失くした記憶と、愛執の行方

著者:

表紙:

先行配信日:2026/04/24
配信日:2026/05/08
定価:¥880(税込)
家族から愛されず、日陰で生きてきた伯爵令嬢マリオン。
彼女の唯一の光は、公爵家の嫡男レオンスからのひたむきな愛だった。
長年の求婚を受け入れ、ついに婚約を結んだ矢先――不慮の事故で彼が記憶を失い、すべてが狂い始める。

美しい妹に彼を奪われたうえ、二人が抱き合う姿を見せつけられながら別の男に蹂躙される地獄。
そのまま望まぬ男の妻となり、心身ともに傷つけられて絶望の淵に沈むマリオンだったが、すべてを諦めた彼女の前にふたたびレオンスが姿を現して……。

「どうしてまた、私の前に現れるの」
すべてを奪われてもなお、胸の奥で燻り続ける愚かで惨めな愛執の行方は――。
第34回フランス書院文庫官能大賞e-ノワール賞受賞作、登場。

成分表

♡喘ぎ、二穴、NTR、非童貞、などの特定の成分が本文中に含まれているか確認することが出来ます。

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   プロローグ



 ローゼル伯爵家には二人の娘がいた。
 姉の名はマリオン、妹はアリス。
 年の差は二歳だったが姉妹は別々の場所で育ったため、幼少時代の思い出を共有していない。
 アリスが生まれるひと月ほど前、マリオンは胸の病を患い、医者から空気のよい田舎での療養を薦められた。
 伝染病ではなかったが、新しく生まれる命にもしものことがあっても困ると、ローゼル伯爵夫妻はマリオンを母方の祖父母に預けた。
 アリスが生まれて一年ほど経った頃。ローゼル夫妻はマリオンに会いに来た。
 ちょうどその頃、胸の病の影響でマリオンの肌にはいくつもの瘡蓋(かさぶた)ができていて、顔はじゅくじゅくと膿み、爛(ただ)れていた。
 病に苦しむ我が子の姿を見た伯爵夫妻は、憐憫よりも恐ろしさを覚えたようだ。そのときからマリオンを『いない子』として扱うようになった。
 成長とともに病が癒えても、ローゼル伯爵夫妻はマリオンを忌み嫌い、祖父に預けたまま、会いにも来なかった。
 そして年月が過ぎ、マリオンが二十歳になったとき、祖父が亡くなった。
 祖母は祖父が亡くなる五年前に他界している。
 屋敷の売却が決まり居場所のなくなったマリオンは、ローゼル伯爵夫妻の元で暮らすことになった。
 マリオンの病は完治している。肌には瘡蓋の痕も残っていない。けれども……長年離れて暮らしてきた溝は、埋まらなかった。
 マリオンはローゼル伯爵家の『いない子』から『厄介者』になった。
 離れていた頃も、ともに暮らし始めても、マリオンは両親から顧みられなかった。
 温かく接してくれたのは、妹のアリスだけだった。
『わたし、ずっと姉妹のいるお友達が羨ましかったの。お姉様と一緒に暮らせて、嬉しいわ』
 初めて会ったとき、アリスはマリオンの手を握って、微笑んだ。
 栗色の髪に、長い睫に彩られた緑色の瞳。
 染みひとつない乳白色の肌。華奢な顎に、ふっくらとした愛らしい唇。
 アリスは人目を引くほど、可憐な美少女だった。
 瞳も髪も色はマリオンと同じ。けれどもマリオンの髪質は、アリスのように細く艶やかではない。瞳もアリスのようなくっきりとした二重ではなく、奥二重。
 顔の造作自体はよく見れば、どことなく似てはいたが、華やかで目立つアリスに比べるとマリオンは悲しくなるくらい地味で平凡だった。

   ◆ ◇ ◆

「あれほど綺麗で、可愛いのだから。両親が妹に夢中になるのも仕方ないわ」
「そうかい? 何度か見かけたことはあるけど、夜会には彼女くらいの容姿の令嬢は、掃いて捨てるほどいる」
「……そうなの?」
 マリオンは一応は貴族令嬢だ。けれども社交の場に出たことがない。
 マリオンが暮らしていた町ラーグでは教会や孤児院主催のお茶会はあっても、華やかな夜会などなかった。王都に越してからも、マリオンにはその手の誘いはない。
 妹と同じくらいに綺麗で可愛い女の人たち。
 そのたくさんの女性が、彼と手を繋いで身体を寄せ合いダンスを踊る――想像して、マリオンは不愉快な気持ちになった。
「君ほど綺麗な女性はいないけれどね」
「……からかうのはやめて」
「本当だよ」
 そんなわけないじゃない、とマリオンがムッとしているというのに、彼は素知らぬ顔で微笑む。
「愛しているよ、マリオン。君の家族のぶんも俺が君を愛する。俺がいれば誰もいらないって思えるくらい、君を幸せにする」
 微笑みを浮かべたまま、けれども真剣な眼差しで、彼が言った。
 ――両親の愛情を得られなかった可哀想な子ども。
 熱烈な愛の言葉は嬉しかった。けれど彼……レオンスは、マリオンの家庭の事情を知っている。レオンスは優しい人だ。
 マリオンは、気を遣わせたうえに哀れまれたと感じ、素直に喜べなかった。
「……妹を僻んでるわけじゃないのよ。祖父も祖母も私を愛してくれていたし、今更、両親の愛を欲しがるほど幼くもないわ。自分を不幸だとも思っていない。どちらかといえば恵まれているとも思っているの。ただ……妹があんまり綺麗な子だったから……」
「……綺麗な子だから?」
 促されるが、マリオンは心のうちにある不安を、正直に口にできなかった。
 マリオンは苦く笑って続ける。
「……あんまり綺麗な子だったから驚いたの。容姿だけじゃなくて、優しくて。初めて会ったときも、私のことお姉様って、当たり前のように呼んでくれた。お母様との間を取り持とうとしてくれているのか、二人で出掛けるときはいつも誘ってくれるのよ」
 母親があからさまに嫌がった顔をするので、いくらアリスが誘ってくれても、一緒に行く気にはなれなかったけれど。
「妹がいるのは知っていたの。どんな子だろうってずっと想像してた。綺麗で、優しい子でよかったって思ってる」
 マリオンは少々早口になりながら、妹について語った。
「……そう」
「うん」
「式を早めよう」
 いきなり話を変えられ、マリオンは首を傾げる。
「君が妹さんに夢中になって俺を蔑ろにしたら困るからね。俺はこんなに、ずっと君だけに夢中なのに。君はわかってくれないし」
 彼は茶化すように言って、マリオンの髪を一房掬いあげ、その髪に口づけをした。
 レオンスは察しがよい。マリオンの不安が何なのか、気づいたのかもしれない。
 妹があまりに綺麗で可愛かったから……マリオンは、レオンスが妹に心移りするのではないかと不安になった。
 レオンスの想いを疑ってしまい、申し訳なくなったマリオンは普段なら恥ずかしくて言えないことを口にした。
「私だってあなたに夢中よ。愛してるわ」
 頬を赤らめて言うと、レオンスは群青色の双眸を細め、マリオンの額に唇を落とした。


 マリオンは十歳のとき、公爵家の嫡男であるレオンス・フェザーと出会った。
 マリオンの祖父の屋敷は、王都よりはるか北。アルベリ辺境伯の領地ラーグにあった。山の麓にある自然豊かな町は、療養には最適の場所だった。
 当時、レオンスはフェザー公爵家と縁戚関係にあるアルベリ辺境伯の元で暮らしていた。
 高位貴族の嫡子であるレオンスがなぜ親元から離れて暮らしていたのか、マリオンは知らない。マリオンと同じで療養のためだと聞いていたが、彼は見るからに健康そうで、とても病を患っているようには見えなかった。
 祖父の元に預けられっぱなしだったマリオンとは違い、レオンスがラーグで暮らしていたのは一年ほど。
 マリオンはその一年間で、少年だったレオンスと出会い、親しくなった。
 貴族同士の出会いは、家の思惑がある場合が多いというが、レオンスとマリオンの出会いはまったくの偶然だ。
 亡くなった祖母が熱心なセファリ教の信者だったため、マリオンは物心ついたときから、孤児院の隣にある教会に通っていて、そこでレオンスと出会った。
 大陸の創造神、豊穣の女神セファリ。
 繁栄と衰退。昼と夜。生と死。
 セファリ教はふたつの顔を持つ女神を主神とする信仰だ。
 衣食住に規制はなく、戒律はそう厳しくない。しかし死に関わること、他者の死を奪うことはもちろん、自身の命を自ら絶つことはセファリ教最大の禁忌で、死後も決して赦されることのない大罪だとされていた。
 教会で初めてレオンスを見たときは、驚いた。
 彼が黒髪と群青色の瞳のとびきり綺麗な顔立ちの少年だったからだ。
 マリオンだけではない、少年少女も中年女性も老人も、みな見慣れない綺麗な少年に見蕩れていた。
 際立った容姿に驚いたけれど、マリオンが彼から目を離せなかった理由は他にもあった。祈りを捧げるときのレオンスの群青色の瞳が、他の信者の眼差しとは異なって見えたのだ。
 マリオンは社交的な性格ではなかった。けれど彼に興味を持ったマリオンは自分から声をかけた。
 何と声をかけたのかは忘れてしまったが、おそらく挨拶やら天気やらの話だったと思う。
 レオンスは身分の高い者特有の横柄さのない、十二歳だと思えないほど大人びた、穏やかな少年だった。
 顔見知りから友達になるのには、さほど時間はかからなかった。
 けれど……友達から恋人になるまでには、かなりの年月がかかった。
 レオンスがラーグを去り、王都に戻ったのは、出会って一年ほど過ぎた頃だった。
 もう会えなくなるのだろうと思い別れたが、レオンスはときどきマリオンの前に姿を見せた。近況を綴った手紙も、頻繁にマリオンの元に届いた。
 そしてマリオンが十四歳のとき。マリオンはレオンスから、初めて告白をされた。
『君のことが好きだ。友人としてではなく、もちろん兄のような感情でもなく、女の子として好きだ。君とずっと一緒にいたい。結婚前提の恋人になってほしい』
『結婚はできないと思う』
 マリオンはその場で告白を断った。
 レオンスとの関係はこれで終わる。そう覚悟して断ったのだけれど、彼との関係は途絶えなかった。
 それどころかレオンスはそれからも『君が好きだ』と、ことあるごとに告げてきた。
 告白されるたび、マリオンは苦しさと同じくらい嬉しくなった。
 本当はずっと前から……出会って一か月も経たない頃から、マリオンはレオンスに恋をしていた。
 マリオンの辿々しいお喋りを、微笑んで聞いてくれる。少し寂しい目をした優しい少年に、マリオンは夢中だった。
 いつだってサラサラした黒髪に触れてみたかった。夜と夕方の合間の空のような群青の瞳に見つめられると、胸の奥が甘く疼いた。
 しかしレオンスの背はぐんぐんと伸びていくし、綺麗だった顔はあどけなさが抜け落ちて、凜々しく、端正になっていく。
 レオンスが素敵になればなるほど、マリオンは彼の傍にいることに居心地の悪さを覚えるようになり、子どもの頃のように無邪気に彼を慕えなくなっていった。
 マリオンは容姿を理由に両親に疎まれたこともあり、自身の見かけを気にしていた。
 冴えない地味な容姿の自分は彼に相応しくないと、そう思っていたのだ。
 そして年齢を重ねるごとに、外見の劣等感だけでなく、身分差も意識するようになった。
 レオンスは高位貴族であるフェザー公爵家の嫡男だ。
 マリオンも一応は伯爵家の令嬢だったが、祖父が亡くなったことで両親から縁を切られてしまえば平民になる。
 貴族令嬢らしい、華やかな生活はしていない。平民として暮らしていくことに抵抗はなかった。
 けれど……平民だと、公爵家へ嫁ぐのは難しい。
 あやふやな未来と身分差。容姿への劣等感から、マリオンは長い間、レオンスの想いに応えられずにいた。
 レオンスがマリオンの本心に気づいていたのかはわからない。けれどレオンスは粘り強く……少々しつこいくらい、マリオンを待ち続けてくれた。
 マリオンがレオンスの想いに応えたのは二十歳のとき。
 祖父が亡くなり、ローゼル伯爵家に引き取られることが正式に決まってからであった。
 容姿の劣等感はどうしようもない。けれど身分は気にせずにすむ。
 薄情な両親に対し、マリオンは初めて感謝した。
 ちょうどそのとき、レオンスから十数度目の告白を受けたマリオンは、いつもと違う言葉を彼に返した。
『……本当に私でいいの?』
『君じゃないと駄目なんだ。俺は君以外、欲しくない』
 恐る恐る訊ねたマリオンに、レオンスはきっぱりとそう答えた。
『俺と結婚してくれる?』
 レオンスの問いかけに、マリオンは顔を真っ赤にさせ頷く。
 頷くと、レオンスは彼らしくない、弾けるような満面の笑顔でマリオンを抱きしめてきた。
『君が俺を好ましく思ってくれてるのはわかっていたんだ。でも、もしかしたら俺の勘違いかもしれないって思った。もしかしたら一生、このまま、俺を受け入れてくれないんじゃないかって……ずっと不安だった。嬉しい。ありがとう』
 レオンスの声は震えていた。
 自分のせいで、長い間レオンスを不安にさせてしまっていた。マリオンは『待たせて、ごめんなさい』と涙声で謝罪を口にした。
 身分の心配はなくなったけれど、劣等感はそう簡単には消えやしない。
 レオンスの隣に並ぶには、マリオンには足りない部分がたくさんあった。
 王都に来て、街を歩く美しい女の人たちを見て。妹と会って。
 自分はやはり彼に相応しくないのではないかと、不安になった。
 美しく可憐で、マリオンとは違い明るくて華やかな妹。
 マリオンは『伯爵令嬢』なのが、自分だけではないことを改めて思い知った。
 地味で田舎くさい伯爵令嬢より、華やかで洗練された伯爵令嬢のほうが、レオンスに相応しいような気がしてくる。
 両親、特に母が『レオンス様にはアリスのほうがお似合いなのに』と頻繁に言ってくるのを否定できない。
 長い間、変わらずマリオンを好きだと言ってくれたレオンスのことは信じている。
 彼の想いを疑ってはいない。
 けれど、妹の美しく明るい笑顔を見ているとどうしても落ち着かなくなった。
 レオンスのことを話すとき、レオンスのことを聞いてくるとき。レオンスに挨拶するとき、アリスの緑色の瞳が輝く。
 声には熱が篭もり、白い頬は上気する。
 単なる憧れなのかもしれない。
 けれど妹がレオンスに向ける感情が恋心のような気がして、マリオンは不安になる。
 王都での生活に慣れたら式を挙げようと、レオンスは言っていた。
 公爵家の妻としての仕事は、結婚後に覚えればよいらしい。
 晴れて正式に彼の妻となれば、この愚かな劣等感も薄れ、不安も消えるだろうと思っていた。
 しかし――。マリオンが伯爵家に引き取られて三か月経った頃、その不安は現実のものとなった。

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先行配信先 (2026/04/24〜)
配信先 (2026/05/08〜)