第一章 恋人にフラれた侍女
王都のど真ん中で、カスペル爺が営むこの酒場は、今日もざわざわと騒がしい。界隈で一番安く飲めると評判なのだが少々客層が荒っぽく、やれ肩が触れ合っただの、目が合っただの、喧嘩っ早い男たちのいざこざが絶えない店なのだ。
いかつい男たちで満席の店内に、カップを傾けている二人連れの女性客がいた。
「えっ! ディランとはもう三ヶ月も前に別れていたの?」
「うん」
「話してくれればよかったのに」
「……ごめん。なかなか自分の中で消化できなくて」
視線を落とし、自嘲するように微笑むミリアリアに、ヤスミンは眉尻を下げた。
女性の二人連れは珍しいため、飲んでいるとひっきりなしに声を掛けられる。煩わしいことこの上ないが、今日はとことん飲みたい! というミリアリアの希望により、酒代を気にせず飲めるこの店にやってきたのだが。
「浮気相手に子どもができた、っていうのがことさら刺さっちゃって」
「そりゃあ、さぞかしショックでしょうよ」
「実は……私とは、随分ご無沙汰だったの」
「ええぇっ!」
少し声が大きかったようで、周りの客がちらちらと二人に視線を寄越す。ヤスミンは肩を竦め、声を落とした。
「……どういうことよ。あんなにミリアリアのこと束縛しておきながら、ご無沙汰って」
「うん。もう何ヶ月も無かった。なのに浮気相手とはヤってたのかぁ──って」
「酷い、酷すぎる!」
ヤスミンはぐい、とカップを傾けて酒を飲み干すと、カウンターのカスペル爺に向かって「おかわり!」と叫んだ。横からミリアリアもカップを掲げ、ほどなく二杯の酒が運ばれてくる。
「お互い、もうダメだってわかってはいたの。せめて浮気する前にちゃんと別れ話をしてくれたらよかったのにな」
「あの男、クズ中のクズね、まったく! ……で、浮気相手は誰よ?」
「それは……」
「言いなさいよ。言わないとディランに直接聞きに行くわよ!」
「やめてよ、もう」
ミリアリアは騎士団本部で総長付き侍女として働いている。元彼ディランの浮気相手は、同じ騎士団の薬務課で働くアンジーだ。ふわっとカールしたブルネットの髪と大きな瞳が可愛らしく、小柄で色白で、ミリアリアよりもひとつ年下。黙々と仕事はするし周囲の評判が悪いわけではない。
ミリアリアが大量の書類を抱えて歩いていると「手伝います!」と駆け寄ってきてくれるのだが。「わたし重いもの持ったことないんですぅ。いつも誰かが手伝ってくれて」などと余計なことを言うのがほんの少しだけ、引っかかる──そんな女性だ。
「アンジー……ですってえぇ?」
ヤスミンが怒りでぷるぷると震えた。手にした木のカップがひしゃげてしまいそうなほど、ぎゅうぅと拳を握りしめる。
「よりによって、あのいけすかない女! ちょっと前に退職してせいせいしたと思ったら──」
「いや、それほど悪いコじゃないとは思うんだけど」
「あんな女に靡くなんて。しかも妊娠ですって!? ディランはどうかしてるわっ!」
ミリアリアはしっと人差し指を口元に当てた。声が大きい。
「──悪いコじゃないってば」
ミリアリアとディランが付き合いはじめたのは三年前。
ディランは師団長を務めるほどの剣の腕を持つ将来有望な騎士だ。実直な性格で、容姿も涼し気に整っているし、背もすらりと高い。騎士団の女性職員からモテモテなのに、鼻の下を伸ばしたりしない硬派な男、と評判だった。
そんなディランに騎士団の職員宿舎の前で待ち伏せされ、「俺と付き合ってほしい」と告げられたときは信じられなかった。「ミリアリアのように、落ち着いていてきちんとした女性が好きなんだ」と愛し気に目を細められて、まだ十七歳だったミリアリアはすっかり舞い上がってしまった。
そこから半同棲のようにディランの家に通い、騎士団総長付き侍女の仕事もしながら彼の身の回りの世話をし、彼の欲を受け止めているうちに、ミリアリアは自分の性癖に気づいていった。私、意外と……激しいのが好きなんだわ、と。
「なるほど。性の不一致、ってことか」
「そう。ちょっとそっちが淡泊──だったのよね」
ミリアリアは一見落ち着いていてきちんとした女性なのだが、夜に限っては落ち着きのない乱れた感じが好きらしい。そう自覚してしまってから、ディランとの閨が物足りなくなった。端的にいうと、イケない。白々しい演技をしようにも、ある程度気持ちよくなければ無理というものだ。
「ちょっとだけディランが可哀想になってきた……」
「でしょ。私も悪いの」
それでも求められれば拒まなかった。愛されているならま、いっか、と。放つとすぐに眠ってしまう恋人を起こさぬよう気遣いつつ、いつもひとりでむくりと寝台から起き上がり、宿舎の自室へと戻っていた。
そんな生活を続けるうちに、そもそも彼のことが好きなのかどうかわからなくなってきた。気持ちの揺れを見透かされたのか、やがてだんだんとディランの束縛が激しくなってきて──。
「他に男がいるんだろう、と疑われて。顔を合わせるたび責められてたの」
「うわぁ」
飲まずにいられないわ、とヤスミンがまたおかわりを頼む。ミリアリアも横で指を二本立てた。とてもじゃないが素面で話すことじゃない。なみなみと酒が注がれたカップがどん、と二人の前に置かれる。
「嫉妬のあまり夜も激しく……とはならないわけ?」
「それが、ならなかったのよねぇ。逆に、そのころからだんだんと少なくなっていったの」
二人してぐい、と杯を傾ける。隣席の若い男性が「ちょっと飲み過ぎじゃない?」と声をかけてきたが、ヤスミンがちらりと目線を寄越し、チッと舌打ちをした。
「今思えば。そのころにはすでにアンジーと付き合ってたんだろうな、って」
「浮気しといて、束縛? 最っ低ね」
まったくだ。浮気相手と深い仲になっていたのなら、ミリアリアとずるずると付き合っている意味などなかったのに。自分は浮気をしながら、恋人を束縛し、責めるような人だとは思っていなかった。先に心が離れてしまったミリアリアに対する、ディランの意趣返しだったのだろうか。
「そこまで彼を追い詰めてしまったことが、ショックだった。性根はそんな人じゃないのよ。真面目で、実直で、非の打ちどころのない男性だもの」
「たしかに、ディランはモッテモテだったものね。ミリアリアとくっついたときは騎士団じゅうに激震が走ったし」
当時、お色気でディランを落とそうとしていた数多の女性たちは「ミリアリアが好みのタイプならそりゃあ無理だわ」「ある意味納得した」と諦め顔で首を横に振った。「ディランはこっち方向だったのかぁ……」と肩を落とす美女たちに、たくさん奢らされたものだ。
「始まりがそんな状況だったから、自分も舞い上がってしまったの。ディランに選ばれた私、すごいって」
「ミリアリア……」
「つまり私、彼のこと愛してはいなかった……のよね」
「だけどディランは間違いなく貴女のことが好きだったし、ミリアリアはあんなに尽くしてたんだし……」
「こんな気持ちで三年も傍に居たなんて、ディランに悪いことしちゃったわ。申し訳なくて」
「だからって浮気とか、ディランのやったことは許されないわ! 申し訳ないだなんて思う必要ないわよ!」
憤るヤスミンに、ミリアリアはふっと口の端を上げ、ごくりと酒を呷った。ヤスミンはテーブルに両肘をつき、身を乗り出すようにミリアリアの顔を覗き込む。
「──ミリアリア。ディランを愛していなかったっていうのなら。いったいどんな男がいいのよ?」
「え?」
「職場は男ばっかりなんだから、素敵だなーって思う人がひとりくらいはいるでしょ? もう別れて三ヶ月も経ったのなら、新しい恋に目を向けるべきだわ!」
ミリアリアはうーんと首を捻った。
新しい恋──か。
ミリアリアは「師団長の女」と長らく認識されてきた。周囲は悋気の強いディランに気を遣っていたし、ミリアリアもまたあらぬ誤解を生まぬよう、恋人以外の男性と親しくすることを極力避けてきた。他の男性を恋愛対象として見ない癖がついている、という感じだ。
そんな環境で、新しい相手がすぐに見つかるとも思えない……というか、もう正直職場恋愛は面倒くさいな、と思ってしまっている。
「うん──実は近々田舎に帰ろうかなって」
「え?」
「父から、恋人と別れたなら帰ってこいって言われているの」
ミリアリアはそこそこきちんとした商家の娘だ。王都の騎士団で三年ほど侍女を務めたとなれば、郷里に帰れば縁談に不自由はしないだろう。
「アンジーに赤ちゃんが生まれるんだもの。二人には幸せになってもらいたいの。私が近くに居ないほうがいいでしょ?」
「そんな……」
「どっちにしても騎士団は辞めるつもり。今はちょっと忙しいから、ひと月後くらいかな」
つい先日、第四騎士団が演習から帰ってきたばかりで、事務方は残務処理で忙しい。落ち着いたら騎士団総長に退職の意思を伝えて、実家に帰って嫁ぎ先を段取りしてもらえばいいだろう。
帰るところがある自分は恵まれている、とミリアリアはにっこりと笑った。
「……」
悲しそうに黙り込んでしまったヤスミンの顔を、ミリアリアは申し訳なさそうに覗き込む。
「ヤスミン?」
「何よ……そんな辛いこと、今まで何にも言わずに自分ひとりで抱え込んで……」
「ごめんね、こんな話聞かせちゃって」
「……っ。なんで、ミリアリアが、いなかにっ、かえらなきゃいけないのよぅ……っ…ひっ…」
しゃくりあげるヤスミン。ミリアリアは慌てて手を伸ばし、震える肩をぽんぽんと叩いた。
「ちょっとぉ、泣かないでよ!」
「いやよぅ! ミリアリア、かえんないでよぉぉぉ……」
むさくるしい男たちがひしめく酒場に、若い女性が酔っぱらって泣き喚く声が響き渡る。遠くの席から、何だ何だと立ち上がってこちらを窺う客も。頼んでもいないのに、酒の満たされたカップが二杯、テーブルに運ばれてくる。どこかの客の奢りか、それともカスペル爺の奢りだろうか。
うわあぁん、となかなか泣き止まないヤスミンを、ミリアリアは背中をさすりながら懸命に宥める。
「そ、そうね……いい男ね、ヤスミンの言う通りいい男を探せばいいのよね!」
俺なんかどう? と若い男がまた声をかけてくる。ミリアリアは肩を竦め、掌をひらひらさせて追い払った。
「いい男……どんなのが、好みなのよぉ。わたし、がんばる、からぁ……ひっく、ミリアリアが、かえらなくても、いいように──」
「だ、大丈夫だってば! 自分で頑張るわよ、ね? だから泣かないで?」
「だれっ!? どんなのがすきなのっ? 言ってよぉぉ」
すっかり泣きモードに入ってしまったヤスミンをとにかく黙らせようと、ミリアリアは必死で考えを巡らせる。どんな男性が好みか……と言われたら?
そこでミリアリアの脳裏に一人の男性が過った。
「そうねぇ……例えば、ハーク団長、みたいな」
「へ?」
「誰しも憧れる第四騎士団長閣下、よ」
「エリウス・ハーク──こりゃまた大物だわね」
ミリアリアはふふふ、といたずらっぽく笑った。口にしたのは、ヤスミンがぴたりと泣き止むほどの──まさに「泣く子も黙る」ほどの、大物の名前である。
エリウス・ハーク率いる第四騎士団は、最近演習から王都に帰着したばかり。辺境警備や隣国との調整役を担うだけあって、騎士団の中でも選りすぐりの精鋭集団だ。
第四の騎士だけが纏うことを許された漆黒の騎士服。それがはち切れんばかりに鍛え上げられた身体。王都を離れていることが多く、彼らの姿を見る機会は少ないのだが、それがまたレア感を煽る……ということで第四の騎士は女性事務官や侍女たちにたいへん人気がある。その中でもエリウス・ハーク団長は憧憬の的だ。
先日、ミリアリアは廊下でとある若い騎士に呼び止められた。手にしていた大量の書類をよいしょと抱えなおしてその騎士の質問に答えていたら、話はだんだんと雑談に繋がっていった。
長くなりそうだな、とミリアリアがちょっと困ったような愛想笑いを浮かべた次の瞬間、背後から長い腕が被さってきて、抱えていた書類を腕の中からごっそり抜き取られた。
ミリアリアが驚いて振り返ると、ハーク団長が頭上に書類の束を掲げて立っていた。
「廊下で雑談をするなら」
「は、はいっ」
叱られる、とミリアリアは慌てて姿勢を正し、深々と頭を下げた。
「──女性の荷物くらい持ってやりなさい」
「え?」
ハーク団長は、ミリアリアから取り上げた書類を年若の騎士にばさりと渡した。騎士に向かって軽く眉を寄せると、ミリアリアの横を通り過ぎて廊下をスタスタと歩いて行ってしまったのだ。