女は美しくなければならない。
愛でて楽しむための可憐な花でなければ。
そうでないのなら、生まれた意味などないだろう――
「美しさを求める人間が悪魔に魂を売る。そんな物語は古今東西問わず多い。何故かわかるか? ――悪魔は不平等だからだ。偏ったものを選べる。天使のように何もかもが尊いなどと綺麗事は言わない。美しくない者に『あなたの顔立ちだって美しいですよ』など間違っても口にしない。醜いものは醜いと認める。だからこそ美しいものがわかるのだ。美しさを知っているから美を求める人間は悪魔と契約する。道理だ。だが悪魔との契約は禁忌とされる。そこまでして美を求めるなど浅ましいと。実に愚かだ。それで人は心が大事だからと抜かすから笑えるね。美しさを求めない心こそ醜いではないか」
魔界、第七地区にあるバー・バビロン。元天使が切り盛りするとして一時期話題になった店だ。
店内の装飾も、魔界にはない雰囲気のものばかりで、テーブル一式は細かな木彫りの彫刻が施されていて洒落ているというより、家庭的な雰囲気を醸し出している。座り心地は悪くなく、こういう店には見かけない造りが面白くて気に入っている。
だが、今はそれらを堪能している余裕はなかった。
マティーニのグラスが空になった頃、別の常連客の相手をしていたマスターが俺のところへやって来たので、美についての見解をここぞとばかりに述べた。今日、あとわずかで契約しかけた女がいたのに、父親が邪魔しに来たのだ。思い出しただけでも腹立たしく、そのことを愚痴った。
「そうかもしれませんね」
すると、マスターの静かな声が返ってきた。
マスターの背中には羽がある。堕天して魔界にくる奴がいると噂には聞くが、実物を見たことはなかった。元天使が切り盛りする店というのも客寄せのためでどうせ眉唾だろうと最初は疑っていたくらいだ。だから、来店して彼の真っ白な羽を見たときは度肝を抜かれた。ふわふわとした柔らかくて眩い羽は間違いなく天使の証だ。とても気高く、とても美しい。俺は美しいものを愛している。常連となるのは必然だ。
しかし、近頃では魔界の空気のせいで真っ白だった羽が少しずつ黒く変色しはじめている。それがどうにも勿体なく感じられ「羽をしまえば汚れないのではないか?」とつい口にしたことがあったが。
「それじゃあこの店の売りである元天使という証明ができなくなるじゃないですか」
マスターはそう言って笑った。
ここの店のカクテルは味も見た目も絶品だ。そんな売りがなくとも十分やっていけると思うのだが、そこまで口出しをする権利はないので黙った。
俺が一通り愚痴り終えるのを見計らって、
「何かお作りしましょうか」
「じゃあ、エンジェル・フェイスを」
「かしこまりました」
マスターが手際よくシェイカーを振る。
その所作も優美だ。ため息が出るほどに。
黄金色の液体がカクテルグラスに注がれる。
「マスターが作るものはいつも素晴らしく美しい」
飲むのが勿体なくて、グラスを傾けていると、先程まであった怒りも少しだけ薄まっていく。
「ロキさんは、本当に美しいものがお好きなのですね」
「ああ、美しさこそすべてだ」
持論だ。俺はこの価値観の元にこれまで生きてきた。自分が美しいと思うもののみを愛でる。それを非難する奴はここにはいない。皆、好き勝手、己が生きたいように生きる。自由を謳歌できる魔界に、悪魔に生まれたことに俺は心から感謝している。
「おお。ロキじゃないか」
声がして振り向くとコルーナがいた。
ここで知り合った男だ。悪魔は基本的に食事を必要とはしない。俺も食事はとらない。ここへ来たのも、元天使の触れ込みの真偽を確かめるためだった。ただマスターの作るカクテルがあまりに美しかったので、今ではそれ目当てに居ついている。だが、コルーナは食事を趣味としている。マスターの出す食事はうまいらしく――カクテルと違って食べようと思うほどの美しさはないので俺は口にしたことはないが――週のうち六日をここで食べている。六日も食べるならもう毎日来たらいいのにと少し思うが、残りの一日は地上にある気に入りの店というのに行っているらしい。ちょうど昨日がその日だったので、
「一昨日ぶりだな」
「ああ、マスターの食事が食べられなくて恋しかったぞ」
コルーナはそう言うと、ステーキとハンバーグとオニオンスープを注文した。バーで頼む品ではないが、ここはレストランにも負けない料理が用意されている。マスターがこの店をどこに向かわせたいのか少々疑問だが、カクテルが呑めるなら俺は構わない。
コルーナは、マスターが出してくれたツマミのナッツを口に放り込んだ。こいつの食事の仕方は実に優雅で嫌な気持ちにならない。食べるという行為は野蛮だ。それ故に、汚くなりがちだが、コルーナは美しく、口に頬張っていても見ていられた。
「今日は行かないのか?」
「まさか。これから出かけるところだ」
「なんだ、そうか」
「俺の生き甲斐だから。今宵も楽しませてもらうよ」
「お前も好きだな」
コルーナは目だけを細めて笑った。
俺がこの世で最も美しいと思うもの、それは人間の女だ。無論、すべての女がそうだというわけではなく美しい女はごく一部、それも一時。時間が経過すれば醜く老いていくので、そうなる前の若く見目麗しい女を愛でるのが俺の楽しみだ。
ありがたいことに、彼女たちはこちらが探しまわらなくても夜会に集まってくる。俺が縄張りとしている地域は身分階級が存在していたが、それも時代の流れと共に少しずつ変化をし、商人が力を持つようになった。金銭面で見れば貴族よりも金のある市民も随分増えた。だが、そんな中で変わらないものといえば女の価値だ。特に貴族の家に生まれた女は、未だに身分と地位と金のある男に見初められて結婚することが最上の生き方という考えが根強く残っている。だから、豪華な宝石とドレスに身を包み、美しい容姿を披露して男に見初められるのを待っている。俺はそこに出向いて行きさえすればあとは容易い。向こうから俺に言い寄ってくる。俺の美貌が欲しいと合図してくる。無理もなかろう。女どもが見初められようと必死になる男はたいていつまらない容姿をしていることが多い。見た目も何もかも兼ね揃えている男などほんの一握りしかいないのだから、妥協する。だが、やはり美しい男への憧れは捨てきれない。将来のためにブサイクな男に嫁ぐ前に美しい俺に抱かれたいと思う気持ちは自然であり、俺もそれに応える。実に対等な関係だ。
俺はカクテルを呑みほして店を出た。
さぁ、これからが本番だ。今日はどんな花を手折ろうか。
◇
階段を上がっていくと管弦の音色が大きくなっていく。
今宵の夜会はポートガス伯爵の屋敷で行われていた。近頃、財政難であると芳しくない噂が流れているので払拭するため豪華な夜会を催したのだ――が、失敗に終わったようだ。金の切れ目が縁の切れ目。人はまばらで閑散としている。愉快なほどわかりやすい。
獲物を見定めるためにゆっくりと歩くと、注目されているのがわかる。女たちが、ねっとりとしたため息と視線を投げてくる。一瞥すると頬を染める者、微笑んで誘ってくる者、様々だ。賞賛されて求められるのは悪い気はしないとはいえ相手による。その程度の容姿で俺に目線をよこしてくるなど恥知らずも甚だしいと感じる女もいる。分相応を知らない輩にはうんざりだ。身の程を知れ、とイライラが込み上げてくるのを抑えながら、一周りする。
(今日ははずれだな)
やはり力ある家が主催する夜会でなければ麗しい女は集まってこないようだ。
まぁこんな日もある。ランクを落としてでも今夜の相手を探す気には到底なれず、俺は早々に引き上げることに決め、先程上ってきたばかりの階段へ向かった。
すると、ホールへ入ってくる女がいた。
(なんだあれ)
女は眼鏡を掛けていた。眼鏡というのは数十年前に開発された視力の補強器具だが、顔を覆うものなので美しさを重要視する女は好まない。まして、夜会に掛けてくるなど男であっても見たことがなかった。だが、その女は堂々と眼鏡を掛けている。
着ているのは紺色の色味としては地味なドレスだ。しかし、丁寧に縫製されているのは一目見てわかった。型も、最先端の流行ものというわけではないが飽きのこないクラシカルなもの。おそらくカリオン王朝時代の型をアレンジしている。デザイナーの努力と品が感じられた。だからドレスには問題はない。問題なのはその着こなしだった。ただ着ているだけで、どのように着れば美しく見えるかなど考えてはいない。せっかくのドレスが輝きを失い、召使かと思わせるみすぼらしさだ。あれでは宝の持ち腐れ、ドレスへの冒涜といっていい。
(一体なんのつもりだ?)
あまりのことに足が止まり呆然と女を見ていれば、どんどん近づいてくる。
女は俺とすれ違うとき会釈をしてそのまますり抜けていった。会釈は義務的なものだったし、真面な女なら必ず俺を二度見するのに振り返ることもしない。眼鏡もドレスの着こなしもそうだが、俺の美貌を見ても何も感じないなど美意識というものがないのだろう。
俺はこれまでにない態度と容姿の女をなんとなく振り返って目で追った。
女はホールに入ると壁際に立った。ダンスの誘いを待つためだ。
(お前のような女が、誘われると思っているのか?)
女たちは皆、美しくなる努力をして、己を磨き、夜会に出席するというのに、そのような努力の欠片も見られない姿をした女など誰が誘うというのか。あんな女を誘うくらいならば、一人でいる方がマシだった。
傑作だ。本当に、今夜はなんという日だろう。
美しい女はいなかったが、最高にみっともない女を見た。女としての人生を謳歌できない、男にダンスを申し込まれない女は「壁の花」と呼ばれるが、あの女は壁さえも彩れないだろう。まったく、憐れでならない。
衝撃が強くしばらく動けず女を眺めていると、案の定、女が誘われることはなかった。
「……」
それは一瞬の閃きだった。戯れ。或いは暇つぶしだ。
俺が声を掛けてやろう。
女はどうするか。俺のような美しい男からの誘いに狂喜するにちがいない。舞い上がって自惚れるかもしれない。そのまま手を引いてフロアの中央に踊り出て、曲の途中で難癖をつけて置き去りにして恥をかかせてやろう。己の身の程を知り、二度と夜会に来ようという気にはならないように。
だってそうだろう? 美しくない女などなんの価値もない。それどころか、お目汚し、迷惑千万。思い知らせてやるのが優しさというものだ。
俺は自分の考えに満足し、実行に移すことにした。
女に近づくためにホールに入る。
再び周りが注目してくる。小さなざわめきが鬱陶しい。俺が誰に声を掛けるのかという興味と、もしかしてそれは自分じゃないかという期待、いろんなものが入り混じった眼差しを無視して進む。
目当ての女だけは相変わらずまったく俺を見なかった。自分が誘われるとは微塵も思っていないらしく、意外とその辺は分を弁えている。その感覚だけは正しいと誉めてやるが、今回は特別だ。さぁ、女はどうするか。
「お嬢さん、どうぞ今宵、私のお相手を」
ざわりと会場が揺らめいた。
何故あんな子が、とあからさまな声が聞こえる。俺は笑いをかみ殺しながら、女の反応を待った。
「……?」
返事がない。
自分に声を掛けられていると気づかなかったのか無視されている。
「あなたに声を掛けているんですよ」
俺はもう一度、微笑みながら言った。
ようやく女は俺に視線を向けてきた。眼鏡の奥に隠された瞳が初めて俺を正面から捕らえた。邪念も邪推もない虚をつかれた人間のまっさらな眼差しだった。それから周囲をチラリと見て、他でもなく自分が申し込まれているのだと確認すると、また真っ直ぐに俺を見た。そして、
「あなたのように美しい男性に申し込まれるなんてとても光栄です」
そうだろう。だからこの手をとればいい。そうしたら天国から地獄へ突き落としてやる。
「でしたら、是非、今宵は私と」
念を押すように右手を差し伸べた、が。
「いいえ。今宵だけではダメなのです。これから二週間お付き合いいただける方でないと。ですからあなたのお相手は致しかねます」
「は?」