天使とゲーム

表紙:

先行配信日:2024/11/22
配信日:2024/11/29
定価:¥880(税込)
侯爵子息のクロード・ウォーカーは事件に巻き込まれ生死の境をさ迷っていたところ天使ドーセに出会う。
ドーセからは、生きるか死ぬかを選べると告げられたが、人生を退屈に感じていたクロードはすべてが面倒に思え、どちらでもよいと答えた。

しかし、もう何年も疎遠になっていたはずの乳母兄妹・シアが毎日見舞いに来て目が覚めるのを祈っていると知ると、クロードに好奇心が芽生えて──。
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 恋をしていた。
 臆病な私は話しかけることもできなくて、ただ、あなたの幸せを願っていた。
 それが私の幸せだった。






「聞こえますか?」
 柔らかな声がした。
「もしもーし、聞こえますか?」
 聞こえる、と答えたいが喉がうまく開かない。違和感を解消するべく喉元に手をやろうとして、手の感覚がないことに気づく。手というより身体の輪郭がなくなっていて、闇に溶け出しているような気がした。視界も真っ暗で閉ざされていて、何が起きているのか、ここはどこなのか、思い出そうにもうまくいかず、その間に声の主の話だけは続いていた。
「おかしいな。聞こえているはずなのだけれど。何か間違えているのかな?」
 状況とは相反する呑気な口調だが腹は立たずに、それよりもそれほど悲観する状況ではないのかとかえって安心できた。
「これでどうです?」
 左から右へ閃光が走った。
「どうぞ、もう一度ゆっくり目を開けてみてください」
 光が走ったあと、画用紙に線を引いたような境界線ができて肉体が浮き彫りになってくるのを感じた。目玉が小さく痙攣して瞼が動くのまでわかる。
 言われた通り目を開けてみると、目の前に…男……?
「見えていますかー?」
(みえている)
「あれ? ……まだうまくいっていない」
(みーえーてーいーるー)
 叫んでみても少しも音にはならず、ただ喉だけはひりひりと擦り切れるように痛んだ。
「あ、そうか、そうか、忘れていた」
 彼が眉間のあるはずのところまで指を持ってきて「パチンッ」と鳴らした。瞬間、重力に引きずられるように落下する。衝撃で尻もちをついた。
「痛っ……」
 今度はすんなりと声が出た。浮遊感は消え去り引きずるような重さ――肉体の感覚だ。
「すみません、大丈夫ですか?」
 大丈夫ですかと言いながら悪びれた感じがしない。尻をさすっていると彼が手を差し伸べてくる。だがその手を取るには躊躇いが生じた。彼の背中に見慣れないものを見たから。
「どうも、クロード・ウォーカー侯爵子息。私、天使のドーセと申します」
「てん、し……?」
 天使。あの神様の使いの? ……たしかに彼の背にはそれを思わせる真っ白いふわふわした羽があるし、人間とは思えない光を放っているが。
「心当たりおありでしょう?」
 心当たりと言われて急に背筋に悪寒が走った。
 ざらついた記憶の断片が、明滅していて、鈍く光る刃の先端が自身に向けられ突進してくる。人体というのは骨に当たらなければ肉はあっさりと刃物を通してしまうと何かの本で読んだことがあるが、その刃は容易くクロードの腹の奥へと通った。世界が、時間が、ゆっくりと流れて、身体が倒れ込んでいく。受け身はおろか、身構えることもできずに、頭部を強打して、そちらの痛みの方が強く、ほどなく世界が暗転した。
「私は刺されて……死んだのか?」
「いいえ。まだ」
 ドーセがまたパチンと指を鳴らした。すると、目の前に丸い鏡のようなものが現れた。じわじわと中央から水面が広がるように絵が浮かんでくる。絵というかこれは……
「水鏡です。今のあなたの肉体の状態を映しています」
 説明の通り、そこには自室のベッドで眠っているクロードが映っていた。
「あなたは現在、意識不明の重体です。あなたを刺した犯人は、人身売買に手を染めていたことが発覚し、伯爵位を剥奪された家の令息です。元伯爵夫妻は刑務所に収監され、残された令息は引き取り手がなかったので施設に預けられましたが、まったく馴染めずに、ふらふら歩いているうちに母校へ辿り着いた。そこで楽しそうにしている生徒たちを見て、つい先日まで自分も同じだったのにと逆恨みから犯行に及んだ。当人曰く相手は誰でもよかったと供述しているようですが……」
 ドーセはそこで意味深な視線を投げかけてきた。その意図するところはなんとなく想像できた。
「私を狙っていたと?」
「おそらく。彼には好きな令嬢がいたようですが、その令嬢にもまた好きな人がいた。それがあなたです。家柄も容姿もよく、文武両道、おまけに自分の意中の人の心を奪ったあなたを元々妬ましく思っていた。自分はこんなに惨めなのに、すべてを持っているあなたに我慢できず犯行に及んだというのが真相でしょう。ただ、逮捕されて冷静になり、侯爵家の子息を狙って刺したとなれば罪が重くなると考え、誰でもよかったと自供している。いずれにせよ、あなたにとったら完全なとばっちりです。災難でした」
 ドーセの口調は相変わらず軽いので、冗談のようにも聞こえた。或いは、現実を受けとめられないので、そう思いたかっただけなのかもしれないが。
「眠っているように見える」
 自分の寝姿を見るなど初めてなので、水鏡に映る姿をじっと眺めていると、奇妙な気分になった。何の痛みも感じてはいない、穏やかな表情であることも混乱させた。
「ええ、処置は済んでいますから。事件から二ヶ月が経過していて、あとはあなたの意識が戻るかどうか……このままだとあと一月ほどで衰弱死します」
「それまでに生き返る試練をこなせとかそういうことか?」
 ドーセは先程から「まだ」とか「このままでは」と発言している。つまりそうならない方法があるということだ。
「理解が早くて助かります」
 ドーセはにっこりと笑った。何と形容すればいいかわからないが、人間の容姿をしているのに人間味のない完璧な笑みだった。
「ですが、試練というものはありません。幸運にも、特別な取り計らいにより選択する権利を得たのです。ええ、あなたはこのまま死ぬことも、生き返ることもできるのです。どちらにしますか?」
 無風であったがドーセの羽は時折揺れた。呼吸をするたびに一緒に上下もしている。本物なんだなと妙に感嘆した。真っ白で上質そうだ。
 ドーセは完璧な笑みを浮かべたまま、問いの答えを待っている。
「どちらでもいい」
 クロードは答えた。
 ドーセは真顔になり、
「なるほど、恵まれていることと幸せとはまた話は違いますものね」
 と続けた。
 クロードはそれについては否定も肯定もしなかった。ドーセの言う通り、クロードは恵まれている。裕福な家に生まれ、大抵のことは少しやればうまくこなせた。望んだことで叶わなかったことなどほとんどない。だから、自分の人生は恵まれている。ただ、幸せかと問われたら答えられなかった。幸せがどういうものかよくわからない。幸せならば生きたいと思うのだろうか。そうであるなら、そうは思わない自分は幸せではなかったのだろう。
「しかし、困りましたね。決断するのはあなたです。どちらかに決めていただかないと……まぁ、今はまだ多少混乱もされてるでしょうし、しばらく考える時間を差し上げます。よく考えて結論を出してください。……あと、こちらはあなたが意識を失ってから今に到るまでの周囲の人々の様子を記録した資料です。よければ参考にしてください。では私はこれで」
 そう言うとドーセは消えた。
 一人残されたクロードは水鏡をしばらく見ていたが、それにも飽きてきたので渡された資料を読みはじめた。
 分厚い。表紙には手書きでデカデカと「クロード・ウォーカー身辺記録」とある。
 一頁目を捲ってみる。「大聖歴一〇七二年四月六日。腹部刺傷、その際に頭部強打により重体となって以降、彼の身近な人物の動向についてまとめた記録である」と簡素な文章で綴られている。
 次を捲ると両親のことが書かれてあった。
 クロードは一人息子だ。子宝に恵まれずに結婚七年目にしてようやく授かったせいもあって大切に育てられた。侯爵家の嫡男としての厳しい教育も受けてきた。クロードは期待に応えようと努力した。努力が報われるとは限らないというが、クロードのそれは報われた。人並み以上の能力があったので、適切な教育を施されたら結果に結びついた。二人にとって自慢の息子だった。
 事件当初、夫妻の悲しみは相当なもので、あらゆるコネクションを駆使して名医を呼び、クロードを助けようとした。しかし、一日経ち、二日、一週間、一月と時間だけが経過していく。その間に親族たちが見舞いと称してクロード侯爵に近付いてきた。貴族は家を残すことに重きを置く。嫡男に何かあったときのために複数人の子を産む。だが、夫妻には子どもが出来づらく他に子はいなかった。このままクロードの目が覚めなければ侯爵家はどうなるのか……親族たちは心配と称して養子を迎える提案や、夫人と離縁して新たな妻を迎えないかと持ち掛けた。侯爵は彼らの話に耳を傾けた。感情を排して、家のことを現実的に考えねばならない。仮に、クロードの目が覚めても頭部を強打して昏睡状態に陥っているのだから後遺症でこれまでのような生活を送れない可能性もある。当主としての責務を果せないなら、代わりに家を継ぎ且つ自分たちが亡くなった後もクロードの世話をしてくれる優秀な者を迎え入れなければならない。それもできるなら血縁者の中からである。選定は早いに越したことはない。だが、夫人は侯爵のように割り切れなかった。頭では必要なことだと理解をしようとしても、まだ生きている我が子の死を前提として動き出すことが受け入れられない。夫妻の間で喧嘩が絶えなくなった。
 クロードは自分の心配そっちのけで家のことに重きを置いて争っている両親に失望などはしなかった。仕方のないことだし、申し訳ない気持ちの方が強かった。
 頁を捲っていくと、オズワルド・ハイマー侯爵子息とジャスミン・モーガン侯爵令嬢が付き合いだしたという記載があった。
 クロード、オズワルド、ジャスミンの三人は五大侯爵家と呼ばれる家にそれぞれ生まれた。
 同じ年ということもあり、クロードとオズワルドは学院に入学してから親しくしていた。中等部の頃から二人は目立つ存在で、令嬢が集まればクロード派かオズワルド派かという話題が出るほどだった。
 高等部に進学すると二人の前に一人の令嬢が現れた。
 長い間、隣国で療養していたジャスミンが戻って来たのだ。
 オズワルドとジャスミンは幼馴染で、手紙のやりとりなどをしていたらしい。回復したとはいえジャスミンが心配らしくオズワルドはまるでナイトのようにあれこれと世話を焼いていた。彼と一緒に行動していたクロードも自然と彼女と関わるようになった。
 やがて、ジャスミンはクロードに恋をした。
 そのことに気づいたとき、クロードはいつになく動揺した。彼女が好きになるとしたらオズワルドだと思っていたからだ。それにオズワルドは明らかにジャスミンを一人の女性として愛している。クロードも同じか、それ以上の気持ちをジャスミンに持っているなら違っただろうが、その気もないのに突然三角関係に巻き込まれてしまったことに煩わしさを感じた。
 クロードは平穏のため二人の気持ちに気づかない振りをし、これまで通りに過ごすことにした。しかし、半年前にジャスミンから告白を受けてしまった。貴族令嬢の中の貴族令嬢ともいうべき彼女はプライドも高いので、クロードから告白するように画策していたのだが、一向に成果が上がらないのでついには痺れを切らしたのだろう。とはいえ、まさか自ら告白するなどという大胆な行動に出たことは意外だった。
 こうもハッキリと告げられてはもう無視はできない。
 おまけにそれを聞きつけたオズワルドが、「君ならばジャスミンを大切にしてくれるだろう」と応援してきた。
 愛する人が幸せになれるなら、それが自分の幸せ。おそらくそういうことなのだろうけれど、クロードはジャスミンを愛してはいない。そんな相手に任せるなど真っ当な判断とは思えなかった。恋に恋をしているだけか、自分の気持ちを誤魔化している偽善に、嘲笑のような怒りのような感情がふつふつと沸いてきた。
 一方で、ジャスミンの自分が欲しいもののためにはなりふり構わない姿勢には感心した。黙っていればなんでも人がしてくれる――そのように生きてきた彼女が自ら動いたのである。その行動に、クロードは奇妙なほどの眩しさを感じ、それならばオズワルドへの義理よりジャスミンの気持ちを優先して付き合ってやろうと思った。
 そこには打算も働いていた。
 クロードは愛や恋など人生において重要視していない。だが、侯爵家の嫡男としていずれは婚姻を結び、家を継がなければならない。その相手として、同じ五大侯爵家の娘であるジャスミンなら身分的に申し分なかった。
 こうして、クロードとジャスミンは付き合うことになった。
 恋人になったといっても、これまでと大して変わらない。第三者から見れば、オズワルドとジャスミンの方がよほど親し気に見えた。歪な三角関係は、より歪になった。
 だが、それも、クロードが事件に巻き込まれて意識不明の重体になったことでまた変化が生じた。
 ジャスミンはクロードの事件に悲しみ、その悲しみをオズワルドが埋め、二人は恋人となった。
(収まるところに収まったということか)
 裏切られたという気持ちは不思議となかった。ただ、二人が恋人になったのは事件から一ヶ月程度と書かれてあるのを見て、決断の速さに苦笑はした。
 クロードは資料を閉じた。
 それからゴロンと真っ暗な空間に寝転ぶ。
 大きく伸びをして闇を凝視し、深い息を吐いて、唯一光を発する水鏡を覗く。横たわる自身の姿がある。規則正しく胸元が上下している。呼吸の証だ。
(もし、私が目を覚ましたら、あの二人はどうするだろう?)
 気まずくなるだろうか、案外普通かもしれない。
 考えてみるが、億劫になった。家柄や立場的に関わらないという選択肢がないから厄介だ。やはりこのまま死んでしまった方がいいのかもしれない。両親より先に死ぬことを申し訳なく思うが、クロードがいなければいないで世界は動いていく。それなら面倒なことはやりたくない。
「どうするお前……生きるか? 死ぬか?」
 それでも決めかねてしまうのは何故だろう。眠った肉体に問いかけてみるが答えるはずもない。クロードの声は寂しく消えていった。
 選択を与えられたことを幸運だとドーセは言っていたが果たしてそうだろうか。生死を自分で決めることは重い。決めてもらったほうが諦めもつく。
 どうでもいい、なんでもいい、投げやりさはこれまでのクロードの人生を物語っていた。
 水鏡を眺めていると、やがて一人の令嬢が入ってきた。彼女は手馴れた様子でカーテンを開ける。日差しが入り込んできて画面が輝きに満ちた。どうやら水鏡には照明機能がついているようで、暗がりでもくっきりと映し出されていたが、太陽の光が入り込んだことで映像の明るさが変わった。
 令嬢は、ベッド脇の椅子に腰掛け、クロードの額にこびりついた前髪に触れた。
「シア……?」
 何年ぶりかに呟いたその名前に、何故だが胸が詰まるような気がした。

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