1.婚約の顛末
マリアンヌはルーグレン侯爵家の箱入り娘だ。
この国では大抵の貴族令嬢は箱入り娘。十六歳で社交界にデビューする前は基本的に領地で過ごすか、王都でも屋敷の中で大切に囲われる。他所との交流といえば親族か、あるいは家同士がよほど関係良好で親密な場合に互いに屋敷を行き来する程度。知らない人間が一堂に会するお茶会とか、血縁でない異性と会うことや、街歩きなど以ての外。
しかしマリアンヌの姉リュシエンヌは違っていた。姉は、わずか十歳で一度も会ったことのない第三王子リチャードの婚約者候補となってしまったからだ。よって箱入りどころか、リュシエンヌは幼い頃から王族や重臣と交流し、王宮に出向いて王子妃教育も受けてきた。
もともと姉は勉強が好きで、非常に聡明な少女だった。だが賢いだけではない。母譲りの迫力のある美貌に、女性にしてはやや高い背丈をしゃんと伸ばし、物怖じせずいつも自信に満ちている。朗らかで、でも優しくて、妹のマリアンヌのことを溺愛し、目が合うたびに「可愛い、可愛い」と撫で回してくる。
マリアンヌは姉リュシエンヌが大好きで、心からの尊敬と憧れを抱いていた。姉を崇拝するあまり、姉が担うであろう役割についてもきらきらと輝いて見えていた。王子妃というものは素晴らしいお役目なのだな、と。
だが、自分自身は姉のようになりたいとは微塵も思わなかった。王宮や王族など、畏れ多い。目にしたこともない華やかな世界に行きたいとも思わない。姉のようによく知らない相手がいきなり婚約者になるよりも、デビューしたあと、社交界で知り合った相手とゆっくり関係を築き、結婚するほうがいいな、と思っていた。
マリアンヌの趣味は読書。ルーグレン侯爵家の蔵書は豊富で、本さえ読めれば幸せだった。あとは乗馬を少々。王都の少し郊外にあるルーグレン邸には広い馬場があり、そこで愛馬を走らせていると本当に楽しい。
現状満足度の高い箱入り娘、といったところだ。
マリアンヌの艶のあるブラウンヘアは平凡な色だが、緩くカールする柔らかな自分の髪質は肌に触れると心地よいので気に入っていた。瞳は琥珀色。肌は透き通るように白く、陶器のように滑らかで、まだ十六歳になったばかりだというのに体つきは女性らしく日に日にドレスの胸のあたりが窮屈になってきている。
デビューまでもう少し。たまに親族に会うと「マリアンヌが社交界に出ればすぐさま求婚者が列をなすだろう」などと称賛される。自分ではよくわからないが。
何もお相手探しを急ぐ必要はない。今は本を読んで、刺繍をして、愛馬に乗り、淑女教育をふんわりと受け、家族と楽しい時を過ごすのが幸せ。
その時が来れば、きっと自分に相応しい相手が現れるだろう。
──そう思っていたのだ。
□ □ □
とある天気のいい春の日のこと、マリアンヌは侍女のエラを伴って縁戚の伯爵家に遊びに来ていた。
伯爵夫人はマリアンヌの母ルーグレン侯爵夫人の従姉で、娘が二人いる。マリアンヌとその姉妹はお互いよい遊び相手として小さい頃から屋敷を行き来していた。
素晴らしい庭園を臨むサロンで紅茶を飲みながら、先ほどから伯爵家の姉妹が頬を紅潮させて話しているのは、王家の護衛騎士である「獣騎士様」と「竜騎士様」の噂だ。
一人は王太子の護衛で、赤みがかった髪に澄んだグリーンの瞳。陽に焼けた筋骨隆々たる体躯。いかにも猛々しいといった風貌から「獣騎士」と呼ばれているらしい。
かたや「竜騎士」は第三王子の護衛で、銀の髪に涼し気なブルーグレーの瞳、スラリとした長身。吹きすさぶ冷風のように研ぎ澄まされた身のこなしで剣を振るう、美貌の騎士だということだ。
伯爵家の姉令嬢は獣騎士に憧れ、妹令嬢のほうは竜騎士に夢中なのだという。といっても二人ともその姿を直接見たことはなく、テーブルの上には何枚もの絵姿が散らばっている。
マリアンヌは、その絵姿にまじまじと見入った。獣騎士は臙脂色の騎士服に赤い髪。背後には燃え盛る炎と猛り立つ獅子が描かれ、かたや竜騎士は艶やかな銀髪が月夜に妖しく照らされ、剣を構えるその背中にはなぜか大きな白い翼が生えている。
マリアンヌは絵姿を手に取って眉を顰めた。まさか、彼らは本当に獅子を従えたり翼を生やしたりしているのだろうか。
「……お二人共、素晴らしい容姿と能力をお持ちなのにまだ伴侶をお決めになってないのよ! 婚約者がいらっしゃらないの」
「そうそう、王子様がたを護るのが職務だと仰って、数多の令嬢からのアプローチを躱してらっしゃると聞いたわ」
「夜会でも決してダンスはなさらないのですって」
「そういう禁欲的なところがまた素敵よね……あぁ、わたくしを見初めてくださらないかしら!」
姉妹の勢いにマリアンヌが気圧されていると、二人はこちらに身を乗り出してきた。
「マリアンヌのお姉様は第三王子妃候補なのだから、護衛のアベル様には当然お会いになっていらっしゃるのよね?」
竜騎士アベル推しの妹令嬢が、興奮気味にまくしたてる。
「ええ。お会いしてはいると思うけど……お姉様は殿下の護衛については何も仰らないわ」
姉から「リチャード殿下の護衛騎士の背中に翼が生えている」などと聞いたことはないな、とマリアンヌはぼんやりと思った。
「マリアンヌのお屋敷に殿下が訪問なさったこともあるんでしょ?」
「そりゃあるわよ。けど私は殿下にお目通りを許されてなくて。いつも屋敷を出て離れに滞在させられるのよね」
「まぁ。お姿をちらっと見ることも? 許されないの?」
「ええ、一度も」
実は今日も、自宅の侯爵家には第三王子が来ているはずだったが、マリアンヌは姉妹には黙っていた。
数カ月に一度ほどの定例の茶会のようなもので、王子の来訪には大勢の護衛やお付きが来るため、マリアンヌは家を追い出された形だ。
王族やそのお付きに会いたいとも思わないし、家から追い出されようが離れに閉じ込められようが別に構わないのだが、この姉妹に今まさに第三王子が我が家を訪問中だなどと話そうものなら、大騒ぎになるだろう。護衛騎士を垣間見ようと今すぐマリアンヌを侯爵家まで送っていくなどと言いかねない。
この姉令嬢もマリアンヌと同い年で十六歳。今冬にはデビュタントとなる。
彼女は、大きな青い瞳にストロベリーブロンドで、少し幼い顔立ちだがなかなかの美少女だ。家柄もよいのだし、きっとすぐに縁談も纏まることだろう。王家の護衛騎士たちに憧れていられるのもデビュー前の今のうちだけ。そんな時間はもう二度とやってこないのだ。
本の中では、恋という感情はいつも人の心を支配し、狂わせ、悩ませる。成就したりしなかったり、その経験で人は成長する……みたいな話ばかりだ。恋を知らないマリアンヌは、騎士の絵姿に頬を染める姉妹二人のことが羨ましかった。
「あら……」
「どうかした? マリアンヌ」
「ん、ごめんなさい。少し……エラを呼んでもいいかしら」
侯爵家から付き添ってきている侍女のエラを呼んでもらう。
サロン脇で控えていたエラが近くに来ると、マリアンヌはそっと耳打ちをした。エラがマリアンヌの肘を支えて立ち上がらせる。
「ごめんなさい。少し体調が……今日はもう失礼させていただくわね」
「まぁマリアンヌ、大丈夫なの?」
「ええ。ちょっと……」
「そうなのね」
突然暇を告げたマリアンヌに、姉妹は察するように眉を下げた。
「何か足りないものはない?」
「ありがとう。エラに任せているから大丈夫よ」
予定より少し早く月のものが来たらしい。化粧室を借りてから、マリアンヌは侯爵家の馬車に乗って帰途についた。王宮近くにある伯爵家から、郊外にあるルーグレン侯爵家までは馬車で半刻ほど。気が緩んだのか、たちまち体調が優れなくなって馬車の揺れにぐったりしてしまった。
エラに寄りかかりながら車窓の景色を眺めているうちに、少し眠気が襲ってきた。軽く寝息を立て始めたマリアンヌの背中をエラは優しくさすってやる。
すると突然ガクン、と馬車が大きく揺れた。
うとうとしていたマリアンヌがハッと目を覚ます。少し傾いたまま馬車が停まって、エラはマリアンヌの身体をぎゅっと抱きしめた。ほどなくコンコンコンとキャビンの壁がノックされて、御者の声がした。
「お嬢様、申し訳ありません。轍に車輪を取られて、少し軸が壊れてしまったようです」
「まぁ……困りましたね。屋敷までどのくらいかしら」
「もう少しの距離なのですが……」
エラがキャビンの窓から外を見ると、遠くに小さく屋敷の門が見えている。
「屋敷から代わりの馬車を引いて参りますので、しばしお待ちくださいますか」
「……わかったわ」
大した距離ではないが、マリアンヌに無防備に外を歩かせるわけにはいかない。
馬をキャビンから外す音がする。傾いた馬車は街道を塞いでしまっており、御者が通りすがりの市民に金を渡して何かを頼んでいるのが見える。
体調がよければ、頭からショールを被って顔を隠してでも屋敷まで歩くと申し出るところだが、あいにく今は身体がつらい。道を塞いでいる馬車の中に長居するのはいたたまれないが、マリアンヌは言われた通り迎えを待つことにした。
「元気だったら歩くのに……皆に申し訳ないわ」
マリアンヌは浅くため息をついてまたエラの肩に頭を載せた。
街道からは少し外れたこの道の先にはルーグレン侯爵家の屋敷しかなく、それほど馬車の往来がない道ではある。治安もよくトラブルになることもないだろう、と話すエラの優しい声を聞きながら、マリアンヌはゆっくりと目を瞑った。
──どのくらいの時間が経っただろう。
ガチャガチャ、とキャビンの外錠が外れる音がして、いきなり扉が開いた。ノックもなく乱暴に開け放たれた扉から、一人の男性が顔を覗かせる。
マリアンヌはエラの肩からゆっくりと顔を起こし薄目を開けた。
──誰?
見知らぬ男性はマリアンヌと目が合うと動きを止めた。濃紺の騎士服に帯剣しているところを見ると勤務中の近衛騎士だろう。
一瞬、危害を加えられるのかと身構えたマリアンヌとエラだったが、近衛の騎士服姿を見てまずは安心した。そして一呼吸置いて、その騎士の容貌に声を失った。
銀の髪。高い鼻筋、整った眉、ブルーグレーの切れ長の目、冷えた陶器のような肌。やや薄い唇はわずかに開かれて今にも何か声を発しそうだ。念入りに化粧を施した貴婦人かと見紛うほどに美麗な男性だった。
ゆっくりと馬車の中に上半身を差し入れた騎士服の男性は、落ち着いた声でマリアンヌに話しかけた。
「……大丈夫ですか?」
エスコートのように差し出された手にマリアンヌは戸惑う。エラは少し思案したあと、向かいの座席に移り男性に場所を譲った。
マリアンヌは男性に軽く手を取られ、その手の大きさと冷たさに一瞬怯んだが、俯いて馬車から降りた。馬車の周りには屋敷の人間が何人か集まってきており、皆がマリアンヌに向かって膝を折り頭を下げた。
中には通りすがりの野次馬もいる。箱入り娘のマリアンヌは、こんな見知らぬ衆人環視の中に姿を曝すのは生まれて初めてで、緊張で膝の力が抜けそうだった。