序章
その世界は一度滅びの道を歩みかけた。
魔王と名乗る存在の企みによって。
けれど、それはもう百五十年も前の話。
世界は一度滅びかけ、そして救われた。
『聖女』と呼ばれた王女と、共に歩んだ勇者、その仲間たちによって。
今では物語として語り継がれる、確かに存在した過去のお話。
実際の出来事を元にした救世物語は、グラーフェ伯爵家の娘、エルザ・グラーフェの心を強く掴んだ。
十二歳のエルザは、同じ年頃の少女たちが好む華やかな恋物語よりも、英雄譚を好んだ。剣や魔術を駆使して世界を平和に導く物語にこそ、心を躍らせたのだ。
取り戻したいと願う世界の美しさ、そこに住まう人々の強さと温かさ、勇者たちの冒険と成長と、決して諦めない不屈の心。
すべてに魅了され、紙が擦り切れるまで何度も何度も繰り返し読み耽った。
そんなエルザにとって、紹介されたばかりの婚約者は『過ぎた』相手だった。
「ルーフェン・ベルネットだ。以後よろしく頼む」
どこか不機嫌そうな顔で、一歳年上の少年は紫色の瞳を伏せた。定型文を口にしただけで、心がこもっていないのは明らかだ。
美しい少年だった。少し癖のある蜂蜜色の髪はふんわりとしている。伏せられた瞳は、どこか冷たそうにも見えた。しかし、面立ち自体は、未だ少女めいた可愛らしさを残している。
頬の丸みも、目元の柔らかさも、健康的な色をした唇も。幼さこそ残るものの、人目を惹く美しさだった。
「あ、あの……エルザ・グラーフェと申します……」
彼に見惚れていたエルザは、消え入りそうな声で名乗ると、ぎこちなく頭を下げた。彼女の黒く真っ直ぐな髪が、その肩を流れる。
顔を上げたエルザの碧眼に映るルーフェンは、彼女が名乗ったことで役目は終えたと言わんばかりに、ふんと鼻を鳴らす。
この婚約が彼にとって本意ではない、とエルザはその時点で悟った。
ルーフェンの態度を失礼だとは思わなかった。悲しくも、悔しくもならず、ある種順当とさえ思っていた。
この婚約は、エルザにとって『過ぎた』ものだったから。
ベルネット侯爵家と言えば、陛下の覚えもめでたく、優秀な魔術師を多く輩出した名家である。対して、グラーフェ伯爵家も古くから続く由緒ある家柄だった。
家格で言えばグラーフェ伯爵家の方がやや劣るものの、婚姻を結ぶのに不自然ではなく、むしろ順当と言っても差し支えないだろう。
それでもエルザは、この婚約を自分には『過ぎた』ものだと感じている。
ベルネット侯爵家は、かつて英雄の一人を世に送り出した。
そう、彼はエルザが強く憧れる救世物語の登場人物、ルーフ・ベルネットの子孫にあたる人だ。
だからこそエルザにとって、ルーフェン・ベルネットは『出来過ぎた』婚約者だった。
一章 私の出来過ぎた婚約者
救世物語でエルザが特に強く惹かれたのは、主人公として描かれる勇者でも、この世界に光を取り戻した聖女でもない。ルーフ・ベルネットだった。
今もその名を語り継がれる稀代の魔術師は、十三という若さで救世の旅に同行したらしい。物語の中で、今のエルザと変わらない年齢でありながら、有り余るほどの才と努力で世界を救うその姿に、強い憧れを抱いたのだ。
だからこそ、そんな彼女にとって、ルーフ・ベルネットの生家である魔術師の名門・ベルネット侯爵家自体が、雲の上の存在と言えた。
「ご機嫌麗しゅうございます、ルーフェン様」
「……なんだ、来ていたのか」
緊張気味に挨拶をするエルザに、ルーフェンは素っ気ない。一瞥と共にそれだけを告げると、彼は踵を返して立ち去ってしまった。
その左手には彼の愛用する剣が握られていたので、これから鍛錬にでも向かうのだろう。
ルーフェンはベルネット家の人間だが、彼自身は魔術よりも剣に興味があるようだ。エルザがベルネット家を訪ねると、彼は警備兵に剣を教わっていることが多い。
「ルーフェン! いい加減になさい」
その背中を叱りつけるのは、二人の様子を見守っていたリーゼロッテだ。彼女はルーフェンの三歳年上の姉である。
彼よりも少し淡い色のふわふわの髪に、赤みの強い紫の瞳。国一番の美姫と噂されるリーゼロッテは輝かんばかりに美しく、エルザの憧れだった。
「ごめんなさいね、エルザ。あとでもう一度、きちんと叱っておくわね」
仕様のない子、と彼女はエルザの代わりに腹を立てるように呟く。その後、リーゼロッテに相手をしてもらうのが、ベルネット侯爵家を訪ねた際のお決まりの流れだった。
「叱るだなんてそんな……むしろ、ご不快な思いをさせているようで、申し訳なく思っております」
エルザはルーフェンのことが好きだった。それは、救世物語への憧れが生んだ好意ではあったが、どうしても嫌う気持ちなど生まれそうにない。
婚約者である、という事実に対し無条件の親しみも感じていた。将来良き夫婦となれるよう、良好な関係を築きたい。その努力をしたかった。
「エルザは何も悪くないわ。あの子が拗ねているだけなの」
リーゼロッテはまた一つ、呆れるように溜息を吐いた。
エルザは季節が一巡りするうち、六度ほどベルネット家を訪ねた。
ルーフェンとの交流を深めるためにと父が提案し、ベルネット侯爵がそれに応じたのだが、彼は相変わらずエルザを歓迎することはなかった。
その度にエルザはリーゼロッテと過ごしている。弟しかいないエルザにとって、まるで姉のように接してくれる彼女との時間は、とても楽しいものだった。
少しでもエルザが過ごしやすいように、と配慮してくれることが有り難い。
「ルーフェン様、良ければ共にお茶でも、」
「結構だ」
そんなリーゼロッテから助言を受けながら、何とかルーフェンと交流を図るべくあの手この手で声を掛けても、すべて空振りに終わっている。
その度にリーゼロッテが彼を叱ってくれたが、エルザは彼女が思うほどには、怒りも傷付きもしていなかった。
彼はエルザにとって、あまりに出来過ぎた婚約者だったから。至らぬ自分に対し不服を示されるのも、当然のことだ。
むしろ、リーゼロッテがこんなに良くしてくれることこそが、不思議ですらあり、過分な扱いだと思っている。
そんなルーフェンが、あるとき初めて、何の先触れもなくエルザの家を訪れた。
驚きつつも歓迎したエルザに、応接室へ案内されたルーフェンは、どこか得意げな顔で彼女にある書状を突きつける。
「僕は騎士団に入団する」
その書状には、ルーフェンの王国騎士団への入団を許可する旨が記載されていた。
「僕はルーフ・ベルネットのような魔術師にはならない。残念だったな」
エルザは、何故残念だったな、と言われてしまったのかよく分からなかった。
「? ……それはおめでとうございます」
だから、とりあえず祝辞を述べた。エルザの知る限り、ルーフェンはいつも剣の鍛錬に真面目に取り組んでいた。意気揚々とそれを報告してくれた様子からも、願いが叶ったのだろう、と思った。
「……それだけか?」
「それだけ、とは……?」
ぎょっと驚いた様子のルーフェンの反応の意図が分からず、エルザは戸惑いながら問い返した。
「君は、僕との婚約に不満はないようだった」
「はい。私にはもったいないご縁だと思っております」
「それは僕が、ルーフ・ベルネットの血を引いているからだろう。だから、その…………君は、魔術師であることを望んでいるものと」
エルザが救世物語を好きなことは、彼女の父が婚約の挨拶の際、世間話の調子で口にしていた。
だから、それをルーフェンに知られていることは特に驚きもしないが、先程の発言に繋がった理由がよく分からなかった。
「けれど、ルーフェン様は、魔術よりも剣がお好きなのでしょう?」
それならば魔術師になるよりも、騎士になる方が彼にとって喜ばしいことだろう、とエルザは思う。
もちろんベルネット侯爵が反対しているならば、そう簡単な話ではない。しかし、こうして騎士団への入団が決まったということは、ベルネット侯爵も認めているはずだ。
それならばエルザにできることは、彼の行く道を応援し、許されるならばそれを支えることだけである。
「ルーフェン様の願いが叶ったのなら、とても嬉しく思います」
彼は憧れの物語と繋がりのある人で、自分で選んだ道を掴み取り、努力を尽くせる辛抱強い人だ。エルザはその姿を、ずっと遠くから眺めていた。
そんな、出来過ぎた婚約者であるルーフェンの努力が報われたなら、それはエルザにとっても何よりも喜ばしいことに違いない。
自然と微笑みを浮かべれば、彼は紫色の瞳をまん丸にして、彼女のことをまじまじと見つめる。
いくら婚約者同士とはいえ、年頃の少女へ向けるにはあまりにも不躾に、それでもルーフェンはしばらくエルザのことを見つめ続けた。
「…………エルザ、僕は誤解していたようだ」
どこか呆然とした声で、ルーフェンが呟く。それは彼が初めて、まともにエルザの名前を呼んだ瞬間だった。
「僕はずっと、君に侮られているのだと思っていた。けれど、違ったんだ」
彼の指が、ゆっくりとエルザの頬に触れた。まるで少女のように繊細で美しい容貌の彼の指は、意外なほどに無骨な感触だった。
これが剣を握る人の手なのだ、とエルザは思う。ルーフェンのこれまでの努力が、その手にしっかりと表れている。
「僕が、ずっと君を侮っていたんだ」
すまない、エルザ。
そう謝罪を口にしたルーフェンは、目を細めた。口角を上げ、まるで幼い子どもがはしゃぐように、頬の血色がよくなる。
その日、ルーフェンは初めてエルザの名前を呼び、頬に触れ、そして。
初めて、エルザに笑顔を向けたのだった。