プロローグ
季節は冬らしさを感じるようになってきた。暖房で暖められているものの、ライトブラウンのフローリングは硬く冷たい。直接そこに触れる尻も、足の裏も、冷気を吸収して少しずつ温度が下がってゆく。
麗奈は今、何も身に纏ってはいなかった。抜けるような白肌を存分に晒して、身を固くしてフローリングの床に座り込んでいる。
目の前では、ひとりの男が足を組みつつベッドに腰掛けていた。寛いだ様子の彼は、片手でスマートフォン――正確には、三つもあるカメラのレンズ――を麗奈へと向けている。
男がどのような表情をしているのかは麗奈からは見えない。彼が構えているスマホによって、ちょうど隠れてしまっているから。
スマホの少し斜め上、男のもう一方の手には、文字が書かれたメモ帳が掲げられている。真白い紙に綴られたその字は、麗奈もよく知っているものだ。
男性の字にしては角がなく丸みを帯びていて、少し女性的に見えるかもしれない。けれどそれはどんなに忙しい時でも丁寧に紙の上へと形作られ、彼の真面目さが、読み手のことを考えて書いてくれていることが、よく感じ取れた。
ポロン、と男が構えているスマホから電子音が鳴った。動画の録画が開始されたのだ。事前に男から指示されていたとおり、麗奈は震える口を開く。
メモ帳に綴られた文章を、声に出して読むために。
「十二月一日、金曜日。わたし、霜月麗奈は……速水傑の専属、せ……性奴隷として、一週間、彼にお仕えすることを……ここに、誓います」
凍りつくような緊張と不安から体は小刻みに震えている。放たれた声もひどく掠れたものになってしまった。
麗奈は今、一糸纏わぬままにフローリングの上で足を大きく広げて座っている。これも男の指示だ。人形のように涼しげな顔も、男の視線を釘付けにする豊かな胸も、コントラストが眩しい女の秘処も、すべてをレンズの前に晒け出せ、との。
ポロン、とまた電子音が鳴って、録画が終わった。男がゆっくりとスマホを下ろす。一度見たら忘れられないような、日本人離れした美貌が麗奈の視界に現れた。
垂れ目気味の大きな二重の瞳に、顔の中心に聳えるすっと通った高い鼻。上品な微笑みを浮かべる柔らかい口元。そして左目の目尻の下にある、艶な色気を漂わせるひとつの泣き黒子。色素が薄い少し長めの髪は今、セットもされず無造作に彼の顔を飾っている。
男はスマホを軽い手捌きでタップして、今撮ったばかりの動画を再生した。麗奈が先ほど放った言葉が、肉声より少しくぐもった声で復唱される。うっすらと微笑みながらそれを見ていた男は、ふと立ち上がって麗奈の傍に近寄ってきた。
突然。麗奈の眼前、数センチの距離に自分の痴態が映し出される。
「――っ!」
麗奈は慌てて顔を横に背けた。
「ねぇ先輩。これ、ネットに流したら再生数どのくらいいきますかね?」
男はさも愉快そうに目を細めた。
男――速水傑は麗奈の職場の後輩だ。人当たりの良い性格で、いつも優しい微笑みを絶やさず仕事もできる人気者。そのうえ色気のある美男ときたものだ。彼は職場だけでなく取引先の女性たちの心をも根こそぎ掻っ攫ってゆく、職場で一番モテる男として知られていた。
実のところ、麗奈もこの男に心を掻っ攫われてしまったうちのひとりだ。だが今は、それが原因でこのような大変な事態に陥ってしまっている。
「そ、そんな、約束と違うよ速水く――いっ!」
唐突に訪れた胸の痛みに、麗奈はきつく顔を顰めた。目の前の男によって右胸が強く握られたのだ。
それは、性的というよりも相手を脅迫するための握り方だった。痛みと衝撃、恐怖で喉が引き攣る。
「ねぇ、誰が〝君〟付けなんか許しました? 速水〝様〟でしょう? 奴隷なんだから」
傑の口元は相変わらず笑みの形を維持している。しかし、その目元はまったく笑っていなかった。上から見下ろしてくる静かな、けれど獰猛さを宿した瞳は威圧感そのもの。
彼の顔は今、上と下がそれぞれ違う感情を表している。それが、不気味な違和感も覚えさせた。
「ご、ごめん、なさい……速水、様……お願いします、ほかの人には、見せないで……」
すると、傑はようやく目元も満足そうに和ませた。彼の表情が上下で揃い、違和感がなくなる。
傑の左手も胸から離れてゆき、今度は麗奈の顎を掴んだ。
「もちろん。ただの冗談ですよ。……じゃあ、そろそろいいですよね?」
傑はスマホをパンツのポケットにしまうと、その手を滑らせるように移動させて正面のジッパーを下ろした。黒いボクサーパンツの中からは、赤黒くそそり立つ、張り詰めた屹立がその姿を現す。
「ひっ……!」
麗奈が男の象徴を見るのはこれが初めてだった。逞しいという言葉を超えた雄々しさ。恐怖さえ覚えるその姿に、頭を殴られたような衝撃を受ける。
慄く麗奈の上からは、小さな笑い声が零れ落ちた。
「驚いてないでさっさと咥えてくれませんか? ……ねぇ、ストーカーさん?」
傑の手が麗奈の後頭部を掴み、震える小さな唇に自らのものを押しつける。
拒めないことは――拒んではいけないことはわかっている。それでも、どうしても唇に力を入れてしまった。だがそんな抵抗など意にも介さず、それは小さな唇をかち割って口内へと侵入してくる。
「ふ、ぅっ……!」
「先輩の犯した犯罪行為、バラしてほしくなかったら……俺の言うこと、しっかり聞いてくださいね?」
麗奈の眦には、苦しさと恐怖で自然と涙が浮かび上がった。滲む視界のまま視線だけ上げれば、想いを寄せる男の顔が見える。彼はその言動に反して優しい、慈愛すら感じる微笑みを浮かべている。
麗奈は固く目を瞑った。瞼を閉じると涙が零れて頬を伝ってゆく。
胸中で渦巻くのは、激しい後悔。
けれど、時はもう戻らない。やってしまったことは、なかったことになどできやしないのだから。