第一章 様子のおかしい天才彫刻家
――芸術の都、リーベンブロム。
ここは、芸術を愛するエーデルフローテン公爵家が治める領都である。公爵家が支援する芸術家が一堂に集い、リーベンブロムで生まれた力作を展示する美術館が多く存在した。
私イヴリンは、この芸術の都の中でも、比較的新しい美術館・ルミナギャラリーで十六歳から働いており、今年の冬で三年目になる。
この美術館は、才能ある芸術家を発掘することに重きを置かれ、期間限定の企画展には特に力を入れていた。
「イヴリン、こっちの什器を動かすから手伝ってちょうだいー」
「はい、リアナ先輩! ただ今向かいます!」
イヴリンは、青みがかったエメラルドグリーンの瞳をキラキラと輝かせながら頷き、バックヤードの廊下を走って呼ばれたほうに向かう。
他の美術館と比べると小規模で、働く人員も少ないから、力仕事でもなんでもやらなくてはいけないが、その分新人でも幅広く仕事を任せてもらえるため、イヴリンはやりがいを感じていた。
(そのせいで、ますます恋愛とは遠ざかっているけれど……)
イヴリンは、この美術館で働く従業員の中で唯一の未婚だ。
とはいっても、特段焦っているわけではない。
今どき女性が仕事に生きることも珍しくないし、第一生身【なまみ】の男性にあまり興味も持てない。断然絵画に描かれる男性のほうが魅力的に思えるのだ。
そもそもイヴリンは、芸術を愛しすぎている。週に五日はこの美術館で懸命に働いているし、休日は他の美術館を見に行ったり、一人公園に行って絵を描いたりする。
たまに心配になった両親がお見合いの話を持ってくるが、結婚したらこの素晴らしき芸術に浸かった生活を手放さなくてはならなくなると思うと気が進まなかった。
――両親を安心させたい気持ちはあれど、少なくともあと五年……いや十年はこの生活を続けたい。
(ルミナギャラリーの制服も気に入っているしね)
支給されている制服は、ジャボ付きのノーカラーブラウスの上にビスチェを重ね、下はミディ丈のスカートである。
上品なデザインは勿論、一人一人に合わせたサイズで発注しているから着心地までいいのだ。
そんなことを考えながら、閉館後の美術館で什器を一通り運び終えると、リアナから声が掛かった。
「手伝ってくれて助かったわ」
「とんでもないです! それより他にもお手伝いできることはありませんか?」
イヴリンは言いながら、明日から開催される企画展会場を見渡す。
リアナが携わっている企画展は、花をテーマにした新人画家たちの展示だ。手伝いが必要な場所はないか確認するつもりが、華やかな会場に思わずイヴリンは思わず見惚れてしまった。
「これで設営は終わったわ。あとは明日になるのを待つのみよ」
「企画展の準備、お疲れさまでした。会場中、花でいっぱいで一足早く春が訪れたかのようで素敵です! 今度の企画展も絶対成功しますね!」
「ふふ、ありがとう。イヴリンが勧めてくれた女性画家が素晴らしくて、メイン展示に配置したの」
リアナの言葉を聞き、すぐさまメインの展示スペースに足を運んだイヴリンは、絵画の前で感嘆のため息を零す。
「わぁっ! 本当に彼女の絵画だ……。これは彼女の新作ですか? 積もった雪から顔をだすマーガレットが、太陽の光を一身に浴びていて、冬なのに寂しさを感じさせない素敵な絵画です……! 柔らかくも明るい色使いが唯一無二で、見ているこちらの気持ちまで優しくなれますね!」
「そう。これは今回の企画展に合わせて描いてくださったものなの。……イヴリンのその反応、この作品もこれから有名になるのでしょうね」
「ええ。必ず多くの人に評価されると思います」
イヴリンは、雪の中凛と立つマーガレットの絵画を羨望の眼差しで眺めた。
昔は画家を志していたけれども、訳あって断念している。
それでもイヴリンは、芸術品に関する鑑識眼を持っていた。常日頃から館長に新しい才能を見つけたら教えてくれと言われており、イヴリンが目をつけた芸術家は全て広く評価され有名になっている。
今となっては、美術館の仕事がイヴリンの天職だったのだと思うほど、この仕事が合っていた。
イヴリンは美術館で働きながら、新たな目標が生まれた。
――いずれはこのルミナギャラリーで企画展を任せてもらえるくらいに成長し、芸術の素晴らしさを広く伝えたい。
一番年の近い先輩であるリアナは、働いて五年目に企画展の補佐についたと聞いている。
館長に企画展のメンバーに加えてもらえる日を夢見て、まるで恋人の如く芸術を愛し学びながら、相も変わらず美術館の仕事に打ち込むのだった。
* * *
時は巡り、冬も終わりに近づいてきた、ある日のこと。
展示品の解説を希望する来館客の案内を終えると、リアナから声が掛かった。
「イヴリン、あなたのことを館長が呼んでいたわ」
「え、館長が? 私、何かやらかしてしまったかしら……」
館長にわざわざ呼び出されることなんてあまりない。途端に新人の頃に叱られたことが頭をよぎりヒヤリとする。
そんな心配をするイヴリンを、リアナはくすくす笑いながら揶揄った。
「またお客さんの前で、芸術を熱く語りすぎてしまったんじゃないの?」
「い、今は、解説のしすぎもよくないって、ちゃんと理解していますから……っ!」
その昔、芸術が好きすぎるあまりに、息つく暇もないほど来館客に展示を語ってしまって、大目玉をくらった黒歴史がある。
そのときに付いたあだ名は、顔だけ令嬢。
イヴリンは、隣国の貴族出身で黒真珠と称された祖母と似ているらしく、黙っていたら浮世離れした深窓の令嬢のようだというのだ。
黒に近いダークブラウンの髪の毛は腰まで伸びて、ゆるやかに波打っている。室内で仕事をしているため、髪色も相まって、いっそ青白いほどの色白だ。
瞳の青みがかったエメラルドグリーンは珍しい色味である。
祖母は令嬢時代に生家が没落して豪商だった祖父に嫁いでいて、イヴリン自身は平民のため自由奔放に育った。
あの頃のイヴリンは、見た目とのギャップが凄まじかったらしく、とんだじゃじゃ馬が入ってきたと思ったと、未だに揶揄われるのだ。
「うふふ。あなたが入りたてのときはどうなるかと思ったけれど……」
「もう、あの頃のことは忘れてください!」
イヴリンが言ってもリアナはニコニコと笑うばかり。他に下っ端がいないため、イヴリンはひたすら先輩からの洗礼を受け続けているのである。
それでもこうして仲良くしてもらえることは、とても嬉しく思っている。
そしてイヴリンは、リアナに挨拶をしてから、館長室へと向かった。
入室の許可をもらって中に入ると、館長はたくわえた髭を撫でながら、書類に目を通していた。両親と同じ世代の彼は、この美術館を立ち上げた子爵家当主であり初代館長の息子で、二十年前に跡を継いだという。
貴族ながら気取ることはなく『俺は三男坊で爵位を継がないから平民と変わらない。上司であるということ以外に、特別な気遣いは不要だ』と、初めて会ったときに告げられた。
たまに叱られることはあれど、筋は通っていて、信頼できる上司である。
「なあ、イヴリン。今度春に開催する企画展の補佐をやる気はあるかい?」
「わ、私が企画展の補佐ですか?」
「ああ。熱意がある君は、そろそろ企画展にも携わるべきだろうと思ってね」
「――……っ!」
館長の榛色のまっすぐな瞳が、冗談なんかではないと物語っている。
イヴリンはまだ三年目で、リアナ同様五年目から携わるものと思っていた。
まさかこんなに早く声が掛かるとは思ってもいなくて、目標に一歩近づいたと胸がドキドキしてきた。
「今回は、大理石で彫刻を始めた稀代の天才ユリウス・ファン・エッセンの企画展だ。かなりの集客を見込める大がかりな企画展になるだろう。補佐になれば忙しくなるが……」
「ぜひ、私にやらせてください!」
――まさか、彼の作品がこのルミナギャラリーで見られるなんて夢みたい!
ユリウス・ファン・エッセンといえば、彫刻の新たな表現方法を生み出した天才中の天才だ。彼のパトロンはエーデルフローテン公爵で、作品は公営美術館に展示されているが、人気のあまり人が溢れ、遠くからしか見られないほどなのだ。
年に一度、普段は見られない公爵家のコレクションが一般公開される芸術の日に、彼の作品を間近で見る機会に恵まれたことがある。
白い大理石で制作された男性像は、今にも動き出しそうな生命の息吹を感じる躍動感があり衝撃を受けた。また、大理石で作られることで滑らかに透き通る白亜の肌と、その肌に纏う薄布のひだがより繊細に表現されていた。
それは、神に捧げるべき逸品と言われているのも納得の作品で、イヴリンは一瞬で心を奪われた。
これまで彫刻の素材といえば比較的安価な木や砂岩、高価なものだと青銅や鉄が一般的だった。大理石という貴重で高級な石材を用いて、彫刻界に新しい旋風を巻き起こしている彼はまさに時の人だ。
イヴリンは、初めて間近で作品を見てから、いつかユリウス・ファン・エッセンの女性像も見てみたいと思った。しかし後に知ったのだが、大理石だったら女性像も映えるだろうに、彼は男性像しか制作しないことで有名だった。
そのせいで、気難しい男色家だと噂されている。
「彼は女性嫌いという評判もあってやりづらい場面もあるかもしれないが、君らしく熱心にまっすぐ向き合っていけば、きっと上手くいくだろう」
「ありがとうございます。どんな方だとしても諦めず、館長の期待に応えられるように頑張ります」
「それは頼もしいな。俺が企画統括するから、当然サポートはする。だから肩に力を入れすぎずに励んでくれ」
「はい!」
初めて携わる企画展がユリウス・ファン・エッセンになるとは、光栄以外の何者でもない。イヴリンは彼の作品をよりよい形で展示する手助けができればと意気込んだ。
それからというもの、館長の言葉通り忙しくなった。
通常業務の他に企画展の準備が盛り込まれて、仕事が無限に湧いて出てくる。
当館ルミナギャラリーの企画展といえば、才能を見つけ世に出すことを指針にし、複数の芸術家の作品を集めて展示されるが、今回はユリウス・ファン・エッセンを深掘りしていく展示だ。単独の芸術家を招いての企画展は久しぶりのことだし、当然既に有名な芸術家なのでかなりの予算がかかっている。
とはいえ、今回の企画展が叶ったのは、ユリウス・ファン・エッセンのパトロンである、エーデルフローテン公爵が館長に借りがあるからだそうだ。館長曰く、彼を企画展に誘致するには、通常であれば更にもっと莫大な費用がかかるらしい。
新鋭の芸術家の中でもここまで大物の企画展をやれる機会は、ルミナギャラリーではそうそうないだろうから大いに学んでくれと言われた。
そうしてイヴリンは、近々行われる、彫刻家本人とそのパトロンらも出席する顔合わせも兼ねた大会議のために、せっせと資料を作り込むのであった。
* * *
「では、イヴリン。資料を各席へ用意しておいてもらえるか。俺は公爵を迎えに行ってくる。一度館長室で休まれてから、大会議室にお連れするからそのように」
「はい。承知いたしました」
ついに大会議当日を迎えた。
大会議の開始まであと半刻ほどしか残っていないと思うと、緊張でいっぱいになる。
けれどもやれることはやった。
これまで館長や先輩たちにも協力してもらって、この資料もできた。
それにイヴリンは補佐で、公爵閣下に説明をするのは館長だ。
感銘を受けた彫刻家ユリウス・ファン・エッセンと話す機会があるかもしれないと思うと粗相のないようにしなくてはと身が縮む思いだ。
だが、歴史的に有名な芸術家の〝恐れを感じるのは、挑戦の証……前に進んでいる証なのだ〟という言葉もある。
目標に向かって、成長するために今日の大会議を乗り越えるんだ。
心臓に手を当てて、イヴリンなりに緊張する自身を励ましていると、大会議室のガラス扉の前に、人影が見えた。
(も、もしかして、もう誰かいらっしゃった!?)
この大会議室にいるのはイヴリン一人。接客は普段からしてはいれど、こういった格式ばった場でもてなせるような教育は受けていない。
イヴリンが硬直しているうちに扉が開かれ、澄んだ青い瞳と視線が交わった。
――なんて、美しい人なのだろう。
まるで宗教画に描かれる神が現実に現れたかのような、絶世の美青年がそこにいた。
年はイヴリンより二、三歳上くらいだろうか。青い瞳は、なぜかこちらを見るなり驚いたように見開かれ、それから長い脚を踏み出した。長身の彼が歩くたびに、後ろで一つに結われた白銀髪がゆらゆらと揺れる。
やや切長の目には氷のように透き通った青い瞳がはめこまれており、力強く凛とした眉と相まって、どこか近づきがたい白狼のような気高い雰囲気を纏っていた。
イヴリンの前で立ち止まると、シャツ越しからでも分かる鍛えられた身体を屈め、片膝をついた。
「……あの、大会議はまだ……」
――始まっていない。
そう言おうと思ったのに、なぜかイヴリンの前で跪いた美青年を前に口を噤む。
そして眩しいほどに、こちらを熱く見つめてくるのだ。
(この人は一体……?)
そんな疑問が頭をよぎったとき、ついに美青年は口を開いた。
「君はもしや、絵画から出てきた名もなき令嬢なのですか……?」
「――え……?」
どこか甘さを帯びた魅惑的な低い声で紡がれた言葉に、イヴリンは瞬きを繰り返した。
彼の表情は至って真面目であり、冗談を言っているようには見えない。
唖然としていると、腕が伸びてきてイヴリンの手の感触を確かめるように両手で握ってきた。
「っ、柔らかい、ふわふわだ……。それに体温を感じる……」
――な……っ! この男は、何をしているの!?
初対面の男性に跪かれた上に、ペタペタと手を触られているこの状況を全く理解できない。しまいには脈まで測られていた。
もしかして新手のナンパだろうか。いやそれにしては、澄んだ瞳をしている。
「あ、あのぉ……」
この場所に来られたということは、彼が貴族である可能性も考えられる。できれば後々のためにも穏便にことを終わらせたいと思っていたのだが……。
やはり彼の様子はおかしい。
「……ちゃんと脈打っている……。君は絵画から出てきたわけではなく、生身の人間なのか!?」
いや、ナンパじゃなくて、やっぱり変な人なのかもしれない。
(それに、数多くの絵画を見てきた私でも、名もなき令嬢なんて絵画は知らない……)
すると突然手首を引き寄せられて、イヴリンの存在を確かめるように触れられた。
イヴリンは我慢の限界に達して、手を無理やり引き戻して一歩下がった。
「いい加減おやめください! 一体なんなのですか!?」
そう叫ぶと、彼は雷に打たれたかのように驚愕した。
「叱られた!? やはり君は感情を持つ、生身の人間だというのですか!?」
「当たり前じゃないですか! 脈まで確認しておいて何を仰っているの!?」
イヴリンは怒っているというのに、彼はどうしてか頬を赤く染めながら恍惚とした様子で口を開く。
「僕は今日まで芸術の神に導かれてきたと思ってはいたが、それが正しいのだと確信しました。運命の君に、出逢えたのだから……」
「っ」
途端に窓から太陽の光が差し込み、彼を照らす。
この世のものとは思えないほど美しく微笑むさまに、イヴリンは思わず息を呑んだ。
そしてイヴリンに向かって、まるで神に懇願するように言うのだ。
「どうか、僕の作った彫刻と交わってくれませんか」
「――は?」