1 赤髪の旅人
「体調はどうです? 師団長」
「──毎日毎日、同じことを聞くな」
とある王都から遠く離れた騎士団の拠点、殺風景な執務室で。ヨアヒムは無骨な木の椅子に斜めに腰かけ、鬱陶しそうに補佐官ジェイムスを見やった。
「団長からの命令なんですよ、師団長の体調管理はお前の責任だ、と」
「お前は何も気にする必要はない」
ジロリと睨んでから視線を落とし、バサバサと忙しなく手元の書類をめくって文字を目で追う。長い脚を組み、小さな机と椅子に身体を押し込むようにしながら、時折視線を宙に泳がせて任務の内容を反芻している。そのヨアヒムの姿に、ジェイムスは労しげに眉尻を下げた。
「そんなに痩せ細って。何言ってんですか」
「…………」
「補佐してる上官が、自分の目の前でいきなり口から泡吹いて倒れたこっちの身にもなってください」
「…………」
「体調は、ど、う、で、す、か?」
「まぁ、良好だ。日に日によくなっている。剣を持つのは正直まだ不安があるが、騎乗については問題なくこなせると思う」
「はい了解、何よりです」
ヨアヒムが着ている水色の騎士服はぶかぶかで、あちこち皺が寄っている。紙をぺらりとめくる骨ばった手指、伸び放題の赤毛のくせっ毛が浮き出た首筋の血管に被さっている。貧弱で顔色も悪くとても騎士には見えない。ふた月前とは似ても似つかぬ、変わり果てた姿。
しかしその中身は以前のまま──由緒正しい伯爵家の次男とは思えないほど満身是胆【まんしんしたん】、いかにも怪傑、といった風情の男。泣く子も黙る第三騎士団の騎兵師団長だ。
医師からようやく許可が下りて数日前にベッドから出たばかりだが、取り憑かれたように早朝から訓練に打ち込み、たくさんの食事を貪るように摂り、一刻も早く身体を戻したいとフル稼働の上司ヨアヒムに、ジェイムスが幾度「無理をしないでくれ」と諫めたことか。
だがこの痩せ衰えた容貌は今回の任務にはぴったりだ。旅人に扮して辺境の砦城に近づき、その進入路と周囲の様子を探る斥候役。積もり積もった辺境領の背任への疑念がようやく確たるものとなり、騎士団は近々、ついに辺境伯の拠点──カステル・サクスムへと攻め込むのだ。
□ □ □
エインズリ辺境領は、ここアリュストルス王国の最北端に位置する。七年ほど前に辺境伯が病で急逝して以来、未成年の嫡子に代わり亡き辺境伯の弟が領主代理を務めていた。
領主代理は、代替わりしてすぐに領民の貴重な勤め先であった辺境軍を解体してしまった。そして貴重な鉱石が採れるレシット鉱山に注力するあまり基幹産業であった林業や馬産業を廃れさせ、街道には盗賊が蔓延り、町には異国の商人の姿が目立つようになった。
国防の要である辺境領の現状に、王家は密かに領主代理の身辺調査を命じた。慎重に内偵を進めて判明したのは驚くべきことに謀反の企み。鉱石を怪しげな筋に横流ししてその利益を隠し、北方異民族と内通し、隣国ギーデン皇国とも手を組んで、最終的には公国として独立を目論んでいるらしい。
「その名もエインズリ・イシュタン大公国とはな……大仰な名を掲げおって」
「ギーデン皇国にいいように利用される末路に気づかないとは、愚かな」
鉱石の密売、優秀な軍馬の流出、脱税、不法移民の急増、治安の悪化。領主代理は砦城の際に豪奢な領主館を建て、そこで贅沢を貪っているのだという。
「愚かな施政者に苦しめられるのは、いつもそこに住まう領民たちだ」
「一刻の猶予もありませんね」
ヨアヒムは分厚い資料を最後までめくり終えると、ばさりと机上に放り出した。
「ところで……ここの嫡子はどうしているのだ」
「前辺境伯の一人娘、ノーマ嬢ですね。生きていれば齢十五におなりかと」
生きていれば、というジェイムズの言葉にヨアヒムは片眉を上げた。
「最後に姿が確認されたのは、一年ほど前のようですね。ごてごてと飾り立てたドレスを着て、いかにも領主代理夫妻に愛でられているといった様子だったそうですが」
「愛でられている、か。じゃあ生きてるだろう」
「デビュー前の令嬢が嫡子ともてはやされて贅沢三昧甘やかされていれば、育て親の蛮行など気づきもしないでしょうけどね」
「まぁ、そうだな」
「一族郎党処刑は免れぬでしょう。年若い令嬢の命が摘まれるのは気の毒ですが」
「気の毒も何も。どんな施政者に育てられようが、嫡子の責任があろう。気づかなかったで済まされるものではない」
「いかにも」
「どうせ高慢で我儘放題に育っていることだろう。爵位を剥奪され罪人に落とされては、生き永らえたとて本人がつらい思いをするだけだ」
ジェイムズは軽く頷き、ヨアヒムが投げ出した分厚い書類綴りを拾い上げて、机上に一枚の書類をひらっと置いた。騎士団総長の名で出された任務の命令書。そこにぎっしりと書かれているのは血の誓い。
内偵、斥候などの極秘任務を命じられた騎士は、その内容を黙して墓まで持ってゆくことを約する。任を受けたことすら関係者以外には伏せられる。ただ唯一、伴侶にだけは任務の後、必要に応じてその内容を告げることが許されるのだが、知らされた配偶者もまた生涯それを他者に漏らすことはできない。違えれば命を持って償うこともある誓いの約定である。
ヨアヒムは躊躇うことなくその命令書にサインをした。ジェイムズが書類を取り上げ、乾かすように端を摘まんで軽く揺らす。
「──そういえば師団長」
「なんだ」
ヨアヒムが椅子から立ち上がる。ジェイムズがインク壺の蓋をきゅっと締めた。
「シシリア嬢のことはどうなさるのですか?」
「帰らせる」
「え?」
「もう用はないだろう。王都に帰す」
「えぇ? あんなに献身的に看病してもらっておいて? 用はないと?」
「ああ」
「冷たい人ですねぇ」
肩を竦めるジェイムズのほうを見もしないで、ヨアヒムはドアに向かった。
「支度をしてくる」
ジェイムズは上官の後ろ姿を見送りふぅとため息をついた。任地の辺境領までは、ここから馬で二日ほど。もう一人、騎馬に長けた騎士との共同任務だが、師団長はあんな身体で大丈夫なのだろうか。
インクの乾いた誓約書を丁寧に折りたたみ、封筒に入れてしっかりと蝋封をする。さらに頑丈な外封筒に入れ、王都の騎士団総局宛の書類入れにぽん、と放り込んだ。
ヨアヒムが宿舎に帰ると、予想通り私室のドアの前には一人の女が立っていた。壁に凭れて腹のところで両手を組み、やや項垂れた様子。廊下を歩いてくるヨアヒムの気配にハッと顔を上げ、駆け寄ってきた。
「ヨアヒム!」
シシリアは縋るようにぎゅっと騎士服の腕を掴んだ。ヨアヒムは軽く眉を寄せる。
「……もうここには入れないはずだが?」
「いきなり王都に帰れって。どういうこと?」
「そのままの意味だが」
「っ、なぜ?」
「俺は明日任務に発つ。ここにはおそらく戻ってこない」
「王都で貴方を待っていればいいの?」
「…………」
「ヨアヒム、わたし」
「──キルスト伯爵位は、弟のベンジャミンが継ぐことになった」
ぶかぶかの騎士服を掴んでヨアヒムを揺さぶっていたシシリアの動きが止まった。
「え、嘘……」
「ゴート家からの上申によりそう決まった。陛下にご裁可もいただいた」
「そんな! だって、ゴートの次男は貴方でしょう? 嫡男のイアーゴがいなくなったのだから、当然キルストの爵位は貴方が継ぐべき──!」
「早く王都に戻って、次はベンジャミンに媚びてはどうだ?」
「ヨアヒム!」
「長男の嫁として献身的に兄を支えてくれていたことには礼を言うが。たとえ爵位を継いだとしても俺が貴女に靡くことは、ない」
呆然と立ち尽くすシシリアの横をすり抜けて、ヨアヒムは滑るように自室に入り、鍵をかけた。