1.小田島菜乃花は目が死んでる
気立てが良くて、くしゃっと笑った顔が可愛くて。
それからできれば、家庭的な子がいい。寝ぼけた朝に味噌汁を飲んで、そのままプロポーズしたくなるような。
うっかり口に出そうものなら白い目で見られること間違いなしというのは百も承知で、俺はそんな結婚をしたいという淡い憧れを持っていた。そんな、馬鹿で単純な男が抱きがちなごくごくありふれた憧れには、ろくでもなかった母の影響が少なからずあるんだろう。
「……うえっ、え、……んぐっ、」
――なのに、俺はどうしてだか、便器に向かって嘔吐いている女に欲情している。
* * *
俺と小田島菜乃花の出会いは、ごくありふれたものだ。単純に、俺と彼女は会社の同期なのである。
俺が初めて彼女を目にしたのは、新卒で入った会社の採用試験会場でのことだった。
選考が進むにつれて、自ずと就活生は顔見知りになる。なんとなく馬が合いそうだなと思えば、連れ立ってカフェに立ち寄りもする。同業他社の選考情報を交換したり、「いま内々定何社目?」みたいな軽いマウントを取ったりして。
でも、小田島とはそういう付き合いは一切なかった。
気づいたらいなくなっている、誰も声をかけたことがない女。そういう意味で、小田島は同期の中でも少し浮いた存在だった。何せ、彼女は入社前の内定者食事会のときでさえ、終わったと思えばするりと消えていた。なんか魔法でも使えるんじゃないかってくらい鮮やかに。
漫画やアニメには、しばしば二つ名を持つキャラクターが登場する。漆黒の魔術師とか氷の宰相とか、そういうやつ。漆黒はともかく、氷と呼ばれるくらい態度が悪かったら、政治なんて出来なくないか? と現代社会に生きる身としては思ってしまうけれども、身分制度がある社会だと違うんだろうか。
小田島には、そうしたフィクションの中でしかお目にかかれない二つ名めいたあだ名が付いていた。「壁際の小田島」というのがそれである。誰が付けたのかは知らないがそれは男性社員の間ではわりと浸透していて、初めて聞いたとき俺は不思議に思ったものだった。
「小田島の席、経理の島の廊下側だよな?」
なんて素直に訊いてみたところ、同期の佐々木に鼻で笑われてしまった。
聞けば、下の名前と掛けて壁の花という意味で呼ばれはじめたらしい。
――ほら、あれだろ。そう言って、佐々木は皮肉気に唇を歪めた。俺らの期、顔整ってるやつ多いからさ。やっぱうちみたいな大手って顔も採用基準だよな。お前もその一人だよという妬みまじりの揶揄を右から左に聞き流しながら、俺が驚いた理由は二つある。
一つは、コンプライアンス的にいかがなものかというやつで。入ってみて分かったことだが、うちの会社は規模の割に時代にそぐわない古さが中途半端に残っている。
もう一つは、小田島の顔はふつうに整っているからである。ただちょっと髪に艶がなくて、顔の幅に対して大ぶりの黒縁眼鏡をかけていて、骨格に合わない服を着ているだけだ。あとたぶん、ファンデは何も考えずに標準色を選んでいる。なんというか、自分の見た目にあんまり興味がないとこうなるのか、といった感じなのだ。
でもまあ、小田島にそんな二つ名が付くのも分からないではなかった。
本当にただ地味なのであれば、話題にも上らない。ああ、経理の眼鏡の子か。それで終わりだろう。小田島が人の関心を惹くのは、きっと眼鏡の奥にある目が死んでいるからだ。ちなみに、表情筋も死んでいる。小田島の笑った顔を、きっと会社の誰も見たことがないはずだ。
とはいえ、彼女に「氷の」みたいな二つ名が付かなかったのは、人当たりが柔らかくて冷たい印象がないからだろう。小田島は、人と目を合わせないわけでも話し方がキツいわけでもない。ただ笑わないだけ。社内で「目が死んでる」と言われているのを耳にしたことはないから、もしかすると傍目には分かりづらいのかもしれない。眼鏡の印象も強いし。
――でも、俺はああいう目を知っている。
現実を生きているのに、違う世界の暗がりを覗いている。
小田島菜乃花の目は、そんな死に方をしているのだ。
入社して数年が過ぎても、俺と小田島は同期という以上にはとりたてて接点がないままだった。
ただ、電子申請はしたものの急ぎで頼みたい件があるときや精算をしてもらうときは、同期の気安さでか、いつもなんとなく小田島にお願いしていた。
小田島は、真面目だ。経理の締め日でどんなに忙しなく手がキーボードを叩いていようが、声をかけるとすぐに手を止めて顔を上げる。そのときの、何を考えているのか分からない透明な目に見られる――そう、見つめられるのではなく、見られるというのが相応しい視線が触れるとき、いつも思うのだ。よく分からない。何なんだろう、と。
何か用事を頼むとき、システムから呼び出した稟議を確認する小田島の目が静かだと、俺はいつもひっそり安堵する。
小田島の死んだ目は、いつも死にきっているわけではない。普通に見えるときもある。とはいえ、死んでいるときとの違いがはっきり分かるわけでもない。
あとは、そう。静かにこちらへと差し出された細い指の、清潔な長さをした何も塗られていない爪。その丸みが自分に向けられているときの、名前の付けがたい感覚をただ味わいたいのかもしれなかった。
「はい、大丈夫です。瀬田くんはいつもきちんと期限内に電子申請を出してくれるよね」
「そう? 普通だよ」
「意外とそうでもないんだよね。不備もないし、経理として大変助かります」
そんなちょっとしたやりとりを楽しみにしている自分に、まったく気づいていなかったわけじゃない。
でも、べつに彼女にしたいとか、そういう対象ではないはずだった。
――あの日、べろべろのでろでろに酔わされた無防備な小田島を見るまでは。