母なのかララなのかわからない。一度もこちらを見ようともしない父の態度に怒ることもできず、諦めにも似た思いで目を伏せた。
父にとってなにより大切なのは地位と名誉と金。
クロージック家は歴史ばかりが長く、今では財産も領地もわずかばかり。名ばかり貴族と呼ばれても仕方がない我が家にとって、今回の姉の縁談は父の願望そのものだ。美しく賢く生まれた姉を磨き上げ、名家に嫁がせることだけを目的に生きてきた父にとって死んでも逃したくないものなのだろう。
姉に似ず平凡な見かけと才能しか持ち合わせていなかったララを身代わりとして差し出すなど、父からしてみれば惜しくもなんともない。
幼い頃から期待されることも愛されることもなかった。身体の弱い母はいつもララを案じてくれたが、父に逆らうことなどできなかった。
そして今、ララが求められているのは姉が見つかるまでの身代わり。
「……わかりました」
たとえ断ったところで、父はララの意思を無視して話を進めるだろう。ならば少しでも悔いの残らぬよう、素直に従ってしまったほうが楽だ。
父は当然だというように鼻を鳴らし、姉ではなくララを輿入れさせるための算段をはじめていた。
ララを哀れんで泣いてくれたのは病弱な母と長く仕えてくれたメイドたちだけだった。
不思議なのはなぜ、父のララを身代わりに寄越すという提案が受け入れられたのかということだ。
そもそも、姉との縁談だって降って湧いたようなものだったと記憶している。
相手は王家との繋がりが濃く豊かな領地と潤沢な財産を持つ名門、ツェアフェルト家。
先々代の領主様同士が仲良くしていたらしく、その薄い繋がりで以前はパーティなどに呼ばれたこともある。ララも一度だけ同行したのをぼんやり覚えている。
しかし現在ではその縁も途絶えたはずだ。
突然届いた一通の手紙には、領主が貴家の令嬢を見初めたので婚約したいという信じがたい内容が書かれていた。最初は質の悪い悪戯だと疑っていた父も、使者から提示された支度金と高級な結納品の数々に当然のように飛びついた。
母や姉は一度も会ったこともない相手と結婚なんてと困った顔をしていたが、父にとってはどうでもよいことだったらしい。
ろくな顔合わせもないままに婚約は成立し、あっという間に輿入れの日まで決まってしまった。
婚約が決まってから、姉の様子が日に日におかしくなっていったのに気がつかないふりをしたのが悪かったのかもしれない。
何か言いたげな視線を何度も感じていた。
けれど父の不興を買うのが恐ろしくて、姉の結婚を喜ぶ無邪気な妹を演じてしまった。
もし、あの時姉を案じて声をかけていたら。
姉の視線に応えていたら。何か変わったのかもとララは重い息を吐くのだった。
***
ツェアフェルト家は濃い緑色に染められた城が有名だった。
遠目に見た時は黒く感じていたが、近くで見れば気品に満ちた濃い緑色が美しい。幼い頃に一度だけ訪れた時と同じ感動を思い出し、ララは目を見張った。おとぎ話に出てくるバラの国にもこんなお城があるのだろうと幼心に憧れた。こんな美しい城で暮らせたら。素敵な王子さまと幸せに暮らせたら。
そんな子供じみた淡い願い事がこんな形で叶うなんて、夢にも思っていなかった。
「ようこそ、ララ様」
穏やかかつ静かな口調で頭を垂れる若い紳士は執事長だと名乗り、身を固くするララを城内へと案内した。
先を歩く執事長の後ろをララはたった一人で広い廊下を歩く。まるで無人であるかのように静かな城の中。侍女の一人も連れてくることは許されなかったせいで心細さと不安で押しつぶされそうだ。本当は身代わりの花嫁を認めていないツェアフェルト家が、ララをからかっている茶番なのかもしれないという考えが頭をよぎる。
「こちらでございます」
通されたのは応接間でも領主の部屋でもなく、花嫁のために用意された部屋。調度品の数々は高価で品のよいものだということが一目でわかる。白で統一された室内は不思議と居心地がよかった。しかし身の程を考えれば、自分が身代わりであることが嫌でも思い知らされる。
姉が見つかるまでの暮らしとはいえ、誰一人として従者を連れてくることが叶わなかった。ここでの生活は容易なものではないだろう。
「後ほど、主が挨拶に参ります。それまでどうぞお休みください」
「そ、そんな、私からご挨拶に伺わなくては失礼に!」
「ララ様。今日からここが貴女様の城なのです。どうか旅の疲れをお取りください。主もそれを望んでおります」
優しく微笑まれララの緊張が少しだけ溶ける。
もしかしたら領主様は優しい人なのかもしれない。姉を選んだ人だ、きっと素晴らしい方なのだろう。身代わりであるララのことも案じてくれているのかもしれない。
「お気遣いに感謝を」
お辞儀をして部屋を出ていく執事長の気配が消えると、本当に静かだ。
聞こえてくるのは中庭に訪れている小鳥たちの囀りくらいのもので、幼い日に記憶した城の賑わいとは正反対。父に連れられて訪れたパーティ会場は見知らぬ大人たちばかりで怖くなり、中庭に一人逃げ出したものだった。
そういえば、そこでララは誰かと仲良くなった記憶があった。