第一章 研究令嬢の叶わない初恋相手は――冷徹なる黒王子
ティア・コレクトが生まれたフォクシオン王国は、コーカル大陸の南に位置する自然溢れる平和な国だ。
国土の半分が森林と湖という恵まれた環境が生んだのんびりとした国民性は美徳ではあったが、便利な暮らしや発展は望まないという保守的な空気もあった。
周辺諸国はどんどんと新しい技術を取り入れ魔力を持たない者たちでも便利に暮らせるようになっていっていたが、このフォクシオンではいまだに原始的な魔法に頼る生活が主流。自然が豊かなことから魔物も多く、討伐にも多くの国家予算が割かれている。
最近では、利便性のある安全な生活を求めて国外へ目を向ける者が目立ってきた。
ティアの父親はこの国で宰相を務めており、年々広がる周辺諸国との技術格差や若者の流出に頭を悩ませている。悩みすぎて最近少しだけその額が広がった気がするが、家族はあえてそこを指摘しないようにしていた。
うららかな春の日差しが差し込む窓際の椅子に腰掛けたティアは、亜麻色の瞳を細め小さくため息をついた。
「もう少しひねった文章は作れなかったのかしら」
屋敷ではなく、王城の研究室にわざわざ届けられた手紙に書かれた文面は、これまで何度も目にしたお決まりの定型文だ。
『私ではあなたを幸せにはできないでしょう。よいご縁があることをお祈りしております』
柔らかい言葉で飾っているが、要約すれば「お断り」ということだ。
「これで五人目。さすがに笑えなくなってきたわね」
そう言いつつも、自嘲めいた笑みがこぼれてしまう。
二十二歳と本来ならば結婚していてもおかしくない年齢でありながら、ティアはいまだに婚約者すらいない。そろそろ焦るべきだという周囲の声に折れてお見合いをはじめたのは今年のはじめ。だが、ご覧のとおり戦果は得られていない。
母に似た控えめながらも愛らしい顔立ちのおかげで、黙って座っていればデビュタント前の少女に間違われることもあった。癖のないまっすぐな栗色の髪は艶やかだし、小さな唇は木苺のようにみずみずしい。
年齢を除けば、見た目も実家の地位も申し分ないにもかかわらず婚約者が決まらないのにはいくつかの理由があった。
心に湧き上がる名状しがたい感情を打ち消すようにティアは小さく首を振る。
「相手にも悪いことをしたわね」
手紙を机の上に置いたティアは、途中まで読んでいた書物に再び手を伸ばした。それは隣国で発売されたばかりの経済学の論文だ。
隣国はフォクシオンよりも経済が発展している代わりに、魔法技術は不得意なお国柄だ。同規模の小国家ということもあり、近頃はお互いの文化発展を目的とした交流が増えてきた。
近々、会合があると知らされたティアは、よい会話の糸口になるものはないかと考え本を取り寄せたのだった。
上の兄よりも父に似たティアは幼い頃から勉強が得意で、いつも本ばかり読んでいた。十歳を迎える頃には父やその同僚に混ざって国の未来に関する議論をしていたという。
母はもっと少女らしい過ごし方をしてほしかったようだが、ティアとしてはお茶やオシャレを楽しむよりも新しい知識を学んでいる方が楽しかった。なにより、ご令嬢ばかりの席でお互いの本音を押し隠した会話を楽しむという生き方はどうにも性が合わないことを自覚していた。
生まれ持った魔法が、土属性である植物の栽培促進という実用的なものだったのも大きい。父にくっついて王城に通い農業関連の研究に関わるようになってしまってからは、すっかり社交界から足が遠のいていた。
かといって別に出会いがなかったわけではない。研究のために王城に出入りしていたので、地位や年齢の釣り合いが取れた独身の男性と顔を合わせる機会は頻繁にあった。
だが、彼らはティアを選ばなかった。
ティアは顔立ちこそ母似だが、女性にしてはすらりと背が高い。少し高いヒールを履くと並みの男性と肩を並べてしまうことも少なくなかった。加えて、口の達者なところまで父に似てしまい、議論で年上の男性を言い負かしてしまったこともある。
可愛げのない女というレッテルを貼られるには充分な理由だ。仕事相手としては付き合えても妻には向かない存在。
先日見合いをした男性も、見栄を張りたかったのか付け焼き刃な知識を披露してしまったがために、ティアに思いきり論破されてしまい半泣きで帰っていった。そして先ほど、お断りの手紙が届いたというわけだ。
「さて、どうしたらいいかしら……さすがにもう、お相手を探すのも限界よね」
婚約者捜しをはじめた頃はそれこそ両手に余るほどに候補者がいたが、お見合いの回数を重ねるごとに候補者はどんどんと減っていき、今ではこちらから声をかけなければ誰も釣書すら読んでもらえない状況だ。よほどティアの悪評が広まっているらしい。
「もう結婚なんてしなくてもいいのに」
それは半分本気で、半分は諦めから来る言葉だった。
周囲の圧に負けて見合いをしているが、ティアにはあまり結婚への熱意がない。両親は仲睦まじいし、数少ない友人たちは結婚して幸せそうにしているので、結婚に対するマイナス感情があるわけではないのだが、どうにも自分のこととなると気持ちが動かないのだ。
ほんの少し自分を殺し相手を立てるようなしおらしい態度を取ればいいのは頭ではわかっている。それが無理ならば、自分の邪魔をしないような相手と形ばかりの結婚をするという手だってあるだろう。
だが、ティアはまだもう少しこのままでいたかった。
貴族令嬢としては我が儘すぎることはわかっているが、どうしても譲れない理由がある。
「ティア、いるか」
「…………!」
思考を打ち消す声とノック音にティアははっとして顔を上げる。
「どうぞ」
努めて平静な声で返事をすれば、扉がゆっくりと開かれ、一人の男性が研究室に入ってきた。
「昨日依頼した資料は完成しているか。今すぐ使いたい」
前置きひとつなく話しはじめるこの国の王子であるミゲル・フォクシオンに、ティアは苦笑いを浮かべるほかない。無駄を嫌う彼はいつだって単刀直入だ。
「はい。準備できておりますよミゲル殿下」
「……殿下はよせ。敬称の無駄だ」
軽く膝を折ったティアに、ミゲルは不快そうに眉を寄せた。闇夜のような黒い髪がさらりと揺れて精悍な顔に影を作る。二十五歳とティアとそう変わらない年齢なのに、鋭い目元と薄い唇のせいでとても大人びて見えた。見上げるほどの長身に長い手足。広い肩幅のしっかりとした身体を包む真っ黒な正装はいつも通り皺ひとつない。
外見と冷たい態度から『冷徹なる黒王子』と呼ばれている彼は今日も憎らしいほど美しかった。
ティアは一歩後ろに下がると淑女らしく小さく膝を折る。
「あなたはよくても私が困ります。下の者にも示しがつきませんし」
不満だとばかりにミゲルは形のいい鼻先に少し皺を寄せるが、議論は無駄だとわかってくれたらしい。
「わかった。とにかく資料をくれ、さっさと連中をやり込めたい」
物騒な言葉を使うミゲルにティアは肩をすくめながら、要望の書類を探し出し手渡した。
ペラペラとその書類をめくりながら濃紺の瞳を動かすミゲルの表情は真剣だ。邪魔をしないようにじっと黙り傍に控えていたティアは、彼が書類を確認し終えて「よし」と声を上げたことに詰めていた息をこっそりと吐き出す。どうやら書類は問題なかったらしい。
「では、もらっていくぞ」
「どうぞご随意に。ただし、せっかく資料を作ったのですから活用できるようにしてくださいね。会議では言葉を選んで、なるべく穏便に話を進めるのですよ」
我ながら母親のようだと思いながらも、部屋を出ていこうとするミゲルの背中に言葉を投げかける。ミゲルは返事の代わりに書類を持った手を軽く上げ、さっさと出ていってしまった。
残されたティアは急に広くなったように感じる研究室の真ん中で小さなため息を零した。
心臓が大きく脈打っている。時間差でこみ上げてきた熱が頬を染めているのがわかる。今日も会えた。些細な喜びが胸を満たしていく。
ティアが結婚に踏みきれないもうひとつの理由。
それは長いこと患ったミゲルへの片想いが原因だった。