一学期編
一
「タロ」みたいな人と会った。
それが斎藤花の、彼に対する第一印象。
放課後。
花が通っている高校の体育館の裏──嫌いな人を呼び出すか、愛の告白をするには絶好のポイントだ。
そこには壁を背にゼイゼイと荒い息を繰り返す男子と、地面に尻餅をついて呆気に取られている女子がいた。
どちらも同じ高校のブレザーの制服姿で、どちらもタイの色は二年生を表す紺色。緑のタイをつけた一年生の花は、あちゃあと思った。マズい場面に出くわした、と。
ちなみに花がここに来たのは、前にあげたふたつの選択肢のどちらでもない。“ある噂”を聞きつけて、気になってやって来たところだった。
「あの、大丈夫ですか?」
とりあえず花は、へたり込んでいる女子に声をかける。下は土で、制服でのんびり座っていい場所ではない。
「え? あっ、だ、大丈夫よっ!」
他人の視線があることに気づいたようで、二年の女子生徒は立ち上がり、ぱぱっとスカートを払うと、顔を真っ赤にして駆け出してしまった。
体育館裏から、表の世界へと戻っていく後ろ姿。
走って帰れるくらいだから大丈夫だね、と花は心配のいらないその様子に、うんうんと頷いた。
しかし、現場にはもう一人いる。
何があったか知らないが、息を激しく乱し、顔を赤くしたり青くしたりと忙しい男子生徒だ。立っているのが辛くなったのか、ずるずると背中を壁につけたまま、彼はへたり込んでいく。
病気の可能性を考えて、今度は彼に向かって、花は「大丈夫ですか?」と声をかけてみた。
ビクゥッ!!
彼女の声に、男子生徒の身体は一度強く上下に跳ね、そのせいで背中が壁から離れてしまい、ズドンと一気に落ちて尻餅をついた。
ありゃ、と花は動きを止めた。さっきの女生徒と違って、こっちは走って帰る元気はないようだ。
抜き差しならない状況に、無視をしていくわけにもいかず、花は一歩彼の方に踏み出そうとした。
ビクビクッ!
そんな彼女の動きは、男子生徒の身体を激しく震わせる。まるで、猛獣でも近づいてきたかのごとき反応だ。
どこかで見覚えのある反応に、ぴたりと花は足を止めた。
タロみたいだな、と彼女は思った。
クリーム色と黒の毛並みの、雑種の犬。
花は一歩後方に下がって、スカートを手で押さえながら、壁沿いのコンクリートの部分に腰を下ろす。
元気にしてるかなぁ、タロ──花はそんなことを考えながら、彼と同じように壁に背を預け、春の明るい空を見上げた。
斎藤花は、ごく普通の高校生だ、と自分のことを思っている。
学校の規則を破らない程度のスカートの長さと、眉が隠れる程度の黒い前髪。後ろは手入れが面倒なので、肩くらいで揃えている。
先生に睨まれることもなく、かといって優等生というわけでもない。
窓際の席であることをいいことに、授業中に差し込んでくるポカポカ陽気を満喫して、時々グラウンドの方を見たりする。
得意な科目は文系で、苦手な科目は理数系。運動に関しては、歩くのは好きだが、走るのは速くない。球技は好きだけれども、うまいわけでもない。
部活は、帰宅部。学校でやりたいことがないというより、帰ってやることがあった。
この春に無事、公立高校に入学でき、ピカピカの高校一年生になったばかり。
そんな斎藤花は、今日初めて出会った二年生男子と、適切な距離を測ろうとしていた。
少し離れたところで心拍数の上昇に苦しんでいる男子生徒を、ちらりと横目で見る。
茶色い髪は、日当たりの悪い体育館裏でも分かるほど、薄くてキラキラしている。横顔から分かる綺麗な高い鼻と、はっきりした顔立ち。二重でぱちっとした茶色い目は、花からすれば羨ましい限りだ。
おそらくあれは──美少年と呼ばれるものなのだろう。顔立ちが日本人離れしているので、外国の血が入っているのかもしれない。
それが、ますます「タロ」を彷彿とさせた。
柴犬と洋犬の血を感じさせる雑種犬。全体的にはクリーム色で、鼻の周りだけ黒い。耳はピンと立っているが、尻尾はゆるく立てた生クリームみたいな巻き方だ。
和犬というには鼻面が長く顔が濃い目で、洋犬というには地味な印象のある犬。
そんな雑種のタロが、花の家に連れてこられたのは、去年の春のことだった。
元の飼い主のところで三年くらい飼われていたタロは、引越しのタイミングで捨てられ、しばらくして保護された。
近所の人から通報があり、花の父親が保護した時には、タロはすっかり人間不信になっていて、人の姿が見えるだけでブルブル震える哀れな状態だった。
花の父親は獣医である。そして、ボランティアで捨てられた犬猫を一時的に保護するシェルターも運営している。タロの身体にはアザがいくつかあり、追い払うのに石でも投げつけられたのだろうという診断だった。
普段、父は診察で忙しいので、保護された動物は母がメインで世話をしている。花も朝夕の散歩や、餌やりなどの手伝いをしていた。病院の受付兼助手は、獣医見習いの人が来ているので、家族がそちらを手伝うことはない。
シェルターにはいろいろ事情のある犬猫が連れてこられるが、タロはその中でも群を抜く人間不信だった。
声をかけることも近づくことも、タロを怯えさせるだけ。
だから花は去年の春休み中、タロと一緒にいた。
ただ側にいただけ。声もかけず、近づくこともせず、少し広めにとった柵の中に、ただ座り続けた。指先ひとつ動かさず、花はタロが自分から近づいてくるのを、辛抱強く待ち続けたのだ。
長い長い時間の果てに──タロは、そろそろと近づいてきた。
いまの花も、それと同じだった。
呼吸音ひとつ立てることなく、ただ静かに座っている。そこにいる、彼の時間を邪魔してはならない。
彼が落ち着き、周囲を見ることができるようになって、そして彼にとって花が興味をひくようであれば、向こうから勝手に近づいてくる。
ダムダムと、体育館の中で部活の始まった音が聞こえる中、花はずっとそうしていた。
「……」
隣の呼吸音が次第におさまり、彼が頼りなげでありながらも立ち上がるのが分かった。
彼の方を見ることなく、花はそこにいた。
「……」
一歩、向こうに足が踏み出される。帰り道としては不適切な、体育館を遠回りに出て行くコース。
花は、そのまま放置した。
彼は──いなくなった。