序章 園遊会にて
「くらりすおねえさま」
声と同時にスカートが引っ張られた感触があり、クラリスは視線を下ろす。
そこには五歳の弟がいて、たっぷりした布地に顔を埋めていた。表情は窺い知れないけれど、スカートの生地に皺ができるほど握りしめている小さな手が、如実に感情を伝えてくる。
「アントン! あなた、いままでどこへ行っていたの。探したのよ」
「ごめん、なさい……」
くぐもった声はどこか涙混じり。
泣くのを必死に堪えている弟の矜持を思い、それ以上の追及はやめておく。
そのかわり、栗色の柔らかな頭髪を撫でながら声をかけた。
「怒ってはいないわ。心配していただけよ」
秋の園遊会は一年でもっとも多くのひとが集まると言われている。十五歳のクラリスですら、人混みに酔いそうになっているのだから、はじめてこの会合に参加した五歳の子にとっては、異界にでも迷い込んだような心地だったろう。
好奇心旺盛で人見知りをしない性格のアントンは、あっという間に護衛を撒いて、どこかへ姿をくらましてしまった。
探しに行きたい気持ちはあったが、クラリスにはお勤めがある。王太子殿下の婚約者として、貴族たちに挨拶をしなければならないのだ。デビュタントを前にした今回の園遊会は、いつも以上に周囲の目が集まっているような気がしていた。
だからこそ、侮られないように毅然とした態度でいなければと思っているのに、「五歳の弟が迷子になって心配なので探してきていいですか」なんて弱いところを見せるわけにはいかなかった。自家の者に任せていたが、どうやら見つかったらしく、心の底からほっとする。
「いったいどこで冒険をしていたのかしら、小さな勇者さまは」
「めいきゅうは深かったのです。ぼくはドラゴンをたおせませんでした」
「そうなの、残念だったわね」
「でも、ようせいには会いましたよおねえさま」
「妖精?」
「はい、ぼくをこちらへ連れてきてくれました!」
絵本のまんまです。
アントンが嬉しそうに笑う。
夜の森に出かけて迷子になった子どもが、美しい妖精に出会って人里へ戻ってこられる物語。
クラリスも読んだことのある童話だ。
「あのかたです。人間にばけているけど、とてもきれいなようせいでしょう?」
アントンが指差した先には何人もひとがいたけれど、誰のことを示しているのかはわかった。
黒い髪をした綺麗な男性と、茶色い髪をした男性の二人組が、クラリスたちのほうを心配そうに見つめていたのだ。
(あの方々が、アントンをここまで連れてきてくださったのね)
御礼を言うため足を踏み出そうとしたところ、黒髪のひとが頭を振った。「不要だ」ということだろう。
だからクラリスはその場で会釈をする。
ありがとうという気持ちを込めて。
黒髪のひとは頷き、小さく手を振ると、そのままどこかへ行ってしまった。
夜の森に消えた妖精のように。
第一章 王太子の婚約者とは
「クラリス・エンハルマン、そなたとの婚約は破棄させていただく」
明るい陽射しが降り注ぐ中、唐突にそんなことを宣言されたクラリスは足を止め、声の主を探して視線を巡らせた。光に透けるような白金色の髪が風に揺れる。
灰青色の瞳がついに捉えたのは、怒りの表情を見せている己の婚約者、フォーアン・ノーテルマンス。この国の王太子殿下である。
(急にどうしたのかしら。婚約を、破棄……?)
言われたことが理解できず、呆然となる。
腕の中にある書類を落とさないよう抱え直していると、同行していた上司のローウェルが手を差し出してきた。
「室長?」
「代わりに持とう。片手間にする話でもなさそうだ」
「申し訳ありません。室長はどうぞ先に行って用事を済ませてください」
「断る。君ひとりで対応できるとは思えない。王家にかかわることだし、関係者である僕もいたほうが絶対にいい」
「……お手数をおかけします」
成人しているとはいえ『王太子との婚約問題』は、二十歳の貴族令嬢がひとりで背負うには重すぎる案件だろう。仕事を始めたときからずっとお世話になっている直属の上司の申し出は正直なところありがたく、ひそかに安堵の息をつく。
クラリスは、公爵令嬢でありながら王宮で仕官している勤労子女である。
この二年間従事しているのは、立ち上がってまだ数年の小規模部署。国内外の要人貴人の精査をするのが主たる業務だ。
これまで神殿がおこなっていた貴族階級の出生にまつわる業務や爵位との紐づけ。他国に倣い、これらを取り扱う部署を王宮内に立ち上げることとなり、学院卒業後のクラリスは十八歳で創設メンバーに抜擢された。
公爵家の名前と王太子の婚約者という肩書があるからこその、忖度による地位だと悪しざまに噂する声は多かったが、そんなクラリスを守ってくれたのがローウェル室長だった。「年齢を理由にふさわしくないというのであれば、僕こそがそうでしょう。二十三歳の若造が国の根幹に関わる新規部署の室長ですよ?」と笑顔で返し、非難の的をずらしてくれた。
なにくれと気遣い、働きやすい環境を整えてくれる。
そんな上司に報いる自分でありたいと思うクラリスは息を整え、あらためて年下の婚約者に向かった。
「どうなさったのですか殿下、いきなり」
「それだ」
「なんでしょう」
「その落ち着き具合、焦りもしない態度が可愛げがないんだ」
「そう言われましても……」
王太子である彼の妃になる身として、常に動じず落ち着いた淑女であれと言い聞かされてきたため、いきなり感情的になれと言われても困ってしまう。そういったことはご自身の周囲にいるお歴々に言っていただきたい。
「いずれ夫となる俺を立てず、いつも上からものを言う態度も気に喰わぬ」
「仕方がありませんわぁ殿下。お姉さまは子どものころから、ああいう性格なのですもの」
フォーアンの隣から顔を出したのはクラリスの妹アイラだった。ふわりと広がる柔らかそうな栗色の髪、明るい空色の瞳を輝かせ、興味深そうな表情でこちらを見てくる。
なんだか嫌な予感がして眉をひそめるクラリスに対し、小さく悲鳴をあげた妹はフォーアンの腕にすがりついた。
「妹にまでそのような高圧的な態度を」
「お姉さまはあたしより四つも年が上だからといって、いつもそうなのですわぁ。殿下のことも、弟のような存在だと思っていらっしゃるのですぅ」
「――やはりか。俺が頼りないと思っているんだな」
「殿下は頼りがいのある男性です。あたしにとっては」
「アイラ」
「フォーアンさまぁ」
感極まったのか、妹を抱き寄せる殿下と、そんな殿下の腕の中からこちらを見て、こっそりと得意げな表情を浮かべている妹。その仕草は見慣れたもので、もはや『いまさら』といってもいい。
(遅かれ早かれ、こういう事態になっていたのかもしれないわね……)
クラリスはそっと息を吐く。
妹のアイラはいつだって姉への敵愾心に満ちていて、とにかくクラリスより上に立とうとするのだ。
姉妹とはいえ母は違う。それぞれの母によって教育方針が異なるのは仕方のないことだろう。
この国では、上位貴族は複数の妻を持つことが黙認されている。
事の発端は今から何十年も前。国内に病が蔓延し、多くのひとが亡くなった。
その折になんとか出生率を上げ、家を存続させることを目的におこなわれた暫定的なもの。爵位を持つ者がお金を使い、経済を回す目的もあったという。
しかし情勢が安定したあともその慣習は廃れずに残ってしまい、クラリスの父親グレアス・エンハルマン公爵もふたりの女性と子を生し、一男二女を儲けている。
長男にして弟のアントンは、アイラの母・アンネマリーが産んだ子どもだ。腹違いではあるが、クラリスを慕ってくれる可愛い弟。アイラのことが可愛くないという意味では決してないが、彼女とは同性ということもあるのか、距離の取り方が難しかった。
公爵家を継ぐのは男児であるアントンで、クラリスは王太子の婚約者。
おそらくアイラとしては、自分ひとりが割を食っていると感じているのだろう。同じ公爵家の令嬢であれば、王太子の婚約者は姉ではなく自分でもいいのではないかと考えているのは知っていた。遠回しに言われたこともある。
だからといって、こんな人目のあるところで実行するとは思っていなかったが、それは殿下にも言えることだろう。
ここは貴族学院の回廊。校舎と校舎を繋ぐ廊下で、多くの生徒が通る場所だ。
現に今も、いきなり始まった修羅場に戸惑い、遠巻きにこちらを見ている。生徒だけではなく教師の姿も見えるため、もはや冗談では済まない状況だった。
これだけの目撃者がいれば噂は広まるし、クラリス・エンハルマン公爵令嬢とフォーアン・ノーテルマンス王子の婚約関係が解消され、同時に新たな相手として前婚約者の妹が立つであろうことはもう覆せない。
今日、学院に用事があって来校することは事前に伝えているので、生徒代表のフォーアンの耳には入っていただろう。
そして彼がアイラに「そなたの姉が来るようだ」と話題にしても、まあおかしくはない。
立ち回りがうまく、自分をよりよく見せることに長けているアイラだ。クラリスをいかに落として自分のほうを上に見せられるのか、策略を巡らせる可能性はおおいにあった。
妹のこういった社交の上手さはクラリスにはないもので、評価に値すると思っている。その対象が自分であることは厄介なのだけれど。
「お姉さま、ごめんなさい。お仕事でお忙しいお姉さまの代わりに、学内にいるあいだは、エンハルマン公爵家の娘として殿下のお世話をさせていただいておりましたのよ」