第一章 危険な関係
暗がりの中、座り込んだ幼い兄妹が抱きしめ合って過ごしていた。
「ごめんなさい、リカルドお兄様……ジェーンのせいで……ごめんなさい……!」
「ジェーン、気にしなくて大丈夫だよ。父さんの癇癪はいつものことだし、こんなのかすり傷だ」
「でも、でも……」
泣きじゃくる妹の身体を、兄は柔らかく抱き寄せる。
そうして、優しい口調で問いかけた。
「なあ、お前がそんなに気にするんだったら、兄さんに誓ってくれるか?」
妹はぱっと顔を上げる。
「リカルドお兄様の言うことなら、わたし、なんでも聞くわ!」
「そうか、だったらジェーン――」
彼は妹の頬にちゅっと口づけると、蕩けるような笑みを浮かべて告げる。
「――ずっと兄さんのそばにいてくれるか?」
「ええ、もちろんよ、お兄様!! ずっとお兄様のそばにいるわ!」
「ありがとう、ジェーン」
再び、二人は抱きしめ合った。
にこにこと笑う妹とは対照的に、仄暗い気持ちを兄が抱いているとは知らずに――。
そうして、数年の月日が流れた。
***
伯爵家の令嬢ジェーンは、使用人もつけずに貴族街の散歩をしていた。
ふわふわとした金色の髪が湿った風になびく。サファイアのような蒼い瞳は、憂いを帯びていた。爽やかな初夏に相応しいミントグリーンのドレスを纏いつつも、彼女の気分はどことなく重い。
ぱしゃりと水たまりの中を歩んでしまった。
昨晩の雨で、新芽が陽光できらきらと輝いているのが、なんとなく眩しすぎる。
むせ返る土の香りが鼻腔をついてきた。
「あら、ジェーンじゃない」
前方から、黒髪のご令嬢が声をかけてくる。
趣味の悪いドギツイピンクのドレスを纏い、髪には色々な装飾が施されていた。顔は美人なのだが、とにかく趣味が悪い。
彼女の後ろには数人の使用人とご令嬢たちの姿がちらほらと見えた。
「デボラ……」
正直、あまり会いたくない人物と出会ったとジェーンは胸中で思った。
目の前でふんぞり返ったデボラは、ふふんと鼻を鳴らす。
「供もつけずに、これだから妾の子は……」
祖母は公爵家出身であり、侯爵家のご令嬢だというデボラ。やたらと妾の子であるジェーンを馬鹿にしてくるところが彼女にはあった。
ずきんと胸が痛む。
だけど、いつものことだ。
流そうとするが、デボラの口撃は止まない。
「あたくしの婚約者候補――リカルド・ノーマン様はご一緒ではないの? ああ、そうでしたわ、パブリックスクールに通っているのでしたわね……だけど最近は屋敷に帰っていないようじゃない? ジェーン、あなた、見捨てられたのではなくて?」
ジェーンはしゅんと項垂れた。
だけど、心の中ではこう思う。
(お兄様は私を見捨てないわ)
たった一人の兄リカルド・ノーマン。
三歳年上の彼は、面倒見が良くて、優しくて爽やかで明るい青年だ。
赤みがかった鳶色の髪に、切れ長のエメラルドグリーンの瞳。
愛嬌のある甘いマスクで、令嬢たちに人気だった。デボラも彼に恋する女性の一人なのだろう。妹であるジェーンに昔から突っかかってきていた。
(くすんだ金髪に青い瞳をしている私と、鳶色の髪に緑の瞳のお兄様……母親違いの兄妹だとすぐに気づかれてしまう。デボラだけじゃなく、他のご令嬢やご子息からも嫌がらせや罵詈雑言を私は受けてきたりしたわ……)
数年前までは、虐められたジェーンがめそめそしていると、いじめっこには倍返しをしてくれたリカルド。そうしていつも、優しい言葉と共に花を持ってきてくれたのだ。
(そんなお兄様も、数年前から、全寮制のパブリック・スクールに通いはじめた)
両親の話では、文武両道で成績も優秀だという。元々、運動神経も良かったため、乗馬で右に出るものはいないという噂だ。
兄の華々しい活躍の噂はよく耳にする。
だけど――最近、その兄からの手紙の返事がないのだ。
だからこそ、デボラの「見捨てられた」という言葉が胸に刺さってくる。
「ほら、反論できないのでしょう、ジェーン。ふふ、ほら、ジェーン。これに懲りて、リカルド様のことを諦めたのでしたなら、あたくしの妹分として色々と可愛がって差し上げてよ。あんな、誰にでも優しくて、吹けば飛んでいきそうな男の人よりも――」
得意げにデボラがのたまってくる。
「お兄様は……私を見捨てたり……そんなことは――」
ためらっていた、その時――。
ふっと、両肩に何かが置かれた。
なんだろうと思っていると、後ろに引き寄せられる。
背中に逞しい胸板がぶつかった。
ふわりと柑橘系の爽やかな香りが届く。
(あ……この香りは……)
「デボラ・ダグラス侯爵令嬢――うちの妹に何か御用でしょうか?」
耳に心地よいテノールが、頭上で聴こえてきた。
眼前のデボラが、顔を真っ青にして悲鳴を上げる。
「リ、リカルド様っ……!」
背後にいる取り巻きたちも、きゃあきゃあ喚きはじめた。
興奮した様子でデボラがまくしたてる。
「パブリック・スクールからお帰りになられていたのですか!?」
「ちょうど春季休暇で、今日屋敷に帰ってきていましてね――それで、うちの妹には何をお話しされていたのですか?」
少しだけリカルドの声が低くなった。
デボラの表情がひきつる。
「みっ、未来の妹御とは仲良くしようと思って声を掛けた次第ですわ!! さあ、皆帰りましょう!!」
リカルドに会いたいと言っていたわりには、彼女は供を連れて、そそくさと退散していった。
背後にいる彼が、ぽんぽんとジェーンの頭を叩いてくる。
「よ! 元気にしてたか? ジェーン」
「リカルドお兄様――!」
振り返ると、そこには大好きな兄の姿。
(あ――)
半年前に見た頃よりも、精悍さが増したリカルド。
乗馬で日に焼けた肌。明るい笑顔が爽やかさを際立てていた。
ジェーンの心臓がドキンと跳ねる。
(私ったら、半分は血の繋がったお兄様に対して、ドキドキするなんて――)
「屋敷に帰ったら、お前がいないから心配したんだ」
「そうだったのですね……」
「よし、帰るぞ、ジェーン」
そう言うと、リカルドはジェーンの手をとった。
(お兄様……良かった、変わらずお優しいまま……)
優しい兄の大きな手に引かれ、屋敷へと帰る。
穏やかな気持ちを抱かせてくる、兄の笑顔。
休暇中だけでも、昔と同じような日々が帰ってくる。
そう思っていたのだ。
兄の態度が豹変するまでは――。
***
夕刻。
白いテーブルを囲み、家族で食事を始めていた。
リカルドが帰省した祝いにと、豪勢な食卓なのだが、雰囲気はどことなく暗い。
上座にいるのは父と母の二人だ。父の容姿はジェーンが、母の容姿はリカルドが引き継いでいる。
(食事中だけど……空気が重たい……)
――せっかくリカルドお兄様が帰ってきたというのに。
みぞおちあたりに石でも放り込まれたのではないかというぐらい、ずしりとした感覚があり、なかなか食事が進まなかった。
金髪碧眼の父親が、妻によく似た鳶色碧眼の息子に声を掛ける。
「リカルド。寮で同じ伯爵家のご子息が、また学校で首位をとったそうじゃないか」
「ええ、そうですね。それがどうかしましたか?」
「お前は乗馬だけなのか? あちらはほぼ全ての科目で一番だという。何事もやるならばトップをとれと教えてきたはずだが――」
「――そうでしたかね」
ひんやりとした空気の中、父子は黙々と肉を摂取していた。
しばらく、父と子と思えないほどに淡々としたやり取りが続く。
ガチャリと銀のカトラリーを置くと、父が席を立った。
「もう良い、話にならない。やはり愚息は愚息でしかない」
「あ、あなた……!」
リカルドによく似た母が悲鳴のような声を上げる。
「――話がある。後で私の書斎に来なさい、リカルド」
だが、妻の話も聞かず、一度咳き込んだ後、父は部屋を退室した。
「リカルド、ごめんなさい……お父様も悪気があるわけじゃないのよ」
「――分かっていますよ……」
リカルドは母に対しても丁寧に返す。彼の緑の瞳には憐みが宿っていた。
(お兄様……お義母様……)
リカルドにとっては父も母も血の繋がりのある親子だ。だが、父が恋人に手をつけて生まれてきたらしいジェーンは、母とは血は繋がっていない。それでも別け隔てなく育ててくれた優しい女性だという見方も出来た。
(だけど見方を変えれば――)
母は父に対して、昔から意見を言うことが出来ないだけとも言える。
それには両親の結婚までの流れも影響しているようだ。
ノーマン伯爵令嬢だった母以外に、ノーマン伯爵家には子が出来なかったそう。
特許状により、一代限り女伯爵として認められた母は、父を婿養子のような形で迎え入れた。そうして領地経営等の全てを父に任せた。
当時の恋人との仲を引き裂いた負い目だろうか――。
(お義母様はお父様の言いなりだった)
息子であるリカルドが父から折檻を受けていても、声を荒らげるだけでかばったりはしてくれない。
母の代わりに間に入ってくれていた執事は、父の手によって解雇された。
リカルドが明朗快活に育ったことが奇跡のような状態だ。
(『俺をかばってくれるのは屋敷にはジェーンだけだ』って、お兄様は言っていたわね……)
母も兄も、それ以上は何も語らなかった。
結局、食事が喉をうまく通らないまま、その場を後にすることになったのだった。
***
父のいる書斎へと兄が向かっている間。
(大丈夫かしら? お兄様……お父様に叱られていないかしら?)
湯浴みを済ませて薄手の夜着へと着替えたジェーンは、兄の部屋の前をうろうろしていた。
兄のことが心配で、落ち着かずにそわそわしていたのだ。
そんな中、執事見習いの青年に声をかけられ、そのまま会話をしていた時のこと――。
「ジェーン」
「お兄様!」
向こうからリカルドが姿を現した。
ジェーンは兄のもとへと走り寄る。
リカルドが一瞥すると、執事見習いは一礼し、その場を立ち去った。
「ジェーン、そんな薄着で廊下に出るもんじゃない」
「あ……ごめんなさい、お兄様……」
兄に咎められ、妹は焦る。
「すまない、お前を怒りたいわけじゃなくて心配なだけなんだ――他の男の目に、薄着のお前を見られたくなくて……さあ、中にお入り」
促されるがまま、リカルドの部屋の中へとジェーンは入った。
おずおずと妹は兄に声をかける。
「その……リカルドお兄様……大丈夫でしたか?」
子どもの頃からの癖だ。
綺麗な顔に傷がついていないか心配で――部屋に入るなり、ジェーンは兄の顔を一生懸命見上げた。ふっと彼の顔が綻んだ。
「もう俺もじゅうぶん大人だよ。親父から、昔みたいに殴られたりすることはない。相変わらず、ジェーンは優しいな――」
「そんなこと」
そっとリカルドがジェーンの身体を抱き寄せる。
以前よりも逞しくなった二の腕に引き寄せられ、引き締まった体躯に顔を埋める格好となった。
(また私ったら、相手はお兄様なのに……)
彼の温もりを感じ、妹の鼓動が高鳴った。
少しだけ、彼の腕の力が緩んだかと思うと、頬にそっと口づけられる。
そのまま長い指で、緩やかな金の髪を撫で始めた。
そうして、眉をひそめながら、リカルドが口を開く。