気づきは、突然だった。
(えええ、これ誰……?)
朝、自室の鏡を覗き込みながら、エメリー・モルガン侯爵令嬢は口をぽかんと開けた。しかし自分に問いかけながら、すぐに首を横に振った。
(誰っていうか、私はエメリーじゃない……十八歳、モルガン侯爵家の次女なのよね)
自分が誰か、が分からないわけではない。だが彼女を今襲っているのは、強烈な違和感。ぱちぱちと瞬きをしてから、改めて鏡の中の自分をしげしげと眺める。
(こんなピンク色の髪なんて、アニメキャラじゃなきゃありえないでしょ!?)
そう、強烈な違和感は、自身の容姿がいわゆる“アニメキャラ”のようないでたちだと気づいたからだった。
瞳の色は透き通った薄い茶色。白い肌に、つんと上を向いた鼻に、ふっくらした唇。顔立ちは整っていると思うが、“普通”ではないのは、いわゆる西洋風の顔立ちであること、それから腰まで伸びたくるくるにカールしている薄いピンク色の髪だった。
困惑して首を傾げると、鏡の中の自分も首を傾げた。やはりこれは自分なのだ。そこでエメリーは、自分の身体をさっと見下ろした。
それこそアニメや漫画、映画でしか見たことがない、お姫様のようなフリルのついたドレスを着ている。しかもドレスは髪と同じく可愛らしいピンク色で、どう考えても“普通”ではない。
「“普通”ってなんだろう」
ぽつりと呟く。
それから自分のドレスの裾をつまんで、広げてみた。
「綺麗なドレスだけどこんなにフリルがついてなんだかコスプレみたいだよね……コスプレって何!?」
今まで知らなかったはずの言葉がどんどん脳裏に浮かんでは消えていく。
「……なんなのぉぉぉ!?」
エメリーの叫び声が、一人きりの自室で大きく響き渡ったのだった。
☆
それから一週間後。
あれからエメリーは何事もなかったかのように暮らしていた。
あの朝、唐突に自分はどうやら何らかの世界に“転生”したらしい、という結論に至った。しかも以前は二十一世紀の日本で暮らしていたというところまでは思い出した。
大きな問題は――エメリーが転生したのが一体どんな世界なのか、というのが分からないことだった。もちろん自分がこうした“なんちゃって西洋風”の世界にまぎれ込んでいるから、いわゆる異世界と呼ばれる世界線なのだろう。
いわゆる文学作品や、某サイトに連載されていた異世界転生の小説を始め、小説以外にも漫画も幅広く読んでいたから、そこに描かれている世界線に非常に似ているのは分かった。そうした世界線のどこかに転生したと確信に近いものを持ったが、ここで大きな問題が発生した。
自分が転生したのがどんな物語なのかが見当もつかない、ということだ。
まず「エメリー・モルガン」という名前に覚えがない。
それはそれで自身はモブキャラなのだ、と結論づけた。だが次に、国名から結びつけようとも、自分が今住んでいるルイナール王国という国名は初めて聞いた。
要するに、まったくのお手上げ状態なのである。
そうしてしばらくは混乱していたものの、モルガン侯爵家令嬢として生まれ育った記憶もしっかりあるため、日常生活には困ることはなかった。
エメリーはモルガン侯爵家の次女として生まれた。跡取りである四歳上の兄と二歳上の姉がいて、両親も優しく何不自由ない暮らしをしていた。
家を継ぐ必要もないため、年頃にふさわしい婚約者を見つけ、結婚するのがエメリーに求められていることだ。そのために家庭教師もつけられて、淑女教育を受けている。十八歳の年になって社交界にデビューして、それからどこかの貴族に見初められるか、もしくはその前に両親が婚約者を見つけるか、そのどちらかだろう。
両親は跡継ぎである兄のマシューに関しては慎重で、まだ婚約者を見つけてはいない。だが今年二十歳になる姉のジュリアンにはすでに婚約者がいて、来年結婚する。姉と同い年の貴族子息で、最初は家同士の関係から選ばれた婚約者ではあったが、二人は今ではとても仲睦まじい。
そんなわけで両親の目下の興味は、エメリーの婚約者選びだ。だから両親は頻繁にエメリーを貴族たちのお茶会に連れていく。貴族たちの集まりにまだ社交界デビューをしていない年齢の子供たちを伴い、家同士の関係や本人たちの相性によって、内々に婚約を結ぶのはごく一般的だ。
そんなわけでエメリーは、ごく普通の、ごく一般的な貴族令嬢として何不自由ない暮らしをしている。
(まぁとりあえず困らないなら、どんな世界線に転生していても関係ないか)
最終的にエメリーはそう結論づけた。
さてその日。
知り合いのモーパッサン侯爵家に向かう馬車の中で父がエメリーに話しかけた。
「エメリー、今日はシリルが来ているはずだぞ」
今日も今日とて、可愛らしいピンク色のドレスに身を包んだエメリーはにっこりと微笑む。
「まぁ、シリルが?」
(シリル……、確かベネット侯爵家の……次男だったわね)
そこまで思い出すと、次々とシリルの情報が脳裏に浮かんできた。
シリルは母方のいとこである。母の妹の子供で、エメリーより一歳年下。ただ生まれ月の関係で、社交界デビューは同じタイミングになるはずだ。
(ああ、すぐに思い出せないのは困るな)
エメリーは転生したと気づいた日から、記憶にバグが起きている。そもそも転生前の自分が日本に生まれ育ったのは確かだが、そこでの自分という人間の記憶は一切ない。名前、容姿、家族や友人、生まれ育った場所、正確な時代。どれほど思い出そうとしても、まったくの空白なのだ。しばらくしてエメリーは転生前の自分について思い出すのを諦めた。
そして“今”の世界に関しても、記憶の回線があやふやな箇所がある。例えば、絶対に知っているはずのことがすぐに思い出すことができない。すべてがちぐはぐなのだ。今だって、シリルの名前は知っているのに、彼の人となりや容姿、彼との記憶を思い出すことができない。
だがそこで、ふっと一人の少年の姿がエメリーの脳裏をよぎった。
(あ……髪の色は綺麗な水色、かな?)
「ああ。シリルはしばらく領地に行っていたから、会うのは久しぶりだろう。最後に会ったのは半年くらい前だったかな?」
だがそこで父に話しかけられ、少年の残像は跡形もなく消えてしまった。
「そうね。今から会えるのが楽しみだわ」
父との会話に齟齬をきたさないように気をつけながら、エメリーは頷いた。
それから両親が二人で世間話を始めたので、エメリーは馬車の窓から外を眺めた。なんとかシリルの姿を思い出そうと努力したが、難しかった。
(うーん、駄目だわ。いとこってことはたくさん思い出があるはずのに。……でもきっと、他の方と同じように会ったときになんとかなるはずね)
先週も、お茶会で遭遇した貴族子息に関しても、会うまで名前と容姿があやふやだった。けれど直接会ってしまえばどうしてか怒濤のように記憶が湧き出てきて、すべてが一致したのだった。
(でもシリル・ベネット……うーん、どこかで聞いたことがあるような名前だな。どこで見たんだったかな)
なんだか思い出せそうで、しかしどうしても思い出せない。
(まぁいとこだし、よくある名前といえば、よくあるものだから……気のせいかな)
一人思索に耽るエメリーのそばで、両親が意味ありげな視線をさっと交わしていたことには気づかなかった。
「久しぶり、エメリー」
モーパッサン侯爵家の庭園にて、いとこのシリル・ベネットが微笑んだ。
(うそ……!?)
ばちん、とまるで何かが小さく爆発したかのような衝撃を受け、エメリーは立ちすくんだ。そんなエメリーに向かって、シリルが小さく首を傾げる。さらりと、グレーとも水色にも思えるシリルだけの色の前髪が揺れる。
「どうしたの、エメリー?」
「……っ」
エメリーはごくりと小さく唾を飲み込んだ。
シリルに返事をするのを忘れるほど、彼女はともすれば勝手にぶるぶると震えそうになる身体をなんとか抑えることに必死だった。
(やだ……シリル・ベネット……シリル・ベネットじゃないの! 私どうして気づかなかったのかしら……!)
次から次に、色々な情景が脳裏を駆け巡る。
それはほとんどがモノクロの静止画であり、それもそのはず。
(これ、『王太子の護衛騎士が、自分の運命でした』の世界だわ……!)
ようやくエメリーは自分がどんな世界線に転生したのかを知った。
『王太子の護衛騎士が、自分の運命でした』――転生前のエメリーが大好きだった、異世界を舞台にした――『BL漫画』の世界だった。
物語は、タイトル通りと言ってしまえばいいのだが、王太子の護衛騎士である攻が、ある時知り合いの貴族宅で開かれた狩りに誘われて赴くと、侯爵子息である受に出会い、たちまち恋に落ちる。
(狩りっていうのがまたよかったのよね)
だが王太子その人も護衛騎士に執着しており、立場的に弱い受を徹底的に排除しようとする。あわや悲恋になるのかと思いきや、運命に翻弄される受を攻が守り抜くといういわゆる王道溺愛ファンタジー漫画だ。
息をつくほどもないほどのめくるめく事件と、スーパー攻め様と読者に呼ばれた攻が生み出す、甘すぎるほど甘い世界観でとてつもなく大人気だった。
(そうか、私、腐女子だったのね……)
しみじみとエメリーはひとり思った。
(国名はでも違ったような気がするな。なんだったかな……)
「エメリー、大丈夫かい?」
目の前でシリルが声をあげたので、エメリーの意識はそちらに戻った。
シリルの華麗さに改めてエメリーは悶絶した。少年に向けて華麗などという言葉を使うのは妙なのかもしれないが、これがしかし彼にはしっくりくる。
(シリル……! これがあの、シリル……!)
エメリーが悶絶するのには理由がある。
この少年とも少女とも言い表せられるような美貌のシリルこそ――メインカップルの受、なのである。
(こ、これが、スーパー攻め様、チェスターが愛した……!)
シリルの登場は、エメリーの混濁した記憶を瞬時に引き寄せてしまうほどの、凄まじい力があった。
(と、と、尊い……! まさか動いているシリルに会えるなんて……!)