1、夜を騒がせる仮面の令嬢
ダンスホール「エトランジェ」。
元は迎賓館として造られた建物は、一階に談話室やビリヤードルーム、三階は客室を備えており、紳士淑女の遊び場となっている。ここで毎夜開かれる仮面舞踏会に参加することは、ティタニア国の貴族にとって、今もっとも流行りの遊びだった。
顔を隠し、身分を偽り、かりそめの名前で一夜を謳歌する。
諸外国から入ってきたこの文化に、節操がないと顔を顰める有識者はそれなりに多い。しかし、ホールの盛況ぶりからするに若者たちにとっては余計なお世話というものだろう。貴族同士の結婚となれば、家同士の結びつきがもっとも重要視される世の中で、皆がロマンスに飢えているのだ。
名も知らぬ相手との一夜。禁断の恋。見初められた相手は身分違い。
――なんていう、物語のような非日常な出会いを求める者は、案外多いらしい。
「……僕と踊っていただけますか、レディ?」
羽根つきのマスケラをつけた男性が声を掛けると、ペールピンクのドレスを着た女はにこりと微笑んだ。
もっとも、顔の半分はスミレの花を模した奇抜な仮面で覆われており、男性からは可憐な唇が上向いたことしか確認ができない。
「ええ、喜んで」
そう言って差し出された手を、男性はスマートな手つきで――いや、震える手で握る。少々ぎこちないエスコートになってしまったと焦っていると、女は優しく笑った。
「ふふっ。緊張していらっしゃるの?」
「え、ええ。まさか、OKしていただけるとは思わなかったもので……お恥ずかしい」
「まあ、わたし、そんなにお高くとまっているように見える?」
冗談混じりにクスクスと笑われる。
笑顔を見て、男性はほっとしてしまった。
……この子、意外と若いな。俺より年下だろう。落ち着いていそうだし、おそらく、十七、八くらいじゃないか?
そんなふうに素性を探っていると、おっとりと「ここへは初めて?」と尋ねられた。
「いえ、二回目です。一度目は悪友に誘われて……」
そうしたら、物凄く年上のマダムに声を掛けられ、怖くて断れず三曲も踊った。社交界で、「お行儀の良いレディ」は自分から男性に声を掛けたりしないのがマナーだ。だから、いきなり誘われて面食らってしまったのもある。
婚約者でもない相手と二曲以上踊れません、なんて言い訳もここでは通用せず、ガッチリ腕を捕まえられて逃げられなかった。後から聞いた話によると、そのマダムは初心【うぶ】な若い男が大好きで、いかにも「夜遊びは初めてです」といった様子の自分が目に留まってしまったらしい。悪友は爆笑するばかりで助けてくれず、散々な夜だった……。
ダンスをしながらそんな話をすれば、スミレの仮面の少女はころころと笑った。
「じゃあ上手なあしらい方を勉強しなきゃね。あそこにいる白蝶貝の仮面の御仁はいつもモテモテだから、きっとスマートな断り方もご存じよ」
「え? あ、あの方は……! あの白髭、もしやファンタール侯爵では……」
「しっ」
少女は人差し指を立て、艶やかな桃色の唇に押し付けた。
「ここでは素性を探らないのが約束よ。知っている人がいても、見て見ぬふりをするのがマナー」
「あ、そ、そうか……。じゃあ、僕みたいな若造が話しかけても……」
「ええ。もしかしたら気前よく一杯おごってくださるかもしれないわね。とっても気さくな方だから」
やがて曲が終わると、少女は「楽しかったわ。ありがとう」と微笑んで離れてしまう。
男性は真面目な性格で、女性が好みそうな話というのも何をすればいいかわからないと悩むたちだ。しかし、会話上手な彼女のおかげで、ダンスの時間なんてあっという間だった。婚約者とだってこんなに和やかに会話したことがない。
離れていく彼女の背に大慌てで手を伸ばす。
「あ、あのっ、良かったらもう一曲……!」
だが、彼女はすぐに現れた別の男性の手を取り、ダンスの輪に戻って行ってしまった。
伸ばした手は虚しく空を切る。周囲にいた男たちはニヤニヤ笑いで男性の肩を叩いた。
「ああ、残念だったな兄ちゃん」
「俺なんて毎夜来ているけど、まだ彼女と踊ったことないぞ。ラッキーだったな」
「あ……、そうなんですか。彼女はいったい……?」
問うてしまってからハッとする。
ここでは素性を探らないのがルールだと聞いたばかりなのに……。
しかし、周囲の男性たちは同情したように笑った。
「さあね。仮面をつけていても、社交界に出入りしているような身分の令嬢なら、なんとなく見当はつきそうなものだけど……」
「彼女に関してはサッパリなんだ。貴族であることに間違いはないんだろうが、該当する令嬢が思い浮かばない」
「しょっちゅうここで見かけるが、身持ちも堅いようなんだ。ダンスは踊るが、他の誘いはキッパリ断っている。ここの常連たちは、レディ・バイオレットの愛称で彼女を呼んでいるよ」
「レディ・バイオレット……」
あのスミレの仮面と薄紫の瞳になぞらえた通称らしい。
「今日こそ、彼女を射止める男は現れるのかね」
「では、私が声を掛けてみることにしましょう」
「ははは。ご武運を」
一夜の恋愛ゲームを楽しむ男たちによって、楽しい賭けの対象であるらしい。
「ま、兄ちゃんも諦めずに別のレディに声を掛けてみな」
「は、はあ……」
背中を叩かれた男性は、呆けた顔をして頷いた。
他のレディと言われても……。
視線は、ダンスの輪の中にいるスミレの仮面を探してしまう。
亜麻色の髪に、薄紫色の瞳。
身長は一般的、年は十代後半。
愛嬌があるのに、どこか凛とした気高さ。
先ほどの男性たちの言う通り、考えても該当する人物はパッと出てこない。彼女はいったいどこの誰なのか。普段は表に出てこないような、うんと高貴な身分の息女なのか?
「ああ、気になる……っ!」
こんな謎を残されたら、きっとまた、近いうちにこのエトランジェへと遊びに来てしまうではないか。
今夜もまた一人、レディ・バイオレットに魅了されてしまった悩める青年が誕生したのだった。
◇◇◇
「これがマリーゴールド。こっちがアネモネ。こっちはサワハコベ」
スペンサー伯爵家の花壇の周囲を散策しながら、リコリスは植物の名前を丁寧に教えた。
太く編まれた亜麻色の髪に、襟元まで詰まった野暮ったいドレス。
ザ・地味な家庭教師という出で立ちのリコリスの後ろをついてくるのは、十二歳と八歳の愛らしい姉妹だ。
「リコリス先生、葉っぱの説明はいらないってばぁ」
「葉っぱじゃないわ。ほら、ここが白くなって花が咲くのよ」
「えー。葉っぱにしか見えなーい」
リコリスの説明に、姉妹はきゃらきゃらと笑い声をあげる。
「もう! 花の名前を教えて欲しいなんて、勉強をサボる口実でしょ? さあ、息抜きはおしまい。戻って詩の朗読の続きをしましょう」
「あーん、うそうそ。そんなことないよぉ」
「そうそう。あっちの葉っぱはなあに? 教えて、リコリス先生」
調子いいんだから、とリコリスは腰に手を当てる。植物に詳しいリコリスに「花の名前を教えて欲しい」と言えば、しばしの間、教本から離れられることを知っているからだ。
――リコリスは、このかわいい姉妹の家庭教師として雇われた中流階級の娘だ。
リコリスの父は大学で植物学の教師をしており、大学に通う貴族との繋がりも多い。父の妹である叔母も、父の学友だったという男爵家へと嫁いでいった。
リコリスが伯爵家に勤めることになったのもこの叔母の紹介があってのことだ。別に働かなくてはいけないほど貧しいわけではないのだが、教師の仕事に魅力を感じて引き受けた。侍女や家庭教師の仕事ならば、それなりの教養のある女性が雇われるため、リコリスにとっても悪い話ではないのだ。
勤め始めて半年。
生徒である二人のお嬢様――十二歳のチェルシーと、八歳のターニャはよく懐いてくれている。十九歳のリコリスも、「先生、先生」と慕われると、年の離れた妹ができたようで嬉しかった。
スペンサー伯爵も夫人も良くしてくれ、使用人たちともすっかり打ち解けた。
だが、ただ一人、この伯爵邸にはリコリスを歓迎していない人物がいる。
「あら、あちらにいるのはオーランドお兄様ではなくて?」
チェルシーの声にギクリとしてしまう。
スペンサー伯爵家の長男・オーランドは、今年二十三歳。
青みがかった短髪に、濃い藍色の瞳は鋭く、冷たささえ感じる。
実際、彼はあまり愛想が良くない。堂々としているという言い方もできるが、他者に対してへりくだったり、親しげな態度を見せたりすることが少ないため、近寄りがたい雰囲気があるのだ。
だが、モテる。
それはもう、びっくりするほどにモテる。
なぜ、リコリスがそんなことを知っているかと言うと、たった今、裏門から入ってきたオーランドの隣には金髪の美女がいて、わざとらしいほどにオーランドにしなだれかかっていたからだ。この間は赤髪の美女だった。さらにその前は……と、毎度毎度連れてくる女性の顔は違っている。
(この遊び人め)
クールな顔をしたチャラ男。
それがリコリスから見たオーランドの評価だ。
リコリスの辛辣な心の内など知らないターニャは、
「お兄様ぁ~!」
元気いっぱいにオーランドの元に駆けて行ってしまう。
「あっ、ターニャったら!」
「お待ちください、ターニャお嬢様!」
チェルシーとリコリスも慌てて後を追う。
オーランドの視線は妹を捉え、そしておさげ髪のリコリスを見て眉根を寄せた。
「ターニャ。今は勉強の時間じゃなかったのか?」
「お勉強の時間よ? リコリスにお花の名前を教えてもらっていたの」
「ふうん。そこの家庭教師の仕事は、草花の名前を覚えさせることだったのか?」
「……申し訳ありません、オーランド様」
オーランドに冷たい目を向けられたリコリスは頭を下げた。
「お兄様っ、リコリス先生をいじめないで!」
「そうよ。わたしたちがお花の名前を教えてって頼んだのよ!」
姉妹は応戦してくれたが、オーランドの視線は冷ややかなままだ。
そこへ、彼に同行していた女が媚びるように笑った。
「うふふっ。可愛らしい妹さんたちですわねぇ。ねえ、オーランド様、立ち話もなんですから、お部屋でゆっくりと妹さんたちの思い出話なんかを聞かせてくださらない?」
「……。ああ、そうだな。行こう」
「では、失礼致しますわね」
女は姉妹には愛想良く、リコリスにはちょっと小馬鹿にしたように笑って去って行く。
女のきつい香水の匂いがその場に残り、姉妹二人は顔を顰めた。
「うえ。香水くさーい」
「お兄様ったら、あんなぶりっこのどこがいいのかしら!」
「久しぶりにお兄様に遊んでもらおうと思ったのに、もう~」
ぷんぷん怒るターニャに、チェルシーが窘める。
「ターニャ、ああいうときは邪魔しちゃだめよ」
「ああいうときって?」