ひとつ、ふたつ、みっつ。
そこで数が止まった。
あれ、と思ったけれど、あまりに真剣な眼差しをしていたから、とりあえず見守ってみる。
「――ええっと、以上で合計千五百六円です」
でも結局、最後までみっつのままだったから、つい声を掛けてしまった。
「チョコレート、みっつじゃなくて、いつつありますよ」
あわわと面白いくらいに慌てるその人の眉尻が、しょんぼりと垂れ下がっていく。この表情、見たことがある。弟が小学生の頃、何度練習したって逆上がりが出来なくて、落ち込んでいたときの顔だ。
「すっすみません……、教えてくれてありがとうございます」
申し訳なさそうに頭を下げる彼が弟と重なり、密かに心の中で応援しながら、ふと思った。
この人は、指摘をされても咄嗟に「ありがとう」って言える人なんだ。
一人暮らしをしているマンションから横断歩道を挟んですぐの場所にあるドラッグストアに、春日部さんがいると認識したのは、大学二年生の四月の始まり頃だった。
ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ。
また数が止まる。
今日こそあとから追加するかも、と待っていたけれど、やっぱりよっつのまま。
「チョコレート、いつつですけど大丈夫ですか?」
「え、あの、わっ……、ありがとうございます……!」
既視感ある慌て方をするその人は、漏らしていた最後のひとつのチョコレートを手に取ると無事にバーコードを読み取った。
鳥の巣のような黒髪と、整っているのにどこか幼い顔つき。それを上手に隠してしまう垢抜けない黒縁の眼鏡。そしてこの見事な慌てっぷり。どうせ、人生初のバイトを始めた大学一回生とかだろう。なんとなく、男子校出身の理系っぽい匂いがする。
「あのさ、会計前のものも会計後のものも、ひとつのカゴで出し入れしてるから、どれをレジに通したか分からなくなるんじゃない? カゴ、ふたつ使えば?」
見るからに頼りない年下くんへ、根っからの長女気質なわたしが老婆心からアドバイスをすれば、彼は呆けた顔をしてから頷いた。
「ああ、なるほど。それだと間違えなさそうです」
「でしょ? 頑張ってね」
「はい、ありがとうございます。優しいですね」
とっととサッカー台へ移動しようとしていたのに、突然のお節介に気を悪くする様子もなく柔らかに微笑むから、どうしてか視線が外せなくなった。
ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ、いつつ。
彼はきちんと、ふたつめの空カゴを準備してから会計を始める。バーコードを読み込んだ商品を隣のカゴへひとつひとつ移動させながら、今日はしっかりといつつ数えられた。
「やった!」
思わず手を打って歓声をあげると、彼は照れくさそうに目元を緩めて「お客様のおかげです」と言ってくれた。
エプロンの胸元にある名札から、わたしは彼を「春日部さん」だと知っているのに。彼にとってわたしは、ただの名無しの客なのだと気が付いて、少し悲しかった。
その頃から、ドラッグストアへ行くたびに自然と、彼を探すようになった。
商品を陳列するためにしゃがみ込む彼の背中は、いつも丸まっている。細くて華奢で、運動なんかしませんって書いてあるような背中だ。でも大きなダンボールを抱えて歩いていたりもしてるから、意外と力持ち。
会計を始める前はくいっと眼鏡の蔓をあげて、ずれを直す仕草をする。
おばあちゃんに商品の場所を聞かれたら、ゆっくりと歩調を合わせて案内して、そのまま話し込んでしまう。
うちのお母さんくらいの年齢の店員さんに、バシッと背中を叩いて活を入れられると、寝癖のついたボリュームある頭を掻きながら困ったように笑う。
新しくなったポイントカードの説明をしようとして、思い切り噛む。
「え? なんて?」
「あのっ、えっと、ですね! 再来月から、ポイントカードを一新することになりまして、アプリの登録を行って頂かないとポイント使用が出来にゃぃてぃやいぷ……ああぁ……」
「また噛んだ」
説明事項は丸暗記しているらしく、途中で噛んだ場所からの再開はできない。噛めばまた一から説明が始まってしまう。
そして彼はわたしの名前を、やっぱり知らない。
彼のことをひとつひとつ知るたびに、けれども彼のことを何も知らないような、ちょっと寂しい気持ちになる。
だからあの日、ドラッグストアのサッカー台に貼られた「わたしたちと一緒に働きましょう!」というポスターを発見してすぐに、勢いのままアルバイトの申し込みをした。
もっと彼のことを知りたかったし、わたしのことも知って欲しかったから。
トントン拍子に面接は決まり、大した準備もできないまま決戦日となった。
こんなにスピーディーなのは、わたしの熱意とやる気が伝わったからというより、マジで人手不足なのだろう。ということは、落とされる面接ではないはずだ。ヨシッ。
「今日は来てくれてありがとうね」
スタッフ専用のバックルームでポンポコリンなお腹の店長にとてもにこやかに迎えられ、ますます勝ちを確信した。この店長、何度か店内で見たことがあるけれど、普段はこんなに愛想がよくなかったはずだ。せっかく来たアルバイト志望者を逃さないよう、タヌキらしく化けているに違いない。
「こちらこそありがとうございます! よろしくお願いします!」
「おっ元気いいね! 店が明るくなりそうな挨拶だ」
機嫌よさそうなタヌキ店長が、渾身の履歴書をふむふむと読み始める。証明写真はわざわざ美白モードにして盛ってきた。だって、もしかしたら履歴書を彼に見られるかもしれないし。盛れるところは盛っておくに越したことはない。タヌキ店長の視線が外れている隙に、素早くバックルームを見回す。ここで彼が休憩したりしているのかと思うと、なんだか感慨深い。
「へー、"和"って書いて"のどか"さんなんだ。……あれ、もしかして家が近いのかな?」
キョロキョロするわたしに気付かないタヌキ店長は、狙い通り住所に着目してくれた。やった、よくぞ気付いた!
「道路を挟んで向かいの茶色いマンションです。だから、ヘルプが必要な時もすぐに出勤できます!」
清く正しく元気よく! ハキハキ話してここぞとばかりに社蓄予備軍アピールをする。
「いいねぇ。近いからバイトに応募したの?」
「いえ、ここのスタッフさんがいつも親切で丁寧に接して下さるので、一緒に働きたいなと思って志望しました!」
もちろん彼のことだけど。タヌキ店長は勝手に不特定多数のスタッフのことだと脳内変換してくれたらしく、満足そうにうんうんと頷く。
「接客経験はある?」
「二か月前までアパレルでバイトしてました。そのブランドがネット販売限定になって辞めたので、シフトはたくさん入れます!」
「アパレルかぁ。うち、本社の決まりでピアスとネイル禁止なんだけど大丈夫?」
「余裕っす!」
面接のためにジェルネイルも削ってきた素晴らしくやる気のある爪をキランと見せると、タヌキ店長は「おぉ」とかわいく鳴いた。
「シフトって具体的にどれくらい入れるかな?」
「週三、四は大丈夫です!」
「大学があるし、夕方からだよね?」
「授業が変則的なんで、午前中でもいける時あります!」
わたし統計によれば、彼は週五日か六日はいるかなりのヘビーアルバイターなので、わたしもそれだけ働けば絶対にシフトは被るはずだ。彼が学生生活のほとんどをバイトに費やしているのは、おそらくものすごい苦学生だからか必修単位が超少ないちょっとおバカな大学に通っているからか、だろう。この点は、潜入後改めて調査が必要なことを覚えておかなければ。
「ヨシッ」
タヌキ店長は、ポンッとはち切れそうなお腹を軽快に打った。
「いつから来られる?」
ヨシッ!
「今日からでも!」
こうしてわたしは大学二年生の若葉の季節に、ドラッグストアでアルバイトを始めた。
*
面接の翌日。早速勤務開始となったわたしは、にっこにこのタヌキ店長に迎えられた。きちんとピアスを外して、ロングヘアをポニーテールにまとめて行ったおかげで、とても褒められた。出来るバイトをゲットして上機嫌なタヌキ店長の肩越しに店内を見渡してみるが、彼は居ない。今日は休みなのかな。ばっちり化粧もしてきたのに。
ちょっとテンションが落ちたわたしの心なんて知らず張り切るタヌキ店長に、よいさほいさとバックルームまで連れて行かれる。ぷにぷにの手がスタッフ専用と書かれた扉を開くと、中には、背中を丸めながらパソコンのキーボードをカタカタと打つ男の人が居た。
あのぴょんぴょんと自由な寝癖は、間違いない。彼だ。
「あ、春日部くん、ちょうどいいところに。今日からバイトに入る椎名和さん、仲良くしてあげてね」
どっきんこんどっきんこんと不整脈が始まったわたしの異変に気付きもしないタヌキ店長が声をかけると、手を止めた彼はゆっくりと振り向いた。
見慣れた黒縁眼鏡越しに目が合い、どっこんきんどんどっこんきんどんと脈拍が更に速くなる。
「あれ? ……いらっしゃいませ?」
わたしを捉えた彼は、一拍置いてきょとんとした表情になった。
「椎名さんは今日からお客様じゃなくて、スタッフになったんだよ」
「え、そうなんですか!」
「はいっ! 椎名和です、これからよろしくお願いします!」
たくさんいる客のひとりとして顔を覚えてくれていただけで嬉しいけれど、やっとわたしの名前を知ってもらえて、もっと嬉しい。
彼とわたしの間に隔たっていた山は、タヌキ店長が掘ってくれたトンネルのおかげで、やっと開通した。
「春日部くん、椎名さんに更衣室を案内してあげてくれる? ロッカーは三番を使ってもらって」
「はい」
しかもナイスアシストすぎるぞ、タヌキ店長。
ロッカーの鍵らしきものを彼へ手渡して、職務放棄したタヌキ店長はさっさとどこかへ行ってしまう。でもその怠慢さが逆に良い。未練なく爽やかな気持ちで後ろ姿を見送る。しっぽさえも完全に見えなくなってから、彼はわたしの方を振り返り、ふわりと笑った。
「頼りがいある子が来てくれて嬉しいな」
「……わたしのこと、覚えてるの?」
本当は心臓が飛び出そうになったけど、平静を装って聞いてみる。彼はパチパチと瞬きをして、当たり前だと頷いた。
「あれ以来、レジの打ち間違いが減って、すごく助かってるよ」
嬉しい、嬉しい、嬉しい! 本当に「わたし」を覚えていてくれたんだ! すっぴんスウェットも覚えられていたら最悪だけど、でもそれよりも今は嬉しさが勝つ!
わくわくとテンションが上がってきた。この勢いと雰囲気なら任務を遂行できそうな気がして、早速一歩踏み込んで聞いてみる。
「ねぇねぇ、どこの大学に行ってるの? 今年一回生なら十八歳?」
わたしの言葉に、また彼はパチパチと瞬く。
ゲッ、プライベートに踏み込むには早すぎたのかな? 確かに、自己紹介をしてまだ数分の仲だし……。
距離感の測り方を失敗してしまったとオロオロするわたしを見ながら、彼は不思議そうな表情で小首を傾げた。
「僕、二十五歳だよ」