プロローグ
それは、花の香り漂う、麗らかな初春のこと。
窓辺に飾られている植木鉢には、鮮やかな青が眩しいネモフィラが見ごろを迎えて咲き誇っている。その隣では、白く可憐なイベリスがささやかに花開く。いずれも、このガラフォード公爵邸の女主人が大切に育てている春の花たちだった。
美しい刺繍の施されたレースのカーテンが、ふわりと揺れる。開け放たれている出窓からは、気持ちの良い風が入ってきていた。時折聞こえる鳥の囀りも、耳に優しい。
――しかし今、公爵邸の大広間では、その爽やかな雰囲気をぶち壊してしまうような、鋭い睨み合いが行われていた。
一方は、扉の前に立つ逞しい体躯を持つ男。冬の夜空を思わせる濃紺の髪の合間からは、銀色に輝く刃のような瞳が覗いている。彼は、男らしく屈強でありながらも非常に整った造形をしていた。だがその眉間には深い渓谷のような縦皺が何本も走り、不機嫌をあらわにしている。また、左のこめかみから口元にかけては頬を縦断する大きな切り傷が走っており、彼の威圧感に拍車をかける。
そしてもう一方は、食卓に腰かけている、これまた造形の整った美女。白金の長い髪は下にいくほど深く青みがかり、見事なグラデーションを描いている。通常ではあり得ない不可思議な色味だったが、これはあえて染めているわけではない。身の内に存在する不思議な力――魔力が元々の白金の髪に影響を及ぼし、この色味に変化させているのだった。そしてその瞳も毛先と同様の、深い海のような、透き通った青。
男と女は、つい最近結婚したばかりの夫婦だった。男の名を、ガラフォード公爵セイヴィス・アルフレッド・グランバルド。このグランバルド王国の第三王子であり、人間離れした膂力と頑強な体躯、そして慈悲のない冷酷な性格で、齢十八にして数々の魔物を屠ってきた、王国最凶と名高い騎士だった。
対して女の名は、ガラフォード公爵夫人ファルナ・セシリア・グランバルド。男の妻であると同時に、この王国で至高とされる『蒼』の魔力を持って生まれた、魔術師としての超逸材。その豊富な魔力量と質の高い魔力で難易度の高い魔術を構築し、魔術学院の入学時から常に主席を取り続けてきた、王国最強と謳われる魔術師だった。
先ほどセイヴィスは、食卓のある大広間の扉を開けて入ってきた途端、扉の取手を持ったまま動きを静止させ、ぴたりと石のように固まった。彼の視線の先には、今しがた席に着いたばかりの、妻であるファルナの姿がある。
「……なぜ、ここにいる」
低い、獣の唸り声のような声が地響きの如く足元からファルナのほうへにじり寄ってくる。そしてその瞳は、ファルナのことをじっとりと恨みがましく見据えていた。
ファルナは眉間にぎゅっと皺を寄せた。ただ朝食を摂るために自室から出てきただけなのに、このような視線をぶつけられるのは納得がいかない。非常に不快だった。
だから、人を射殺してしまいそうな夫の視線に対して、自らも同じような視線を返した。
「貴方こそ、なぜここにいるのですか」
「朝食の席に当主が来てはいけないのか」
「朝食の席に当主の妻が来てはいけないのですか」
「……いつもは、もっと遅いではないか」
「今日はいつもより早く目覚めたのです。ですが、それが何か不都合なことでも?」
セイヴィスはファルナを睨み続けながらもぎりりと奥歯を鳴らすと、ふいに踵を返した。
「お前が食べ終わったあとに出直す失礼する」
「……」
早口で言い捨て、早足に去っていく、その幅広い背中。それを見るファルナの胸中は、穏やかではない。
(何よ……! わたくしと共に食事を摂るのが、そんなに嫌だとでも? セイヴィスのくせに、一体何様のつもり?)
ファルナは、ぎっと音が鳴るほどにきつく奥歯を噛み締めた。
実を言うと、胸中穏やかではない――どころではなかった。ぐつぐつと煮え繰り返っていると言ったほうが正しい。
その理由は、ただ一つ。ファルナとセイヴィスが結婚してから今日で五日目だったが、なぜかセイヴィスはずっとファルナのことを避け続けていたからだった。
(なぜ、こんなにも夫に避けられなければならないの? 特にわたくしが何かした、というわけでもないのに。……ああぁ、苛々するわ。本当に、苛々する)
だから、ファルナは扉が閉まって夫の姿が見えなくなるまで、鋭い視線でその背中を突き刺し続けた。
第一章 幼馴染の夫になぜか避けられているのですが
グランバルド国王の王弟である、アドモンド公爵の娘・ファルナ。そして、国王の子であり第三王子のセイヴィス。二人は同じ年、同じ月にこの世に生まれ落ちた。しかも、日付も一日違い。もっと言えば、一時間ほどしか変わらない。日付を越える少し前に生まれたファルナと、日付を越えてから程なくして生まれたセイヴィスは、生まれた時から家族のようにずっと一緒に過ごしてきた。
セイヴィスの父である国王ゴドリックと、その弟のアドモンド公爵サヴァンは、一歳違いの兄弟だった。そして、彼らは非常に仲が良い。お互いに男女の子供が生まれたら、いずれは結婚させよう、と昔から約束していたほどに。
そういったわけで、ファルナとセイヴィスは従兄弟であると同時に幼馴染でもあり、生まれた時からの婚約者として一緒に育ってきた。
幼い頃のセイヴィスは、今とは違ってそれはそれは非常に可愛らしかった。彼の持つ魔力は、魔力五階級――魔力の質によってつけられる階級――で一番下の『白』。加えて魔術の才能もない。そんなセイヴィスは控えめな性格で線も細く、儚げな美少年王子として有名だった。
逆にファルナは二歳頃から既に魔術の才能を目覚めさせており、幼いながらも簡単な魔術を使えていた。その上性格も気が強く、同い年の子供たちより体力もあった。そして何より、五百人に一人生まれるとされる、魔力五階級で最高である『蒼』の魔力を持って生まれたことから、将来有望な魔術師になるとして期待されていた。
『ファル、まってよ……!』
『あははっ、おそいなぁもう。おいてくよセイヴィス!』
『だって、ファルはまじゅつをつかってるのに……! ずるいよ……』
『それも、さいのうのうちよ』
そんなファルナの背中をセイヴィスはよく追いかけていて、ファルナも子分ができたような気分で、彼のことを大切に扱っていた。
だが六歳になった頃から、セイヴィスは少しずつファルナから距離を置くようになる。もう背中を追いかけるようなことはせず、言動も弱々しいものから徐々に毅然としたものへと変わっていった。
『ねぇセイヴィス、この前かしてくれた本、返すね。とっても良かったわ!』
『……ん。それなら良かった。……また、おもしろいのがあったら教える』
『えぇ、ありがとう! セイヴィスの選ぶものはどれもおもしろいから、楽しみだわ!』
『……ん』
その変化の理由は、ファルナには分からない。ただ、そのくらいからセイヴィスが体の鍛錬に力を入れ始めていたことから察するに、恐らくは女のファルナより弱いという事実が、セイヴィスの男としての矜持を刺激したのではないのだろうか。ファルナは彼の親分として、子分の巣立ちを呑気に見守っていた。その時は「ついに親離れの時が来たのね」と悠長なことを思っていたのを覚えている。
そうして、ファルナとセイヴィスが十三歳になった頃。彼は騎士見習いとして、辺境の地に三年間の遠征に行くことになる。もちろんその間文通は続けていたが、彼から送られてくるその内容は少しずつ内容が固く、そっけなくなっていった。しかしファルナはまたしても「まぁ思春期ですものね」と母親のような気分で呑気に構えていた。
――だが、その三年後。十六歳になって王都に帰ってきたセイヴィスは、見た目も中身も見事に変わってしまっていた。
鍛えていたと言っても、まだ線が細い麗しい容姿だった体躯は、筋肉が目立つ立派な男のものへと成長し。戦場でこさえた大きな顔の傷は、まだ少年と言っても良い年齢の彼を歴戦の戦士のように見せる。そして背も、三年間でかなり伸びていた。三年前はファルナより少し大きい程度だったはずなのだが、今は首を曲げて見上げなければならないほどに大きい。
そのあまりの容姿の変化は、ずっと一緒に育ってきたはずのファルナですら、物凄く近寄らなければセイヴィスだと分からなかったほどだった。
そうして、王都にて開催された騎士見習いから騎士団員への昇進祝いに出席したファルナは、三年ぶりに会える大事な子分のもとに急いで駆け寄った。文通は続けていたが、ようやくその顔を直に見ることができて、心はうきうきと沸き立っていた。
『セイヴィス、久しぶりね! ふふ、とっても男らしくなっちゃって。昇進、おめでとう』
『……』
だがセイヴィスは、そこで思いもよらない反応を見せた。彼はファルナを見るなり、不快そうに眉を顰めてふいと顔を背けたのだ。その態度にファルナはわずかながらもむかっ腹が立って、自分よりもはるかに大きくなってしまった子分を下から睨みつけた。
『何よ、その態度。折角祝いに来てあげたというのに。嬉しくないの? 三年間、ずっと会えなかったというのに』
『……別に』
だがやはり、視線は合わない。
『別に、ですって? ……ちょっとセイヴィス、こちらを向――』
『すまないがほかに挨拶があるまた今度』
『え? は? ちょっとセイヴィス、待っ――』
そうしてセイヴィスは早口で言い終えると、呆然とするファルナを置いて、さっさとほかの人々への挨拶回りに行ってしまった。しかもファルナが、そろそろいいだろうか、と思って彼を探し始めた時には、彼は既に帰宅してしまったあと。そのため、結局その日は何も話すことができなかった。ただその時も、ファルナはため息をつきながらも「全くもう、男の子って本当こういうところが雑よね」と割とのんびりと構えていた。
それから二年間、セイヴィスは騎士としての仕事に追われ、ファルナはファルナで十五歳から入学していた魔術学院での勉学や鍛錬に追われる生活を送った。
文通はしていたが、やはり彼からの手紙は簡潔でそっけない。ただ、それにしてはやたらと頻繁だったのが不思議だった。自分は特にこれといった内容を書かないくせに、ファルナの生活に関することは矢継ぎ早に質問してくる。まるで尋問のようなその手紙に、今度はファルナのほうが少し嫌気がさしてきたほどだった。
そんな生活を続け、家族ぐるみでたまには会うものの、これといって深い会話をしたり出かけたりをすることもなく。気がつけばお互い成人の十八歳になり、セイヴィスは数々の武勲を立てて、ガラフォード公爵位を叙爵された。ファルナはファルナで魔術学院を首席で卒業し、国家魔術師としての職に就くことになった。そうしてすぐ、二人は結婚したのだった。
結婚式の夜、ファルナはガラフォード公爵夫人にあてがわれた自室で、わずかに緊張しながら夫となった男のことを待っていた。幼馴染のセイヴィスとそういった行為をすることに関しては、むず痒いような違和感が残るものの、既に覚悟は決めている。
セイヴィスに対する感情は、恋というには少し違うもののような気がしていた。ファルナには兄が一人いたが、セイヴィスに対する感情は兄に対するものとどこか似ている。親愛、と言ったほうが近いのかもしれない。