1 王都への旅立ち
「こんなところに──っ」
仰向けになっている自分の身体に、誰かが覆いかぶさっている。目の前には憤怒に満ちた男性の顔が迫る。漆黒の軍服を纏った、屈強な男性に組み敷かれているのだ。
リズエラは瞠目し「ひっ」と声にならない声を上げた。その男性はなぜか全身濡れそぼち、荒い呼吸に合わせて乱れた金髪からぽたぽたと雫が落ちる。身を捩り、逃れようとするが難なく封じられ、まったく身動きがとれない。
男性はリズエラの肩の横に両肘をつき、刺すような眼差しの紫の瞳がこちらの睫毛と触れるほどの距離までぐいっと迫ってくる。
「や、やめて、くださいっ」
「何故だ! どういうことだ、リズエラっ!」
「……言えません」
「そうか──わかった」
紫の瞳が、光彩を失ってどんよりと濁る。髪から落ちた水滴が、リズエラの顎を伝って首筋へと流れる。その冷たい感触にリズエラはびくっと小さく震えた。
男性はふ、と嘲るように口の端を上げると、ゆっくりとリズエラの顎に指をかけた。リズエラはびくりと硬直し、ぎゅっと目を瞑る。とたんに視界が閉じ、暗闇となる。
「もういい。何も語らないなら、それでいい」
たっぷりと怒気を含んだ低く静かな声が、吐息に交じって吐き出されリズエラの首元を包み込む。熱い。火傷しそうなほどの熱だ。
「いいか。抗うな──決して」
◇◇◇
リズエラは、細い路地の入り口に立ち尽くしていた。街道の喧騒を背にして、外套の紐をぐっと握ったまま目を瞑り、肩はふるふると震え鼓動が早鐘を打つ。ゆっくりと目を開けると、古びた自分のブーツと乾いた土にじわっと焦点が結ばれてゆく。
いま急に自分の頭の中に流れ込んできた恐ろしい光景。屈強な軍人に組み敷かれ、「抵抗するな」と責め立てられていた。おそらく自分はあの男性から何かを盗むか奪うかして捕らえられ、咎められていたのだろう。
自領イドバーグは確かに貧しく、寂れた土地である。領地経営は苦しいが、まさか自分が人様から何かを奪うような行為をはたらくなど。この町の未来は、それほどまでに切羽詰まった状況になるというのか。男性の剣幕は、こんな道端で悲鳴を上げそうになるほど恐ろしかった。
そう。リズエラの脳内に流れ込んできたのは『未来』の出来事。男爵令嬢リズエラ・イドバーグは予知の能力──俗に『時読み』と言われる力を持っていて、肌が触れた人物の未来が見えるのだ。
とはいえ。接触したら必ず未来を予知してしまうわけではない。視ようと意思を持って触れた場合だけ視えるのだ。だが先ほどは、リズエラの意志など関係なく急に『時読み』が流れ込んできた。
さらに時読みの力はいつも視覚や音だけで未来を告げてくるのに、さっきは視えただけではない。自分がほんとうにそこにいるかのように感じたのだ。あの吸い込まれそうに深い紫の瞳、首にかかる荒い息の熱さ、滴る水の冷たさ。身体はぞくぞくと痺れ、我に返ってからも震えが止まらない。そして何より、あの男性に対して申し訳ない気持ちが胸いっぱいに沸き上がった。
光景だけでなく触覚、そして感情も。傍観者ではなく体験者となった──こんなことは初めてだ。
リズエラは十歳で時読みの能力をコントロールできるようになった。自分の稀有な力に混乱し、抗い、そして共にあろうと努力してきた。だが、この力にはまだ先があるの? もし自分が痛めつけられる未来を視たなら、まるでその場にいるように痛みが襲ってくるということ? また蘇ってきた恐ろしさに、ぞくっと身を震わせる。
ついさっき往来ですれ違った二人連れの旅人。そのうちの一人に僅かにリズエラの手の甲が触れたのだが──いったい誰だったのか。あのような軍人然とした屈強な男性がこのイドバーグに何しに来たのだろう。
リズエラはそろりと後ろを振り返り、路地から顔を出して辺りを窺うが、旅装の二人連れは街道をゆく荷車や通行人の雑踏に紛れてしまったようで、もうどこにも見当たらない。
冷えた指先で鞄をぎゅっと握りしめながら、路地から出て街道を歩き始めた。街道の両脇には雑多な商店が立ち並び、あちこちの店主がリズエラに気づいて「お嬢様!」と声をかけてくる。しばらく引きつった笑みしか返せなかったが、歩いているうちにだんだんと緊張が解れ、冷えていた指先は温もりを取り戻してきた。
大きな二階建ての商家の前で立ち止まり、大きくひとつ呼吸をすると、その門扉に手をかけた。
「これはリズエラお嬢様。ようこそいらっしゃいました」
「ごきげんよう、借りていた技術書を返しに来ました」
口髭を生やした年嵩の家令は会釈をし、にっこりと微笑みながら本を受け取った。
「わざわざありがとうございます。屋敷まで取りに伺いますのに」
「今日はあちこちついでがあるの。いま屋敷の人間は出払っているから、お遣いがたくさんあって」
「ご領主は、崩れかけている沢の様子を視察に行ってらっしゃるとか」
家令は心配そうに眉尻を下げた。
「ええ。少し深刻みたい」
「何かお力になれることがあれば、ご遠慮なくお申し付けください」
「ありがとう」
リズエラは領主の娘であるのに、自分とはかなりの身分差があるはずの商家の家令に対し深々と膝を折った。
実はここの主人は幾度も領主屋敷に援助をしてくれているのだが、男爵は何も返すことができていない。
領主の務めとは領民を守り、その暮らしを整えること。税収はその対価として得るものだ。だが男爵領の経営は厳しく、税収だけでは立ちゆかない。民から施しを受けなければならないほど困窮しているのだ。
イドバーグ男爵夫妻はそんな領民への謝意をいつも口にし、話しかけられたら馬車を降り、時に膝を曲げ目線を合わせて話を聞く。嫡子であるリズエラが領民に尊大な態度を取るはずもなかった。
リズエラは商家の門扉を閉じながら、空を仰いだ。外套のフードがはらりと外れて、赤みがかった鳶色の三つ編みと白い肌が露になる。いい天気だが、雪解けの始まった山肌をなぞってから街まで降りてきた風は、まだまだ刺すように冷たい。リズエラは愛馬を預けた共同厩舎に向かって、もと来た道を歩き出した。
◇◇◇
旅装を纏った二人連れ──フレデリク・ジーリューとその侍従スヤンは、王都から十日かけてこの西の辺境、イドバーグ男爵領に到着したばかり。
ここは男爵領の中でいちばん栄えている町だ。昼下がりの街道では行き交う荷車があちこちでつっかえ、荷物を抱えた民たちがその隙間を縫うように歩いている。共同厩舎の馬丁によると、この小さな町には宿屋がふたつしかないらしい。「こっちの宿のほうが小綺麗だよ」と馬丁が指さしたのは、混みあう道をはさんで厩舎のちょうど向かいに建っている宿だった。二人は馬を預け、やや疲れた様子で街道を横断した。
侍従スヤンが宿屋の扉をぐいと押し開けると、木製のドアベルがカランカランと鳴った。続いてフレデリクが宿屋に入ろうとしたとき、辻を曲がって歩いてきた年若の娘と僅かに腕が触れ合った。ぶつかる、というほどでもない接触。人通りの多い街中ではよくあることだ。フレデリクは娘の存在に気づきもせず扉をくぐり、宿屋の中に入った。