一、告白
サンタクロースが最後に芽衣子のところに来てくれたのはいつだっただろうか。
毎年十二月二十四日の夜に、そのとき一番欲しい物を枕元に置いてくれたサンタクロース。
聖なる夜、彼が訪れるのを眠りながら待っているだけで望む物を手に入れられるのは、小さくて純粋な子どもだけだ。
芽衣子はもう十九歳。大人であると国からお墨付きをもらった成人女性である。
大人の望みは、待っているだけでは叶えられないのだ。
芽衣子はレジに伝票を置いた。
クリスマスディナーセットふたつ、三千三百四十円。
クリスマスイブなんて日に付き合わせた友人の分は奢る約束になっている。
その友人は出入口の内扉の向こう側で見守ってくれている。そんなに見ないでよ、と振り返りたい気持ちを抑えて、芽衣子は十円玉四枚と五千円札一枚をカルトンの上に置いた。
普段はなんでもスマホで支払いを済ませる彼女だが、この店舗でだけは現金派になる。
現金を丁寧に数える彼の手を見ていたいからだ。
芽衣子は自分のものよりも長い指の関節を見ながら、彼に見えない位置で両手の拳を握り締めた。
「千七百円お返しいたします」
彼はそう言って、接客業にしては控えめな営業スマイルを浮かべつつお釣りをカルトンに置いた。
去年はもっと不慣れな笑顔だった。
知っている。その頃からこうして通っているのだから。
萩野さん。
多分去年新社会人になった、二十代前半の男性。少し華奢な印象で、普段はコンタクト、だけどたまにどういう理由でだかは知らないが眼鏡で店内で働いている。
ただの客でしかない芽衣子には、見た目と名札から入ってくる情報しか手に入れられない。
もっと社交的な性格だったら、相手が店員さんだろうと気軽に声をかけて仲良くなれたかもしれない。だけど芽衣子にはそんな芸当はできないから、こうして突撃する以外の方法が思いつかなかったのだ。
芽衣子がカルトンの上に置かれたお釣りを財布の中に仕舞うのを、わずかに口角を上げたままの萩野が見ている。
「……あのっ」
意を決して声を絞り出す。絞り出せた。
だけどその後が続かなかった。
勢いよく顔を上げた芽衣子を、首を少しだけかしげて萩野が見ている。
男の人にしては小柄だと思っていた。だけど百六十センチの彼女よりも、視線の位置が明らかに高い。同じくらいかな、と思っていた彼との身長差が急に大きいものに思えてきて、心細くなってきてしまう。
「…………あの」
芽衣子の脳裏を、知らない女の人の顔が横切っていく。
落ち着いた雰囲気の大人な女性。彼女に向かって笑うのは、目の前で無機質な笑顔をつくっているひと。
「はい」
続きを促すような、返事の形をとった相槌。早く用件を、と急かされているようだ。
早く言わなきゃ。ちゃんと練習してきたとおりに。
ああ駄目だ。まだお客さんたくさんいるのに。迷惑だと思われる。
会計を待つ人が後ろにいない今がチャンスなのに。
「…………今日、お仕事何時に終わりますか」
決定的な言葉が出てこない。
自分の意気地のなさに嫌気が差してきた芽衣子だが、その様子と曖昧な言葉だけで、彼女の目的は伝わってしまった。
一瞬きょとんとした萩野だが、その表情はすぐに慌てたものに変わった。
「……クリスマスプレゼント?」
「え?」
「えっ、あっ?」
「…………あの、わたし」
何回目のあの、だ。
肝心な言葉を伝えられない芽衣子に、萩野は右の掌を見せて声をひそめた。
「……失礼しました。今日はまだしばらく終わりません」
これは、断り文句だ。
彼は告白される、と察して、される前に牽制したのだ。
牽制、された。
告白しても無駄だ、断るから、と言われたのだ。
上手くいくとは思っていなかった。
芽衣子は平凡な見た目で、年上の男の人を惹きつけるものなど持っていない。外見だけで判断しないで、なんて図々しい要求はできない。
だって彼は芽衣子のことなど知らないのだ。彼女が一方的に想って店に通っていただけ。
初対面の女に告白予告などされて、歓迎するひとなんかいるはずない。
でも。
「……ですよね」
やっぱり少しは期待していた。だから今日ここに来たのだ。
告白を喜んでもらえて、ふたりで会う約束を取りつけて。何度目かのデートで付き合いましょう、という流れになって。
そんな妄想を打ち砕かれて、思わず彼の前で泣きそうになってしまった。
「今は無理なので、十分ほど、そこのコンビニで待っていてもらうことはできますか」
「…………?」
出そうになっていた涙が引っ込んだ。
今なんと言われた? 待っていて?
「確認なんだけど。去年よくここで勉強してた高校生、で合ってるよね?」
状況がよく分からない。
目をしばたたく芽衣子に、声を低くした萩野が言葉を崩す。
客相手ではない言葉遣い。年下の女の子に接する態度だ。
「あっはいっそれです、それわたしです」
覚えられていた。嘘みたいだ。
高校を卒業してから、髪を少し明るい色に染めた。大人っぽくなったと評判だし、自分でも気に入っていた。
変わっていないと言われた、と残念がるべきか、髪色くらいで分からなくならない程度に認識されていた、と喜ぶべきか。
「……それでえっと、今日はそういうあれで」
「はい」
何があれで何がはいなのか分からないが、ふたりは互いの言いたいことをふわっと理解し合った。
「…………今から上の許可取って一瞬だけ抜けるから。十分、十五分かかるかもしれないけど」
もう深夜に近い時間だ。
新しい客の気配はないが、席を立つ客の姿が遠目に見える。
「一時間でも二時間でも待ってますっ失礼しますっ」
顔を真っ赤にした芽衣子を見て、萩野が少し横を向いた。笑われた。
仕事用ではない彼の笑顔はくしゃっとなる自然な表情で、急に身近なひとに感じられた。
逃げるようにして店を出た芽衣子は、待っていた友人の首にかじりついた。
「頑張ってよかった……!」
友人は笑って抱き返してくれて、半べその芽衣子の背中を押してコンビニまでまた付き合ってくれた。
十分、だと待たせてしまうかもと思って、八分経過をスマホ画面で確認してから、芽衣子は暖かいコンビニを出て待っていた。
十二月の寒さが、頭を冷やせと言っているようだ。身をすくめて右手で左手を温めながら、彼が来るであろう方向を注視する。
萩野は十分も待つことなく走って現れた。
ファミレスの制服の上に黒いコートを引っ掛けただけの格好で、慌てて来てくれたことが見て取れる。
芽衣子を目掛けて、萩野が走ってきた。芽衣子のために、彼が走ってくれている。
もうそれだけで充分な気もしてきた。
すでに感極まっている芽衣子の前に、萩野が到着した。
白い呼気が、軽く息が上がっていることを伝えてくる。
「……えっと。俺もしかして先走ったかもだけど」
何も言われていないことに思い至ったのだろう彼は、気まずそうにそう口火を切った。