1 復讐を誓う者
彼女は泣きながら顔を上げ、気丈にも笑顔を見せてくれた。
その涙に濡れた顔を、俺は永遠に忘れることはないだろう。
「元気で。わたしのこと、忘れていいから」
彼女は涙の滲む顔で俺の手を握り、必死に笑顔を作って、微笑んだ。俺よりも少しだけ小さな彼女の手と身体は、確かに震えていたのに。
「ふっ……」
俺はしゃくり上げながら、その手をぎゅっと握り返す。想いのすべてを込めて。
「あなたがいてくれたから、わたしは今まで頑張ることができたの。ありがとう。……大好きよ。ずっと」
「…………!」
名前を呼びたくても、俺の声は嗚咽に紛れ掠れてしまって言葉にならない。
俺はどうしようもなく子供なのだ。
こんな小さな子供の手では、泣きじゃくることしかできない弱い自分では、彼女を守れなかった。
悔しい。
力のない自分が。子供の自分が。
なんとか涙を堪えて、彼女の顔を見据える。彼女の綺麗な澄んだ水のような青い目が、今は泣き濡れて、まるでウサギのように赤く充血していた。
「本当にありがとう。わたし、頑張るから」
自分が一番不安だろうに、俺を慰めるようにそっと背中を撫でてくれた。
そんな彼女に報いるように、俺は顔を上げた。
「俺は強くなる。誰よりも。誰にも利用されないように。誰も俺に命令できないくらいに、強くなる」
だから、どうか、待っていてくれ。
情けなくも、彼女に負けないくらい泣いていたせいで伝えたい気持ちが、言葉が上手く届かない。
彼女は俺を抱きしめると、
「大好きよ」
と、もう一度囁いた。
御者に促され、彼女は頷くと馬車に乗り込んだ。
これから彼女は王都へ行く。大貴族であるドレッセンド公爵の側室となるために。
王都は遠い。まして貴族の側室となれば、滅多なことでは外に出ることさえ叶わないだろう。これが、永遠の別れになるかもしれないのに、彼女を見送るのは俺一人だった。
誰にも気にされない、空気のような存在。
彼女はよく自分のことをそう揶揄っていた。
御者が馬に鞭をくれる。ゆっくりと馬車は動き始め、俺と彼女の間に距離を作った。
「ありがとう。元気でね……元気で……」
馬車の小窓から顔を出し、懸命に手を振る彼女は、もう泣いてはいなかった。気丈にも、微笑みを浮かべて、俺に別れの言葉を幾度と幾度も投げかけてくれた。
彼女は自分の運命をとっくに受け入れている。
受け入れられていないのは、俺の方だ。
どんどん小さくなる馬車が完全に見えなくなるまで、俺はその場所を動かなかった。
これが彼女との永遠の別れだなんて信じない。
必ず、彼女を迎えに行く。
だから、どうか……。
俺は誓う。
彼女の後ろ姿に。
赤くなった瞳に。
儚い笑顔に。
「俺は、強くなる。誰よりも」
呟きは、俺以外の誰にも認識されることはなく、虚空に溶けて消えていった。
2 孤独に喘ぐ者
旦那様は、今日も嫌々私を抱く。
「んっ……はぁ……」
太く硬い肉の槍が、背後から無遠慮に私の腹の中を抉る。
ズンズンと子宮の入り口に響く衝撃は、男女の交わりで得られる、痺れるような快感を強制的に私にもたらした。
「あんっ……旦那様……旦那様……」
「はぁ……ミリィ……ミリアリア……」
背後から私の腰を強く掴んで、うわ言のように女の名を口にしながら、旦那様はまるで私を罰するように激しく腰を打ちつける。
時々、旦那様の動きが鈍くなり、腰から腕が外れる気配がするが、私はそれを気にかける余裕などない。
ただ、敏感な身体の内側に容赦なく打ちつけられる肉の衝撃に身を震わせ、喘ぐことしかできないから。
「くっ……」
旦那様の硬い肉の感触と、くぐもった快楽に溶けた声は、私にほんのわずかな悦びを与えてくれた。
旦那様が、私の身体で快楽を得ているのだ。
深く、そして浅く。時に激しく、時に緩やかに。
何度も穿たれて、私の身体は限界まで翻弄されている。
旦那様も果てが近いのか、私を翻弄する腰の動きに余裕がなくなっていった。
強く指が肌に埋まり、吐く息が荒くなる。
ばちゅんばちゅんと、聞くに堪えない粘ついた水音が薄暗い閨の中に響いていた。
はしたなく喘ぎながらも、私の頭の一部は妙に冷えていて、その卑猥な音をなんの感慨もなくまるで他人事のように聞いている。
「くっ! イクぞ……ミリィ……イクぞ!」
旦那様は一方的に宣言すると、より一層激しく腰を振り、そして私の膣内で果てた。
腹の奥がじんわり温かくなり、旦那様の新鮮な子種が膣内に放たれたのをぼんやりと感じる。
私の背中に覆いかぶさったまま旦那様はしばらく荒い息を吐いていたが、徐々に行為の熱が冷めてきたのか、ため息と共に身を起こし、私に背を向ける。
その身体には汗がまだ滴っていて、旦那様の煌めく見事な金髪も湿ってその白い首に一房張りついていた。
私からは見えない鮮やかな碧の瞳は、きっと苛立たしげに細められているのだろう。
初夜の時のように。
旦那様は、サイドテーブルの上に用意してあった洗い晒しのリネンで互いの体液に汚れたご自身を無言で拭い、情事の後始末をするともう一度大きくため息をついた。
「旦那様……お召し物を……」
「いや。いい」
風邪を引いてはいけないと勇気を振り絞って声をかけたが、素っ気なく返されて私は口をつぐんだ。
いつものことだ。
旦那様は私とできるだけ関わりたくないのだ。
身じろぎした拍子に、膣口から旦那様の子種が溢れてきた。
ぬるりとした不愉快な感触に眉を寄せ、それを緩慢な動作で始末する私を気にかけることもなく、旦那様はそそくさと脱ぎ捨てられていた部屋着を身につけると、
「……リコリス。明日も来る」
私の顔も見ず、小さな声で言い残して、静かに扉を潜っていった。
「はい。お待ちしています……」
もう届かないと分かっていても、私はその背中に向かって応えた。
旦那様との行為に愛はない。
ただ、義務としての性交。
私は月に数度、こうして旦那様に抱かれるためだけに、ここにいる。
旦那様の気配が完全に消えるのを待って、湯を浴びるために身体を起こす。すると、何気なく左手を着いた先にシーツとは違う手触りの布の感触があった。
反射的にそれを掴んで顔の前に持ってくる。そして次の瞬間、私は悲鳴をあげてそれを床に放り投げた。
「なにこれ……!」
ソレは、純白の絹で作られた女性用の下着だった。しかも、明らかに使用済みの。
艶やかな光沢と繊細なレースで縁取られた、上品な下着。
明らかに高価なソレは、高貴な女性が身につけるに相応しい品物だ。
私の閨に落ちているのだから、側から見たら誰もが私のものだと思うだろう。
だか、その下着は絶対に私のものではない。
私の閨に出入りできるのは、世話係としてつけられた老メイドと旦那様だけ。
メイドが洗濯前の下着を……しかも、使用済みの下着を、主人である私の寝室に持ち込むはずがない。
そうなると、必然的にソレをここに持ち込んだ人物は一人に絞られる。
旦那様だ。
そして、犯人が分かれば、下着の本来の持ち主も必然的に判明する。使用済みの下着なんてものを、私の閨に持ち込んだその理由も。
旦那様はおそらく……ソレを使って己を奮い勃たせていたのだろう。
最愛の妻である「ミリアリア」の下着を使って。
今まで気がつかなかったが、ずっと旦那様は私では「その気」にならなかったのだ。
旦那様は、愛しいミリアリアの力を借りて、私との夜を迎えていた……。
「……馬鹿みたい」
少しは私のことも好ましく思ってくれているのかもしれない……そんな希望は、あっさりと打ち砕かれた。
最初からわかっていたはずだ。
私は旦那様に愛されてはいないし、これからも愛されることはないのだと。
分かってはいるから、悲しむ必要はない。屈辱を感じる必要もない。
だが虚しい。
私が旦那様に必要とされているのは、健康な胎だけなのだ。
※
私の名前はリコリス・ハークランド。
一年前、建国の王の末裔の一つである、ドレッセンド公爵サルバドール・ドレッセンドに側室として嫁いだ。
この国の貴族の常識として、はっきり明文化されてこそいないが、結婚後三年以上経っても子がない場合は側室を娶らなくてはならない。
旦那様の正式な妻は、私の従姉妹であるハークランド伯爵令嬢だったミリアリア・ハークランドだ。
二人は政略結婚で結ばれた夫婦だけれど、めでたいことに結婚後、愛が生まれた幸福な夫婦だった。
夫婦仲は非常によく、その仲睦まじさは社交界でも有名で、これなら子供を授かるのも時間の問題だろうと思われていた。
だが、予想に反して、一年経っても、二年経っても、ミリアリアが懐妊することはなかった。
二人の仲は依然としてよく、夫婦生活も問題なくあったというのに。
少しずつ周囲は焦り始めた。
そんな二人の結婚生活が三年目も終わりそうな頃、私は実質的な一族の長であるミリアリアの祖父……私の祖父でもある、ダグラス・ハークランドに呼び出されたのだ。