第一章
「この子が……レフィルセント殿下だというのですか?」
まるで信じられないと力なく首を振るのに、どこか見覚えのあるその姿に自分の顔が青褪めていくのがわかる。
レフィルセント・アイラス。
ここ、リガルネ国の第一王子であり、王太子である彼は黄金に輝く髪と深紅の瞳を持つ高貴で美しい私の婚約者だ。
公爵令嬢という地位と併せて、王子と同年代の娘は私しかいなかったため幼い頃から婚約を結び、王太子妃に相応しいマナーや教育を身に付けてきた。
婚約者でありながらレフィルセントとの仲は他人行儀に近いものの、それでも真面目で努力家な彼を支えて生きていくことを誓っていた。
なのに、これは一体、どういうことだろうか。
「信じられないだろうが、間違いない。……レフィルセント、彼女はお前の婚約者だ。セレナ・リオール。わかるか?」
「セレナ……あなたが?」
彼の父親である国王陛下の言葉にレフィルセントの瞳がぱちりと瞬いて私を見上げる。
見上げる、なんて初めてのことだ。
幼い頃は目の高さはほとんど同じだったし、いつの間にか彼の身長はどんどん高くなって今じゃ見上げるのも疲れるほどだったのに。
それがどうしてこうなってしまったのか。
人払いを済ませた私の部屋には陛下と私、そして、見覚えのある少年が一人。
七歳近く若返ったレフィルセントは少年の眼差しで不思議そうに小首を傾げている。
きっと彼の中のセレナも私より七歳ほど若いに違いない。
「……陛下、彼に何があったのですか?」
「魔術だ。一週間前にレフィルセントは視察中に襲撃を受けた。その時不覚にも敵の魔術を浴びてしまったと聞いたが、外傷もなく敵は捕まると自害したという。宮廷魔術師にも見せたがなんの問題も見受けられなかった。……違和感に気付いたのは、次の日のことだ」
苦く顔をしかめる陛下は五十を過ぎても若々しく思えていたのに今は随分と老けて見える。
隣でじっとしているレフィルセントがまるで孫のように思えた。
「見た目が変わらなかったから初めは誰も気づかなかったようだ……レフィルセントの記憶が、一年前で止まっているということに」
「記憶が、一年前で……?」
「どうやら、レフィルセントは一日経つごとに一歳若返っているようだ。記憶も……体も。そしてそれはおそらく、赤子になっても止まることはない」
「っ、では、このままじゃ……っ」
言いかけて、ハッとレフィルセントを見る。
今の彼は十五歳ほどだろうか。子供のようにも見える彼に聞かせるべき話じゃない。
そう危惧した私をよそに、レフィルセントはただおとなしく話を聞いている。
虚ろな瞳には何も映らない。ただ無表情で佇んでいるだけだ。
「……今のレフィルセントは混乱も、戸惑いすらない。宮廷魔術師が言うには、レフィルセントの心は若返っていくことになんの抵抗も抱いておらんようだ。今や王位も、この国でさえも、レフィルセントの未練に足り得ないと……」
「そんなわけ、ありません……! レフィルセントはずっと身を削るほどの努力をして……!」
「……私もこのままこの子を諦めたくはない。しかし誰一人としてレフィルセントの心を取り戻すことはできなかった。頼みの綱はもう、セレナしかおらんのだ」
「……私、ですか?」
王太子として、王太子妃として、お互いに教育を受けて育ってきた彼とは婚約者というより同志に近い。
子供の頃こそ一緒に遊ぶこともあったが、それも物心つく内に二人きりの時間は無くなり、楽しかった記憶も色褪せてしまった。
「セレナが僕の婚約者で嬉しい」と、幼いレフィルセントが笑顔で言ってくれた言葉ももう、今はどうかわからない。
その程度の仲なのだ、私たちは。
だからこそ、陛下も一週間も過ぎてから私に知らせてくれたに違いない。
大人に成長した彼との触れ合いもパーティーの時だけ。話も義務的に。
穏やかに笑い合うことすら、私たちの間には不要だったのだから。
「……私には、無理かと。殿下は婚約者ですが、たいした思い出もありません。私が勝手に見守っていただけです。両陛下や彼のご友人の方がよっぽど……」
「いや、そうではないのだ。私はレフィルセントにとって、セレナこそが未練に相応しいと思っている」
「そんな……っ」
「たとえ私の考えが違っていたとしても、レフィルセントが五歳になるまで……たった十日間共に過ごしてくれるだけでいい。セレナとの顔合わせも、五歳の時だったからな」
厳しくも優しい陛下が眉を下げて力なく微笑む。
子供を想う親の顔に、これ以上返す言葉は見つからない。
ぐ、と息を呑んで、深くカーテシーを捧げる。
「わかりました。私にできる限りのことをします」
目尻にシワを寄せて頷いた陛下がレフィルセントを残して去っていく。
成人してからは王城の一室で暮らしているが、レフィルセントが私の部屋に来るのは初めてだ。
残されたレフィルセントは話を理解しているのかいないのか、じっと私を見つめたままだ。
「その……少し成長してるけど、さっき聞いた通り私はセレナよ。まあでも、七年前もそんなに変わってないと思うけど……」
緩く波打つ長い髪は藍色で、瞳はグレイという、眩しいほど美しいレフィルセントに比べたら地味な容姿をしているとは自覚している。
身長は七年前にはすでに成長期は終わっているし、スタイル維持には気を配っているから太っても痩せてもないはずだ。
あ、でも交流会という名のお茶会や食事会は増えたからドレスのサイズが変わったような……。それでもきっと僅かだろう。
十五歳の頃といえば、正式に社交界デビューするデビュタントに向けてレフィルセントとダンスレッスンをしていたはずだ。
手を取り合うのも、至近距離に近付くのも子供の時以来で、ひどく緊張したのを覚えている。
レフィルセントはどこ吹く風で余裕そうだったけど、私は彼の足を踏まないように必死で、何か会話したかもよく覚えていない。
「お姉さんは僕が知ってるセレナに似てるけど、やっぱり違うよ。ずっと大人で……綺麗だ」
「きっ……」
「お姉さん?」
綺麗だなんて、そんなこと、レフィルセントに初めて言われた。
動揺して顔を赤くしたものの、あの硬派なレフィルセントが女性を誉めた所など一度も見たことはない。
さすがに年上の女性にはお世辞くらい言うだろうと気持ちを落ち着かせる。
十五歳のレフィルセントにとって、私はデビュタントに向けて一緒に踊ったセレナとはあまり思えないようだ。
「私は七年後のセレナよ。今はこうしてあなたより年上だけど、本当のあなたも今は二十二歳なの」
「……そう言われても、よくわからないよ。僕は僕だ」
「ええ、そうね。あなたがレフィルセントであることには変わりないわ。でもね、みんなあなたに大人に戻ってほしいの。あなただって、ずっと立派な王様になるんだって、頑張ってきたでしょう?」
「……それは、そうだけど……」
「レフィルセントは、子供に戻りたいの?」
遠くで見ていた時も、ダンスレッスンをしていた時も、レフィルセントは私よりずっと大人びて見えた。
身長だけでなく顔立ちや態度も落ち着いて見えた。
だからこそ、今こうして目の前のレフィルセントが子供っぽく見えることに戸惑いが浮かぶ。
駆け足で大人になっていくレフィルセントの背中を、私はいつも必死で追いかけていたのになぁ。
「…………子供だった方が、楽しかった」
「え?」
「甘えていられた」
聞いて、きょとんと目を丸くする。
次いで私を襲ったのは、どうしようもない愛しさだった。
「……レフィルセントは、誰かに甘えたかったの?」
「…………誰かにじゃない。一人だけ」
「王妃様に?」
「ち、違う!」
「そっかぁ……レフィルセントは、甘えたかったのね。ずっと、努力してきたものね」
「……っ、……」
よしよしと、撫でやすい位置にある柔らかな金髪を撫でる。
なんだか七歳しか離れてないのに随分と幼く見える。
十五歳のレフィルセントは大人びていたのではなく、必死に背伸びして頑張っていたのだろう。
誰にも気付かれることなく、隠し通してきたのだろう。
真面目で、努力家で、勤勉で、誰もが認める次期国王になろうと朝から晩まで勉強して、鍛練を重ねて、休んでいる所など見たこともない。
子供の頃は読書より外で遊ぶ方が好きで、剣よりボール遊びが好きで、しかめっつらより笑顔でいることが多かったのに。
たくさん好きなことを我慢して、苦手なことも嫌いなことも文句ひとつ言わずにやり遂げてきた彼に、どうして早く大人に戻れと言えるだろうか。
「レフィルセントは、子供でいたいのね」
「……うん」
「なら、あと十日間、好きなことをしましょう!」