暗闇に紫水晶が瞬く。その一瞬、ナディアは呼吸を忘れた。
――陰謀が。
「……あ」
悪役は断罪。本当の理由は。
王妃が襲われる隣国と内通していた兄弟の関係は婚姻の理由は分からない妻はモブ戦争が始まる一族郎党みな処刑夫が悪役ここはゲームの世界。
(ここは……ゲームの世界!?)
一気に押し寄せてきたのは、別の世界で生きていた頃の記憶だ。濁流のようなそれは元々の記憶と混ざり合い、やがて一つとなった。
つまりナディアは突然「前世の記憶」なるものを思い出したのだ。ただ、そのタイミングは最悪だった。
「初夜の褥で考え事とは余裕だな。それとも……現実逃避か?」
「んあっ」
他人の手がむき出しの皮膚を滑る感覚に上ずった声が出て、現実に引き戻される。
手はナディアの反応に気をよくしたかのように何度も腰を撫でた。そしてゆっくり、さらに下へと進む。
「や、まっ、まって」
「泣こうが喚こうが、もう遅い」
肌を頼りなく隠していたはずの夜着はいつの間にか脱がされて、どこへ行ったかも分からない。逃れようとシーツを掴んだ手は、それより大きな男の手に絡め取られ抵抗を拒まれた。
「――誰の妻になったのか、よく覚えておけ」
「ぁ……っ!」
そう言って笑う男の名は、ファウスト・ウルキオラ。今日この日、ナディアの夫になった人物であり、そして。
(待って待って本当に待って推しとの初夜とか聞いてないーっ!)
ナディアが前世で推した悪役である。
*
ここは前世のナディアが何度も遊んだゲームの世界だ。
記憶が完璧ではないようで、ゲームのタイトルや主人公についてはさっぱり思い出せない。
(でもファウスト様に関してはほとんどのことを覚えている気がする。我ながら現金だわ……)
ナディアの夫、ファウスト・ウルキオラ公爵は現国王の異母弟だ。ゲーム内では王座簒奪を目論む悪役として描かれている。
一方、妻のナディアは良くも悪くも目立たない平々凡々な貴族の娘だ。実家は国王派にも貴族派にも属していないが、力がなさすぎて中立派にも属せていない。公爵位を持つ王弟、国で最高の権力を狙うファウストの妻には到底ふさわしくない出自である。
ゲーム内でも「ファウストには妻がいる」という設定があるくらいで、エンディングで軽く説明がある他には登場シーンもない。
考察によれば、夫のやること(主に悪事)に口出しできるような影響力のある妻は不要なため毒にも薬にもならないナディアと結婚しただとか、モブすぎて細かい設定は不要だったなどと言われている。
さて、そんなファウストだが、悪役なのでラストにはもちろん断罪される。
作中のファウストがやったことは、国王派の政策への反対および妨害、要人の妻などとの浮気、王妃への強姦未遂に、きな臭い隣国との内通。これらのせいで隣国とは戦争一歩手前のいざこざに発展するのだ。
ゲーム終盤、売国奴として処刑台に上がったファウストは、死の寸前まで悠々と笑っていた。しでかしたことは最低だが、彼に関するとある考察も相まって、その悪役然とした美しすぎる姿に琴線を刺激されまくったプレイヤーは多い。
(前世の私も見事に堕ちた一人だったわね。本当に美しいシーンだったのよ、処刑なのに)
しかし今は呑気なことを言っていられない。なぜなら、夫とともに一族郎党もみな処刑されてしまうのだから。
一族郎党とは言ってもファウストに妻以外の家族はいない。その妻というのがナディアなのである。
死ぬと分かっていて大人しく死にたくはない。なにより最推し改め、夫にだって死んでほしくはない。
(とはいえ、ファウスト様って確かこの頃からすでに、結構評判が悪かったような)
その証拠と言うべきなのか、ただでさえ緊張しているところに前世の記憶が戻った初夜は、それはそれは散々なものだった。
痛みのあまり、己の口から出てくるのは悲鳴と呻き声ばかり。ついでに涙まで出てしまった。
ファウストは義務的に淡々とことを済ませてさっさと寝てしまうし、ナディアは翌日から熱を出して寝込んでしまうし。
しかし、寝込んでいる間に前世の記憶を整理することができた。
前世の人格と今世の人格が混ざり一つとなったような感覚を覚えたが、実際にはそれまでのナディアとなんら変わりはない。むしろなるほど、と納得さえしていた。
サラダやスープのトッピングくらいにしか使われない|穀物《ライス》が好物でそればかり食べたり。私室を裸足で歩き回り、椅子やベッドの上で|膝を折り曲げて座っ《正座し》たり。日本人だった頃の影響が出ていたわけだ。
(とにかく! 思い出したからには、処刑も断罪も回避してみせる!)
高級な寝具に包まりながら、ナディアは固く決意した。
*
「おや、誰かと思えば我が妻ではないか。そろそろ顔を忘れるところだった」
熱が下がったナディアは、出仕前の夫を見送るために玄関ホールへとやってきた。
寝込んでいる間は寝室を分けていたので、新婚なのにおよそ一週間ぶりの対面となる。その妻に向かってこの言いよう。さすが悪役である。
「他国の外交官の侍従の召使いのご兄弟の顔と名前まで覚えていらっしゃると噂のお方が、妻の顔を忘れるはずがありません」
「無駄なことは覚えないようにしているのでな」
プライベートでも悪役ムーブを忘れない姿勢はさすがだが、一番の問題は夫の顔面の美しさにあるのでは、とナディアは思っている。
涼しげな相貌は聡明などと言えば聞こえはいいが、怜悧で狡猾な印象が強く、蛇か狐に似ている。
しかし、漆黒の髪に宝石のような紫色の瞳はまるで夜の化身。整いすぎた美貌に皮肉な笑みを載せて嫌味を言われると、ナディアの全身は痺れ、クラっときてしまう。これなら人妻の一人や二人、簡単に籠絡できるわけだ。
「まだ具合が悪いなら寝ていたらどうだ。夫への当てつけならば効果的だが」
比喩でなく本当にクラっとしたナディアを見て、ファウストは不機嫌そうに眉を寄せながら嘲笑うという、器用な表情を見せた。
ナディアの体調不良は急に思い出した前世の記憶のせいだが、おそらく半分は初夜のせいでもある。ファウストにも生娘に無体を働いた自覚があるらしい。
「もうすっかり元気です」
「ふん」
拳をぎゅっと握ってみせると、夫は胡乱げな視線を向けてきた。ついで、検分するようにナディアを頭のてっぺんからつま先まで眺める。
「必要なものがあればエクトルに言え。お前の実家では到底お目にかかれないようなドレスでも宝石でも好きなだけ買って、その貧相ななりをどうにかするんだな」
執事を顎で示しながら玄関を出ようとする背中を、ナディアは追いかけた。
今日はただ見送りに来たのではない。前世の記憶を思い出してしまったからには、未来の断罪を避けなければいけないのだ。
「待ってください、ファウスト様!」
ぴたりと足を止めたファウストは、珍獣でも見るような顔でナディアを振り返った。
夫婦とはいえ身分差がある。馴れ馴れしく名前を呼んではいけなかったことに思い至り、手遅れではあるが呼び直した。
「あっ、申し訳ありません……旦那様。お願いしたいことがありまして」
「……なんだ。エクトルに言えと言ったばかりだろう」
「旦那様にお願いしたいんです」
珍獣を見る目が、政敵を見るそれに変わったような気がした。答えるファウストの声も一段低いものとなっている。
「言っておくが、さすがに離婚は受け付けられないからな。いくらなんでも一週間では早すぎる」
「え、なぜ離婚? そうではなくて、その……」
悪役に関して数ある考察のうちの一つ。ファウストは悪なのではなく、悪を演じていただけなのではないか、というものだ。ナディアもその考察を支持していたが、現実のものとしてファウストに会ってからは確信に近いものとなっていた。
おそらく、彼は彼なりに国を思っている。国王派の政策に真っ向から反対していたのは、無視できないデメリットがあったから。敵国と内通していたのも無用な戦いを避けるための情報収集。
そして実は、彼が不倫や強姦未遂をした理由は明らかになっていない。悪役として位置づけるために悪っぽい設定を付け加えただけで、意味などないのではないか、とも言われている。
(妻となったからには、そうであってほしいと願ってしまう)
ファウストはきっと、やり方を変えれば悪役にはならない。政策についてはきちんと話し合い、内通も外交として扱えば、断罪されないのではないか。ナディアも一族郎党としての処刑エンドを避けられるはず。
そして、そのために何をするべきなのかは、寝込みながら必死で考えていた。
「しっ、新婚旅行に、行きたいです!」
「新婚……旅行?」
ゲームの舞台から離れたらいいのだ。愛する夫に悪事などさせはしない。物理的に。
間髪入れず怪訝そうな声が返ってきたが、ナディアはくじけずに続けた。