なんとなく適齢期が来て、同じ職場だったトム・ジュールと結婚したのは三年前。
年齢相応の流行や風潮のようなものもあり、嫁き遅れるのも良くないのかな……なんて――そんなことを思って、周囲に勧められるがまま、彼とは結婚した。
夫はとても穏やかそうな見た目で、腰の低い人物で――とりたてて女性たちが憧れるような容姿ではないけれども、それなりに優しくて――こんな人なら浮気もしないだろうし、平和に暮らせるのかなと、流されるように結婚を決めた。
特に理由として大きかったのは、『浮気をしないだろう』という点。
どうして、そこにこだわったのかというと、偏【ひとえ】に学生時代に交際していた同級生ジェラルド・デイビスの影響が大きいと言える。
***
ジェラルドは、いわゆるハンサムな美青年だった。
柔らかなキャラメルブロンドに、アーモンドのような優し気な形をした菫色の瞳。
ふんわりと微笑む姿は、女生徒たちの心を蕩かした。
実家は貴族。大学では法学を専攻し、成績はもちろんトップクラス。
運動も得意で、バスケットボール部ではキャプテンをこなす、身も軽やかな青年だった。
そんな彼と、当時、どうして交際することになったのかというと、たまたまアルバイト先が同じだったから――という、ありきたりな理由だ。
郊外のレストランでウェイターをしていた彼の元に、私がウェイトレスとして雇われたのだった。
たまたま帰り時間が同じだった彼は、とても紳士的な人物で――「ミランダ、夜になると、ホームレスや破落戸【ごろつき】たちが出て危険だから」と、送り迎えをしてもらっているうちに、だんだんと距離が近づいていった。
「ミランダ、俺は、どうも君のことを女性として見ているようだ」
春の花々が咲き乱れる花園で、彼は私に告白してくれて――あれが人生の絶頂だったとさえ思う。
「ミランダ、君の黒髪は、エキゾチックでとても綺麗だ」
甘い言葉を囁いてくるジェラルドは、女性に無理強いをするようなタイプではなかった。手をつなぎ、抱きしめ合い、キスをして――そうして、結ばれるまでに一年近く時間がかかったことを覚えている。
破瓜の痛みはあったけれど、大切にされていると分かる愛撫と情熱的な求めで、ひどく幸せな初夜を迎えたのだった。
(初めて付き合ったジェラルド、優しくて理知的で親切で、そうして誠実で……どうして、こんなに素敵な人が私に恋してくれたのか分からない……)
文学部に所属していた私は、他生徒たちのやっかみを受けることもあったが、満ち足りた大学生活四年間を過ごすことが出来たように思う。
だけど、別れはもうすぐ卒業という頃に訪れた。
あんなに真面目で誠実だと思っていたジェラルドが、学年でも人気の派手なブロンド美女キーラと身を寄せ合っているところを見てしまったのだった。
キーラからは「ジェラルドと身体の関係があるのよ」と告げられた。
なんだか、何も信じられなくなって――。
別れを告げられるのも怖くて――。
何度も彼から連絡をとろうとしてくれたのに――。
傷ついた私は、彼から離れることを決めたのだった。
***
ジェラルドと別れて以来、他の男性とは付き合うことが出来ないでいた。
そうして、誠実そうな見た目をしているからと、今の夫トムを選んだのだ。
それなりの平和を享受出来れば、それで良い。
そう思って結婚したが、誠実だと思っていたトムの実態は違った。
生活費は最低限しか渡してくれず、その中での地味な生活を強いられた。
それに関しては仕方がないと思っていたのだが、トムは自分が男友達と会うわりに、私が女友達と会うことは嫌がった。
実家に帰ろうとすると、仕事で疲れて帰宅する夫の出迎えをしないなんてと責めてくるものだから、実家とも疎遠になってしまった。
正直、結婚生活が窮屈で仕方がなかった。
しかも――。
問題はそれ以外にもあったのだ。
彼との夜の営みだ。
ジェラルドのそれとは違って、あっさりとしたものだった。
前付き合っていた相手と夫を比較するなんて最低な行為だと思いながらも、漠然とそう思ってしまう自分がいて――そんな自分に少しだけ嫌悪感を抱いたものだ。
(だけど、トムは私以外の女性と浮気したりはしないから)
そう、信じていたのに――。
たまたま数日間、実家であるスミス家に帰って、予定より少し早く夫婦の家へと戻った私が見たのは――。
――寝室で、他の女性と情事を交わす夫トムの姿だった。
私を抱く時とは異なり、金髪美女に熱っぽく愛を囁く夫。
そんな彼の姿に、私は身動きが取れなくなる。
寝室の扉の前に立つ私に彼が気づいたのは、彼が浮気相手に精を注いだ後だった。
「ミランダ、誤解なんだ! これは、その――」
なんだか無性に苦しくて、全身が震えた。
トムの声を聞いて、なぜだか怖気が走る。
夫の言い訳を聞きたくなくて、私は脱兎のごとく逃げ出したのだった。
***
そのまま、夫トムとは離縁になる。
そう思っていたのに、なぜだか、彼は離縁に対して、なかなか首を縦に振ってはくれなかった。
ちなみに、トムの浮気相手は、有名な娼婦だったそうだ。
(娼婦ならば許せという意見もあるけれど、商売以上の付き合いをして、相手にかなり入れ込んでいたみたい)
そのことが原因で自分が質素な生活を強いられていたのかと思うと、怒りを通り越して虚しさが湧いてきた。
(どこかで見たことがあるような女性だったけれど、私に娼婦の知り合いはいない……)
トムは実家に帰った私の元を何度も訪ねてくる。
一度でも浮気をした相手を許すべきではない。
だけど、あまりにも諦めてくれないし、私にも何か落ち度があったのかもしれないからと、話し合いの場を持つことにした。
一応、弁護士にも相談をして、第三者の立ち合いの元、夫婦の離婚協議をおこなうことになったのだ。
そして当日、依頼していた事務所から弁護士が来る前のこと、トムとうっかり二人きりになってしまった。
その瞬間――温厚だと思っていたトムが豹変したのだ。
強い力で私の二の腕を掴み、ギラギラとした瞳で私を見下げ、下卑た笑いを口に浮かべている。
「ミランダ――これから、どうやって一人で生きて行くつもりなんだい? 離婚歴のある女性――しかも、君みたいに、取り立てて特徴のない女性、もう次の嫁ぎ先なんてないよ。今まで、僕の給料で生活して事足りていたはずだ。若い女ならいざ知らず、お前のような年増に稼ぎ場所だってあるはずがない」
――この人が、こんなことを思っていたなんて――。
この結婚を選んだのは自分だ。
今この結果になっているのは全て自分の責任で間違いない。
けれども、どうしてこんな男性と結婚したのかと、己の愚かさを恥じてしまって仕方がなかった。
トムが私の腕をさらにぎりりと掴む。
「きゃっ――!」
「ほら、ミランダ、今俺の言うことを聞きさえすれば――」
着用していたブラウスの胸倉を掴まれる。
(誰か、助けて――!)
助けてくれる人物がいるはずないのに――。
思わず目を瞑る。
ちょうど、その時――。
「うわぁあ!」
夫が間の抜けた声を上げた。
恐る恐る目を開くと――。
「ミスター・ジュール、妻に暴力を振るう現場を押さえさせてもらった――」
――聞き覚えのある、涼やかな声音。
(そんな、まさか――!)
夫の腕をねじりあげる、絵に描いたような美青年は――。
「誰だ! お前は!!」
みっともなく、わめくトムを、彼は冷ややかな目で見る。
(優し気な雰囲気とは変わって、冷たい雰囲気になってしまっているけれど――私が彼を見間違えるはずがない――)
そうして、キャラメルブロンドの青年は玲瓏たる口調で告げた。
「私は弁護士のジェラルド・デイビス。離婚協議に来たのに、どうやら、暴行罪で警察の元に貴方を送るのが先のようだ――」
私を助けてくれたのは、法律事務所からやって来たという弁護士で――。
かつて、学生時代に付き合っていた同級生ジェラルド・デイビス本人だったのだ。