指輪
「嘘でしょ……、抜けない」
神野美結(かみのみゆ)は店内で真っ青になっていた。
二重の眼は焦りの色を浮かべている。華やかなピンクベージュから今にも涙が出そうだ。
宝石店で店員に勧められるまま、指輪をはめたが抜けなくなってしまった。儀礼的な笑みで対応していた店員も、今では青ざめている。
「カードで支払います。……分割払いで」
今月の給料が一瞬で消えた。
◇
ナチュラルボブから、しずく形のピアスが揺れる。
アッシュブラウンの髪をなびかせ、指輪を着けたまま、美結は約束の店へと急いでいた。
今日は記念すべき二十五歳の誕生日。それなのに厄日だ。朝から知りたくもない情報を見て、そのまま宝石店に向かい、給料が消えた。
「ぎゃははっ。だるいて」
豪快に笑う大学生グループとすれ違う。美結が笑われた訳ではないのに被害妄想に襲われた。沈む心とは裏腹に金曜の夜は街が賑やかだ。過ぎゆく景観の中で、左薬指にある指輪が小さく輝いた。
天罰が下ったのだろう。
これは好きな人を振り回した報いだ。
美結には好きな人がいる。三年前まで付き合っていた元彼だ。別れを切り出したのは美結だというのに、未練がましく想いが残っていた。
その元彼の七瀬悠真(ななせゆうま)と、今日は店で食事をする。
悠真とは高校で知り合い、友達から恋人になった。大学在学中に別れて今に至る。恋は上手くいかなかったが人間としては相性が良い。月に一度は食事をし、気楽な友人関係を続けていた。
だが楽しみにしていた約束も、今日だけは違う。
美結は小さく溜息をついた。普段は目を引くショーウインドウが今夜は眩しい。
悠真は新進気鋭のファッションデザイナーだ。
美結と別れた一年後、彼はアパレルブランドを友人と立ち上げた。SNSを活用し、ローンチから数か月で独自の販売ルートを切り開いていった。
アイテムは若い男女を中心に展開されている。モデルやインフルエンサーが着用したことでSNSに火が付き、テレビや雑誌、様々な媒体で取り上げられた。
悠真は神様に愛されている。
目元が凛々しく精悍な顔立ちに加え、高身長でスタイルも良い。悠真の社交性もあり、瞬く間に有名デザイナーになった。
元彼の悠真は「大事な話があるから、今日は必ず来て欲しい」と言っていた。きっと恋人が出来た報告だろう。知りたくもないのにインストで見てしまった。
投稿通知に反応したのが運の尽き。アップされていたのは、細部まで拘(こだわ)って作ったという指輪だった。
奇しくも美結の誕生日に発売された。
『渾身のデザインと最大限の技法が詰まっています。好きな人を想い、心を込めて作りました』
数行で美結の心は砕かれた。
震える指でタップすると『恋人は指輪みたいに綺麗系ですか?』のコメントに『はい』のリプがついていた。月一で食事をしていたのに、恋人がいる素振りは見せなかった。
だが同時に気がついたことがある。
美結と悠真は近況を話すだけで、大切なことを共有する関係性は消えていた。
気がつくと足は真っ直ぐに、宝石店へと向かっていた。この眼で見るまでは信じたくなかった。だが指輪は鳥肌が立つほど素晴らしいもので、媒質の入射光まで計算し、デザインされていた。
美結も大学生の時はデザイナーを目指していたからこそ、悠真の凄さが分かる。
細部にこそ神は宿る。
息を呑むほど美しくデザインされた指輪は、店内の一角を優しく彩っていた。複雑なデザインと技法を指輪に詰め、銀色をどこまでも華やかにする。ガラスケースの中でひときわ光が集まり、手のひらに置くと肌に透明感が生まれた。
実物の指輪に惹き込まれ、店員に勧められるまま試着をしてしまった。そうして今に至る。
指輪をつけたまま悠真と会うのは嫌だった。だが食事を断ろうにも、待ち合わせまで時間が無い。もし指摘されたら、いない恋人から貰ったと見栄を張るしかない。
ペアリングなのに片方だけ。恋愛に宙ぶらりんな自分には、ぴったりだと美結は思った。
◇
店先に着くと悠真はいた。
どこか思い詰めた横顔で俯いている。声を掛けるのを躊躇(ためら)ったが「悠真」と呼ぶと、表情が太陽のように明るくなった。聡明な目元が微笑みに変わる。
体躯のシルエットが映えるジャケットに、ベーシックなパンツを合わせている。濃紺のセットアップ姿に、不覚にも胸がときめいた。清潔感のある無造作ヘアが爽やかでいい。
「美結、久し振り」
「先月も会ったじゃん」
「俺にとっては久し振りなんだよ」
悠真は右の通路へと進んだ。
「悠真、そっちは個室だよ」
「予約したんだ。合ってるよ」
大きな背中から弾んだ声がした。
ツーブロックと刈り上げで、サイドから項(うなじ)にかけて凛々しい美しさがある。靭(しな)やかなフォルムに、男の色香を感じた。
「混んでるのに、よく取れたね」
「うん。今日は美結の誕生日だろ。たまには良いかって」
「……ありがとう」
ずきりと胸が痛んだ。
優しくしてくれる男には、彼女がいる。
「その代わり、俺の誕生日は貸し切りで頼むわ」
「無理っ」
豪快に悠真が笑う。妙にテンションが高い。
裏通りから一つ外れた料理店は、美結と悠真の行きつけの店だ。四季折々の食材を扱い、どこか隠れ家を感じさせる店構えとお品書き。
向かい合って席につくと、すぐに料理が運ばれてきた。先に着いた悠真が何品か注文をしていたようだ。土壇場でキャンセルしなくて良かったと、美結は内心冷や汗をかいた。
左手をテーブル下に隠し、グラスを合わせて乾杯をした。春を詰め込んだサラダを悠真が彩りよく取り分けて、美結に手渡す。
「美結の職場、プレタのコレクションは順調か?」
「うん。サンプルは一段落ついたよ。後はデザインの調整待ちかな」
美結はデザイナーにはなれなかったが、アパレルブランドのパタンナーとして生計を立てていた。デザイナーからの指示で平面図を立体に起こす。時にはデザイナーと話し込んで、一つの服を作っていく。大変だが、やりがいがあった。
「このサラダ、美味しい!」
「美結、こっちも食べて」
ホワイトアスパラガスに菜の花のピューレが添えられている。白と緑が美しい。
「……綺麗で食べるのが勿体(もったい)ないね」
「じゃあ俺が食べるか」
「だめっ」
悠真が優しく微笑む。眼元に柔らかな下瞼が形成された。
美結が恋した表情だ。胸が熱くなる。思わず視線を下げると、銀色の指輪が冷たく光っていた。
『好きな人を想い、心を込めて作りました』
振り払うように美結は近況を話した。
「今度、モヘアニットのワンピースを編むんだ」
「仕事で?」
「ううん、自分用に。ショーで仲良くなったニッターさんがいてね。今度の休みに教えてもらえることになって」
悠真の箸が止まる。
「……良いな。俺も編み方を教わりたい。俺も参加していいか聞いてくれ」
熱心さに美結は驚く。
「でも悠真の知らない人だよ」
「俺は平気。いつ仲良くなったんだ?」
「ん~、前回の秋冬コレクションかな」
「秋冬……か。確かニッターは六人、来てたよな。……もしかしてジスの田中さんか? あ、女の子の方の」
「そう! よく分かったね」
悠真は笑みを深めた。
「可愛くシニックに編み上げるニッターは珍しいから。それに美結の好きそうな職人肌タイプだ。……うーん、そうかぁ。田中さんか。俺が参加して、女子会の邪魔をするのは悪いな。やめておくよ」
食いついた割にあっさりと引き下がった。
だが悠真の言葉は続く。
「何度も言うけど、仕事を通じて仲良くなった人との交流があったら、俺にも教えてくれ。俺も参加して学びたいし、人脈を広げたい。今月、他に予定は?」
「無いよ。相変わらず勉強熱心だね」
「まあな。……大切なことには、常にアンテナを張っておきたいんだ」
怖いくらい真剣な顔つきだ。
美結は感心する。有名デザイナーになっても、悠真は真面目で向上心がある。
「美結、次は何を飲む?」
そしてよく気がつく。美結の空いたグラスを下げてくれた。
「えっと、パナシェにする」
「分かった。料理は……、あまり箸が進んでないな」
ドキッとしたが、「食べてるよ」と誤魔化す。
「本当に?」
「うん」
「それなら良いんだ。ほら、サーモンを食べて。美味いぞ」
「ありがとう」
箸を置き、右手で皿を受け取る。迷いつつテーブルへ戻すと、悠真の眉が上がった。
「……好きだろ? 食べないのか?」
「もう少し後にするよ。……あ、そうだ。この間ね」
片手で食事をするのは、思っていた以上に難しい。
美結は話しながらハンカチを取り出し、テーブル下の左手に被せた。悠真が笑っている隙に、左手をそっと皿に添える。
チラリと悠真を窺うが、会話に夢中で気がついていない。上手くいった。
安心してサーモンに箸を寄せると、何故か皿が遠ざかる。悠真が手元へと引き寄せていた。
「あっ、私のサーモン!」
「左手、怪我でもしたのか?」
美結の動きが止まる。
「ずっと変な姿勢で食べるから気になってたんだ。ハサミで切ったのか?」
「ううん……、その」
秒でバレたことに動揺した。
指輪が抜けなくなったとは言えない。給料まで消えたとなっては、末代までの恥だ。言葉を濁していると、悠真が勢いよくハンカチを取った。
あっ、と声を出した時にはもう遅い。
「その指輪……」
茫然とした悠真の声が響く。
「そう、悠真がデザインしたやつ」
自ら先制した。
左手を凝視されて、美結の頬が羞恥で火照る。頭を抱えて逃げたくなった。
今、最高に不幸で輝いている。
元彼を想って指輪を見に行き、独り身なのにペアリングを買い、給料を溶かした。間違いなく今年の不運ランキング一位だ。
心で泣いていると、悠真と眼が合った。重苦しい溜息が彼の唇からこぼれ、部屋の温度を静かに下げる。
「……指輪を外してくれないか。美結の雰囲気と合ってない」
遠慮のない言葉に、心が凍りつく。悠真は『好きな人』を想ってデザインをした。美結は該当しない、その事実を突きつけられる。
「そんな冷たいことを言っても、絶対に外さないもんね♡」
美結は微笑んだ。涙を流すまいと背水の陣で挑む。
「絶対に外さないって、どういうことだよ。もしかして……誕生日プレゼントか」
「……その」
違うの。指輪が抜けなくなって――。
羞恥で顔が沸騰した。口が裂けても言えない。
「美結……、首まで真っ赤になってる。……彼氏から貰ったのか。分かりやすいな」
「……」
――悠真、嘘をついてごめん。
嘘も方便だと自分に言い聞かせる。なけなしのプライドを選んだ。
「美結は、いつの間に恋人ができたんだ」
「ん……」
「俺の知ってる奴?」
「ううん、知らないひと」
いない。美結も知らない。地球に存在していない。
イマジナリー彼氏。
ふ、と美結の唇から笑みがこぼれた。
「……思い出し笑いするほど、仲が良いんだな」
男の顔から表情が消える。心なしか声は鋭さを帯びていった。
「同じ職場の人か。社内恋愛は気まずくなるから、絶対にやめとけって言ったよな」
「違うよ」
「この間のカメラマンか? 展示会の時、美結にベタベタしてたけどさ、年齢は離れてたよな。聞いたら三十五歳だって言ってたし、あいつ絶対に既婚者だぞ」
「誰? そんな人、いたっけ?」
心当たりがない。
「……なんでもない。じゃあ仕事を通じて知り合ったのか。……この業界の男は俺以外、みんな遊んでる。泣くのは美結だぞ。今からでも、やめとけ」
「逆にそんな人、見たことないよ。みんな真面目だよ」
「美結が知らないだけだ。……友達の紹介か?」
「違うよ」
「まさかのマッチング……」
「違うってば」
やけに食いつく。
美結は視線を下げた。嘘がバレそうで怖い。
「失礼致します」
店員が牛フィレ肉のポワレを運んできた。救世主の登場に、美結の意識は自然とそちらに向かう。
だが悠真は配膳された皿をテーブルの端に寄せた。食事より会話を続けたいらしい。
――あ、牛フィレ肉のポワレ。いい香りがする。美味しそう……。
「……ゆ、みゆ、」
「へ?」
「聞いているのか?」
怪訝な顔をした悠真と視線が合う。美結は我に返り、薄く開いた唇をしっかりと閉じた――が、時既に遅し。
「なんだ。色気より食い気か」
何故か悠真の機嫌は上向きになった。
「恋人の話より牛フィレ肉か。……そう言えば美結の誕生日なのに、俺と飯を食っているくらいだ。大したことないな。男が誕生日に指輪を贈っても、牛に負けるくらいだ」
したり顔に腹が立った。明らかに馬鹿にされた響きがある。
色気より食い気。
その言葉に、美結は昨日の体重を思い出した。体重計を二度見して、ついには服を脱ぎ捨て、真偽を確かめた虚しい時間。
――ひょっとして指輪が抜けなくなったのも、一キロ太ったから……?
ついカッとなる。
「そんなことない。大したことある人だもん」
「ふーん」
悠真は唇だけで笑っていた。
「どんな奴なんだよ。……そいつのこと本当に好きなのか」
「それより……悠真は大事な話があるって言ってたよね。恋人ができた報告でしょ。おめでとう」
男は明らかに戸惑う仕草を見せた。
図星だったのか――沈む心を押し返すように、美結は口角を上げた。
「インストで見たよ。この指輪って、好きな人を想って作ったんだよね」
暫く悠真は沈黙していたが、やがて荒い息を吐いた。
「……今は美結のことを聞いてる。彼氏ってどんな奴? 美結は抜けてるから、俺が男目線で確かめる」
「抜けてるって、ひどくない?」
「言わないと、牛フィレ肉を全部食べるからな」
皿を引き寄せて牛質(ひとじち)を取った。
悠真は頑固な部分がある。白状するまで追及するだろうと、美結は降参した。
「……親切で気さくで、自分の意見を持ってる人」
悠真のことだ。
高校の部活で美結だけ居残りになった。暗い道をトボトボ歩いていたら、男子の輪から飛び出した悠真が『神野さん、危ないから一緒に帰ろう』と気さくに声をかけてくれた。
他の男子に揶揄(からか)われても『さっさと帰れ~。野蛮な男子は解散』と追い払い、平然としていた。
他人の目を気にせず動じない。自分の軸を持っている人だと美結は思っていた。
「気さくねぇ……。ただ馴れ馴れしいだけだろ。それに親切な奴には下心がある」
「それだけじゃないよ。思いやりがあって、面倒見が良くて」
学習室で悠真と偶然に会った。隣同士で勉強することになり、問題が解けない美結に気がついたのか、部屋を移動して教えてくれた。
どちらも付き合う前のことだ。
「思いやりがあって面倒見が良いか……。恋人っていうより兄か親みたいだな。今の話を聞く限りじゃ、美結は憧憬と恋愛を履き違えてる」
悠真は自分自身を非難していた。美結は自分の気持ちを否定されているようで、あまりいい気がしない。
「さっきから何なの」
心外だ、という眼を男は向けた。
「客観視してるだけだ。ほら、もっと言ってみろよ」
美結は覚悟を決めた。
「努力家で……、真っ直ぐな人だよ」
視界が微かに滲む。感情が過去へと引き摺り込まれていく。
「……私の方が彼を好きなの。好きで、好きで……その人のことしか、好きになれないって分かった」
美結から振ったのに、いつまでも悠真に囚われている。抜けない指輪のように、心に住み着いていた。
二人の過去
別れを切り出した理由はシンプルだ。
悠真の隣にいるのが、つらくなった。
元々、悠真はサッカー部の主将だった。だが膝の怪我が原因で、やむを得ず高校二年の秋に引退をした。
落ち込む悠真に対し、当時彼女だった美結が美術展や服の展示会へと連れ出した。一緒に絵を鑑賞したり、服を買い、共にファッションを楽しむ。高校生らしい日々を過ごしていた。
そんなとき美結の描いた絵が美術団体主催の公募展で奨励賞を受賞する。二人で見に行った帰り道、悠真が突然「俺も美結みたいに、本格的に絵を描いてみたい」と言い出した。
「描こう! 悠真にはセンスがあると思ってたんだ」
美結の描く絵に対し、悠真は的確な意見を出すことがあった。今回の受賞は悠真の助言があってこそだ。指示通りに色を変えると、明らかに絵の質が良くなった。
一緒に過ごす内に、彼には天性の審美眼があることに美結は気がついていた。
「色んな絵を見てたら触発されたんだ。……今から始めるのは、遅いと思うけど」
「遅いも何もないよ。やりたいって思った日がスタートだもん! 悠真の良い所は、チャレンジする所だよ。教えるから一緒に描こう」
「……ありがとう」
「また悠真の良い所、みつけた」
「え……」
「すぐに御礼を言うところ! ……ね、今からスケッチブックを買いに行こ。オレンジの表紙で可愛いのがあるんだ。……でも可愛いのって、悠真は恥ずかしい?」
お揃いなんだけど、と小声でアピールした。
「美結と同じ物を持ちたいから、可愛くてもいいよ」
「優しいところも好き! 悠真はいっぱい良い所がありすぎて、困るね……」
思わず美結は涙ぐむ。塞ぎ込む悠真がずっと心配だった。慰めの正解が分からなくて、力になれないのが悔しかった。
でも今は前に進もうとしている。それが嬉しい。
「……美結」
「ん」
甘い声が耳を擽(くすぐ)る。沈黙でも互いの瞳は雄弁に語る。
「……抱きしめてもいいか?」
「うん、いいよ。私も悠真を抱きしめたいって思ってたんだ」
同じ気持ちを引き寄せる。
体温と心臓の音。重ねる瞬間が美結は好きだ。見えない命が聞こえてくる。とくとくと動いて、速くなる悠真の鼓動が愛おしい。美結を好きだと言っている証拠だ。
「美結といると、自分が異分子なのを忘れる」
「異分子?」
「サッカー部に荷物を取りにいったんだけどさ、みんな気を遣ってくれて……。でも怪我が治っても、もう前の俺じゃないし、みんなとは同じにできない。異分子なんだって思えて」
沈鬱(ちんうつ)な声が聞こえた。
「……いっぱい絵を描こうよ。絵を描くのって、目に見えるものも、心に映るものも、綺麗に写し込む作業で面白いんだよ。みんなと同じじゃなくてもいいの」
「……ん」
「それにね、悠真は異分子じゃないよ。怪我をしても私の好きな悠真は、悠真のままだもん」
「美結……」
深く抱きしめられて、初めて唇を重ねた。
身体に火花が散るみたいだ。体内の水分が弾けて、熱になる。悠真のことが好きで、好きで、呼吸さえ忘れてしまう。
ふいに腕の拘束が解けた。美結は踵(かかと)を地に着ける。二つの唇が離れると、途端に美結は気恥ずかしくなった。眼だけで悠真を見ると、彼の顔も真っ赤になっている。
お揃いだ。
「……行こうか」
「……うん」
ぎこちなく歩き出すと、悠真が声をかけてきた。
「美結。スケッチブックを買いに行くんだろ。反対方向だよ」
「そ、そうだね」
悠真の顔が見られない。
だけど傍にいたい。思いが届けと、悠真の手を掴んだ。
宇宙ステーションの交信のように、遅れて彼の握力が加わる。大気圏突入の熱が美結を包んだ。エンジン全開の身体は早口になる。
「悠真。スケッチブックを買ったら、すぐに絵を描いてみない? 近くにワークスペースがあるんだ。この時間だったら人も少ないし、落ち着いて描けるよ」
美結は眼で同意を求める。画材を購入して、すぐに離れたくはない。
「いいな。描いてみたい。それに……」
星を待つように、言葉の続きを見つめた。
「美結ともう少し一緒にいたい」
「……うん」
返事は最小になった。だが全身に喜びが行き渡る。
商品を購入し、ワークスペースへ移動した。予想通り誰もいない。
「悠真には勉強で助けてもらってるから、今回は私の番だね」
並んで座り、スケッチブックを広げた。
「絵を描くコツは、よく観察すること。でもね一番大切なのは楽しんで描くことだよ」
美結は鉛筆で薄く線を引く。次に消しゴムを使って、線を消した。
「鉛筆はいつでも修正できる。好きに描いて、好きに消せる。要は気楽に描く。これも大事」
悠真に鉛筆を渡した。
鞄から小さな水筒を出し、テーブルに置く。
「この形を気楽に描いてみて。最初は鉛筆を軽く持って、薄く描くの」
悠真が線を引いた。慣れない手つきで筆圧が強い。
思わず袖口を掴む。
「悠真の場合、鉛筆を寝かせた方が良いかもね」
「……」
「悠真?」
「……いや、何でもない」
お互いの肩が密着している。
キスの距離感が蘇り、美結は袖口を離した。
「えと、その」
「……こうやって描くんだよな」
また筆圧が強い。
「ううん、そうじゃなくて」
「こう?」
更に濃くなった。反射的に悠真の手を掴む。二人の手が紙の上で動いた。
「違うよ。鉛筆を寝かせて薄く描くの」
「……うん」
悠真の耳が燃えるように赤い。気がついて美結も真っ赤になった。素早く手を離す。
「……美結」
「……ん?」
「なんか、絵を描くのって……楽しいな」
「ほんと? 嬉しい!」
美結の顔がパッと輝く。対照的に悠真は目線を下げた。迷うような仕草を見せた後、ぽつりと呟く。
「……俺さ、見て覚えるタイプなんだ。美結の描(えが)く動作を知りたい。手本を見せてくれないか?」
「いいよ、任せて」
人前で絵を描くのは慣れている。美結の友達は、美術やデザインが好きな子ばかりで、互いに作品を見せ合うことが多い。
「描くよ、見ててね」
鉛筆と紙が触れる。点から線が生まれ、形になる。この瞬間が好きだ。
描き終えると、真剣な悠真の瞳とぶつかった。
「ありがとう。美結の真似をして俺も描いてみるよ」
悠真が鉛筆を握り、手が宙を切る。数回繰り返したかと思うと、一気に瑞々しい線が描かれていった。紙に質感と奥行きが刻まれていく。
「すごいじゃん……」
感嘆の吐息がもれた。
「美結の動作が上手いんだ。俺は再現しただけ」
謙虚な態度に焦れったくなった。美結の心だけが熱く迸(ほとばし)る。
「ううん、そんなことない! やっぱり悠真にはセンスがあるんだよ」
原石を目の当たりにして美結は嬉しくなった。
「もっと描こう、絶対に上手くいくから。悠真には可能性の種がある!」
男の瞳が揺らいだ。唇を真一文字に引き結ぶ。やがて絞り出すように呟いた。
「……俺、怪我をして全部駄目になったけど……もう少しだけ、自分に期待してみようかな」
「少しじゃない、いっぱい期待して。私の筆や道具も貸してあげるよ」
「いいのか? 美結の道具、手入れして大切に使ってたよな」
「良いの! だって悠真と一緒に絵が描けるんだよ。ね、次は何を描く?」
「……美結」
「ん?」
「ありがとう……」
手が重なる。互いの感情が瞳に宿った。予感より先に、二度目のキスをした。
美結の好きな美術が悠真の心を癒やすのなら、こんなに嬉しいことはない。
好きな人と、大切な宝物を共有する喜び。
美しい未来が描けると、美結はどこまでも信じていた。