1 貧乏令嬢フローラの婚活事情
出会いは、フローラが十四の誕生日を迎えてすぐの頃だった。
貴族の娘は十五歳前後になると、行儀見習いとして王宮に上がることができる。結婚前の箔付け、もしくは結婚相手探しの場である。
フローラも父の爵位を継いでくれる将来の夫を見つけるため、十四になってすぐ王宮に繰り出した。
フォニー子爵家は貴族にしては貧乏だ。しかもフローラしか子がいないため、婿として家に入れる人を希望している。「それでもいい、愛さえあれば」と言ってくれる人を見つけることが目標だ。
そんなフローラの配属先だと案内されたのは、広い王宮の外れにある離宮だった。
王宮から歩いて歩いて、王宮の外に出てしまうのではと思わんばかり野遠さの門をくぐり、森を歩いて歩くとようやくたどり着く二階建ての素朴な建物がそれだ。
王宮を出てからここに来るまでまったく人とすれ違わなかった。
年老いた使用人が死んで以来、住んでいるのは離宮の主人ただ一人らしい。誰かは分からないが、どう考えても訳か難のある人物だろう。
(貧乏貴族には断れないって思われたんだわ)
確かに断れないが、だからと言ってこんな辺鄙なところに配属するなんて。これでどうやって殿方と出会えばいいのか。適齢期になるまでに目星すらつけられなかったらお家断絶か……などという考えは、小さな第二王女ユーリをひと目見た瞬間、どこかへ吹き飛んでいた。
――この国には「王家の厄介者」と呼ばれる姫がいる。
側室だった母の身分と、生まれつき悪い右足が原因で父王から疎まれた彼女は、たった一人で王宮の片隅に暮らしているという。
いつの世にもありそうな物語だと聞き流していたが、まさかそれが当代の話で、件の姫がようやく十歳になったような子どもだとは思っていなかったのだ。
この国では珍しい真っ黒な髪は伸ばしっぱなしかというほど長く、この国の王家によく見る銀の瞳はぼんやりフローラを映している。
木を切り出して作ったような粗末な杖を手にして、小さすぎる王女は椅子に腰掛けていた。
(なんてこと)
自分の無関心と、宮仕えに対する不純な動機を恥じて、フローラはぎゅっと拳を握った。
「はじめまして、姫様。フォニー子爵家の長女、フローラと申します。わたしは……」
短く整えたはずの爪が皮膚に食い込む。その痛みを感じながら、気づけば叫んでいた。
「わたしはっ! あなた様に出会うために生まれてきました!」
ユーリは大きな目をパチクリとさせた。
「……は?」
「本日より誠心誠意お仕えいたします!」
「かえれ」
「帰りません! 運命なので!」
「かえれよ……」
初対面からものすごく邪険に扱われていたが、運命なのでフローラはあまり気にしなかった。
素早く周囲を見渡し、まずは掃除が必要だなと考える。どこもかしこも埃っぽく、天井の角には蜘蛛の巣が張っていた。破損状況などは目視の限りでは確認できない。
古そうな建物だが、下水道はきちんと整っているらしい。これにはフローラもほっと胸を撫で下ろした。
一番の問題は食糧事情だった。
フローラを離宮まで案内した侍女統括長いわく、月に一度、離宮に乾物や穀物を主とした食料箱が届けられるらしい。少食のユーリにはその程度で充分なのだと言う。
(いい大人が何を言っているの?)
小さなユーリを目の前にしていながら本気でそう思っているのだとしたら最悪だ。厄介者の姫に嫌がらせしているのだと言ってくれた方がまだいい。
ユーリは十歳にしては小さいし痩せている。しっかり食事を摂っていないとしか思えない。
少食なのではなくて、食べ物が少ないから節約していただけではないのか、と文句を言ってやりたかったが、初日から解雇されるわけにはいかないのでぐっと呑み込んだ。
離宮を取り囲む森は好きにしてもいいと言われた。ただし、むやみに立ち入ると迷うし、獣も出るようだから気をつけろと続く。
本当にここは王宮の一角なのかとフローラは首を傾げた。
侍女統括長は最低限の説明と、「乗れるなら宿舎と離宮の往復に馬を利用してもいい」と謎の許可を下し、早々と王宮に帰った。
ユーリもまるで身長に合っていない杖をついて身体の向きを変えている。フローラはそんな王女の後を追った。
「改めてよろしくお願いいたします、姫様」
「なんども言わせるな。お前もかえれ。ひつようない」
振り向いたユーリは嫌なものを見る目でフローラを睨んでいる。その様子が毛並みを逆立てて警戒する野良猫に見えて、フローラの胸はぎゅっと締めつけられた。
ごまかすように明るい声を出す。
「さぁ、姫様のお部屋はどこですか? まずは御髪を整えさせてくださいな」
「子ども扱いするな」
「これは子ども扱いではなく、レディ扱いと言うのですわ」
ユーリはもっと嫌そうな顔をした後、渋々と、そしてゆっくりと歩いて部屋に案内したのだった。
*
月に一度の食料配達は聞いていた通り、穀物や乾物を中心とした保存の利くものばかりだった。
新鮮な野菜や果物はすぐに傷むと余計な配慮がされているせいか、やりくりしてもせいぜい五日分といったところだ。
もっとこまめに届けろ、という文句は誰にも届かない。
しかもユーリは偏食の気もあるのか、毒に警戒しているのか、フローラの作った食事には手をつけなかった。
食料箱に新鮮なものがあるうちは野菜や果物をそのままかじるだけ。
そうでなければ干し肉を少しずつ食べるだけで食事を終えてしまう。
十歳の子どもがこれではあまりに不摂生だと絶望すると同時に、いったいどれだけの間、一人でそうしてきたのかを想像したフローラはこっそりと鼻をすすった。
作った食事が手つかずのまま冷めれば仕方なく自分の腹に収め、着替えや入浴の手伝いは引っ掻かれる勢いで拒否される。
唯一触らせてもらえる黒髪を梳いて三つ編みにし、そのまま輪っかにしてリボンを結んだら、ユーリはぐしゃぐしゃと解いてしまった。
「可愛くていらっしゃったのに」
「かわいくなくていい」
そんな日々が一週間経とうかという頃、フローラは掃除していた小さな図書室で『はじめての野菜づくり』という本を見つけた。
それに倣ってすぐそこの森から落ち葉を集め腐葉土を作り、敷地内の古い花壇に野菜の種を蒔いた。実家から野菜を持ち込んだ時に採取した種である。
別の日には、同じく実家からこっそり持ち込んだクロスボウを片手に森に入った。
(武器の持ち込みがバレたら殺されるかもしれないけど、その時は環境改善を全身全霊で訴えてから死んでやるわ)
落ち葉を集めた時に鳥や兎を、図書館では『これであなたも狩人! 獲物の捕り方・さばき方』『皮なめしの極意』などの本を見つけたのだ。
新鮮な肉が手に入ればユーリの食生活が改善されるはずと信じて、クロスボウを構える。
当たり前だが、全然うまくいかなかった。
自然豊かな田舎に住む母方の祖父にクロスボウの使い方を教え込まれていたフローラも、動く的ははじめてだ。
しかもクロスボウは連射ができない。外したら逃げられて終わりだ。
苦しい日々を耐え、ついにはじめての獲物が捕れた時、嬉しくなった勢いでユーリに見せに行った。
ユーリはカッと目を見張り、無言のままゆっくりと後ずさった。
(十歳の姫様に申し訳ないことをしてしまった……)
絶命して血抜きされた小動物など見て喜ぶはずがない。配慮が足りなすぎた。
しかし、その日の夕食に出したシチューにユーリは戦々恐々といった様子で口をつけ、時間をかけて完食した。
「美味しかった」
「姫様……っ!」
料理を食べてもらったのはこの時がはじめてだった。
温かいものを口にして、青白いほどだった頬が薔薇色に染まると、フローラの鼻の奥がつんと痛む。ユーリに情けない顔は見せられないので、唇を噛んで耐えた。
そしてまた別の日、花壇に蒔いた種の半分は失敗してしまったが、いくつかは小さな芽が出ていた。喜んでユーリに報告したら、散歩のついでだからと一緒に見に行くことになった。
「綺麗な緑色でしょう」
「そうか……?」
「実がなる前には黄色い花が咲きますよ。また一緒に見ましょうね、姫様」
「……ん」
月に一度の食料配達と森での密猟、花壇の畑に実った野菜、フローラが実家から持ち込む追加食材や香辛料。それらで作る食事を日に三食きっちり食べるようになったユーリは、すぐに背が伸びた。
杖が必要だったはずの足も自由になったらしく、そうなると少しずつ公務にも顔を出すようになる。
今までほとんど放置しておきながら、王族の義務は求めるなど王族のくせにケチ臭い、とフローラは腹を立てたものだ。
ともあれ、たくさんの人と関わるようになったからか、ユーリは美しくなった。
すらりと長い手足は白く、フローラが手入れを欠かさなかった黒髪は長く艶やか。銀色の瞳は透き通って神秘的だ。
だというのに、手が空いた時にはフローラに習ったクロスボウで獲物を獲ってくる。はじめて会った日からは想像できないほどの美人な健康優良児に成長していた。
ユーリがフローラの背を追い越したのは彼女が十五歳の年。
フローラは規則正しく健康的な生活を送っていたためか、同年代の平均よりは少し背が高い。
なかなか並び立てないことを不満そうにしていたユーリはよほど嬉しかったのか、この記念すべき日の夕食にフローラを同席させた。
二人とも飲酒が許される年齢だからと、グラス一杯だけ酒を飲む。
毎朝日の出と同時に起きて王宮の宿舎から離宮に向かい、ユーリの髪を整え、掃除をして、畑の世話をして森に入り、洗濯や料理もこなすフローラは、食後の眠気に耐えられずソファで眠ってしまった。
目が覚めた時、怒られるか呆れられるかと身構えたフローラにユーリは言った。
「私の隣の部屋を与える。今日からそこで寝泊まりしてもいい」
まだ少し酔いが残っていたフローラは、その言葉にとうとう涙腺が決壊した。
「フローラ、どうした? 隣は嫌だった? 好きなところを使ってもいいから……」
「ちが、違います、隣がいいです。これはその、すごく嬉しくて」
ユーリの宮、しかも隣に部屋を賜るなど破格すぎる待遇だ。多大な信頼の表れでもある。
寂れた離宮の埃っぽい部屋で干し肉を食べながら、死なないために生きていたような王女はきっともういない。
それを実感したら涙をこらえることができなかった。
しかし同時に、寂しさも込み上げてきた。