もう何番煎じのことか分からないけれど、婚約破棄される悪役令嬢に転生してしまった。
その事実に気付いたのは、五歳のとき婚約を結ぶために訪れた王城で見目麗しい王太子、ユリウス王子と対面した際のことだ。なんだかよくある転生ものみたいね、なんてことを内心で思って、それから自身の思考に疑問を抱いて、一気にいろんなことを思い出した。
わたくしは、リリーナ・ペデルスキュイ。ペデルスキュイ侯爵家の長女である。なんとも発音しにくいと思ってしまうのは前世のせいだろう。リリーナという名前も、明らかに悪役令嬢っぽい。いや、偏見かもしれないけれど。
この話の原作がゲームだったのか小説だったのか漫画だったのかはもう、記憶が朧気で覚えていない。けれども話の大筋はなんとなく思い出すことができた。確か、リリーナは政略的な意味合いで王太子と婚約を結ぶのだけれど、ふたりが婚約して十二年後――十七歳のときに、ふたりが通う王立学園に転入生が来るのだ。バスキュミラー公爵家の、その昔行方不明になってしまっていた長女、ナタリアが。彼女は三歳のころ誘拐されて庶民として生活をしていたのだけれど、公爵家の必死の捜索でやっと見つかったという、これまたよくある経緯の話だ。幼いころを市井で過ごした彼女の天真爛漫さは、ユリウス王子を含めて学園の人々を虜にする。
突然現れた自分より上の身分の公爵家の長女。自身の婚約者はそんな彼女に明らかに惹かれている。その事実に嫉妬に狂ったリリーナは、ナタリアに様々な嫌がらせをする。結果その目論見はすべて露呈し、しかもリリーナの実家も婚約者の地位をナタリアに奪われるのではないかと彼女を害そうとして失敗し――リリーナは婚約を破棄され、実家は取り潰し。処刑されてしまうという、本当によくあるパターンの話である。
よくあると言ったって、わが身に降りかかるとなれば話は別だ。いくらなんでも死にたくはない。ユリウス王子と対面し微笑みながら、わたくしはどうしたらいいのかをあれこれと考える。
婚約を結ばないことは、多分無理だった。今わたくしの隣でにこにこと笑みを浮かべている父親は、王家と縁を結ぶことに必死だ。今日ここに来るまでも、散々に粗相をするなと強く言い聞かされてきた。なんとしてでも王太子に気に入られろ、と。それに王太子側も、貴族派の筆頭であるわが侯爵家と縁を結ぶことである程度その動きを制限したい――あわよくば尻尾を掴みたいという、そういう思惑があるようだった。両家共に思惑があり納得してのものだったから、婚約が結ばれることはほぼ決定だ。わたくしが今ここでごねたところで、どうにもならないだろう。
わたくしより二つ上のユリウス王子は優しく穏やかな方で、初めての顔合わせの日は終始わたくしを気遣ってくれた。悪役令嬢のリリーナは顔合わせの日に王太子に一目惚れしたらしかったけれど、仕方がないことだろうと思える。リリーナは侯爵家でまったく愛を与えられず、政略の道具のようにして育てられていた。美しい王子様から初めての優しさを受けて、好きにならないことなんて難しい。王子の優しさがリリーナを利用するためだけのものだとわたくしは分かっていたはずなのに、それでも好きになってしまうくらいには、リリーナは愛のない世界で生きていた。
ユリウス王子のことを好きになってしまった。けれども彼との婚約は、きっと将来破棄されるだろう。そのときにわたくしが殺されないようにするためには、一体どうしたらいいだろうか。
ストーリー通りに行けば、婚約破棄されるのはわたくしが十七のとき。それまでにはしばらくの猶予がある。だからわたくしは、来るべき婚約破棄に向けて準備をすることにした。
まず、ナタリアの居場所を突き止めてそれとなく公爵家に情報を流した。彼女が幼いころ奴隷になるべくして育てられていて、そこから逃げ出してとある酒場の夫婦に引き取られたという経緯は、何度か過去が語られる中で読んで知っていた。奴隷商の居場所をこっそりと突き留め、公爵家に匿名で情報を流せば、その組織が壊滅したというニュースと、それとは別に公爵家の長女の居場所が見つかったというニュースが新聞に載った。公爵家の娘が奴隷にされそうだったという情報は外聞があまりにも悪いから、そこが関連付けられないように情報統制がされたのだろう。
「ねえ、リリーナ」
何度目かのユリウス様との逢瀬――というか王城での面会なのだけれど――の際に、優しい笑みを浮かべた王子は持っていた紅茶のカップをソーサーに置いてわたくしの名前を呼んだ。
「はい、なんでしょうか」
「バスキュミラー公爵家の娘が見つかったっていう話は聞いた?」
「ええ、うかがいました。とても喜ばしいことですね」
「リリーナもそう思うの?」
そう尋ねるユリウス様は笑顔を浮かべているけれど、その瞳の奥の思考は読めない。わたくしはこくりと頷いて、ユリウス様をまっすぐに見つめた。
「もちろん。わたくしと歳が同じなのですよね。誘拐なんて、恐ろしいですもの」
「そう。御父上は何か話していた?」
「えっと――ああ」
ユリウス様の思惑がなんとなく察せられて、わたくしはひとつ頷いた。そう言えばいろんな意味でわたくしの親はこの事件に対して騒いでいた。
「もしかして、ユリウス様はナタリア様と婚約されるのですか?」
「え?」
表情を変えることなくそう言えば、珍しくユリウス様は微笑み以外の表情を浮かべてわたくしのことを見つめてきた。そう、彼女が見つかったことで、本来であれば彼女が学園に入学してから生まれる「侯爵家令嬢を切り捨て公爵家と縁を結び直すのでは」という懸念が、今現在わたくしの実家に渦巻いているのである。
「父が、そんな話をしていました」
「……リリーナは、それを聞いてどう思ったの?」
「そうなるなら、仕方がないことなのかな、と」
ユリウス様のことは好きだ。でも、彼と結ばれるのはわたくしではない。そうと知っているから、婚約の破棄が今になったとて仕方がないことだと思う。
「……そう」
呟いたユリウス様の声がどこかいつもとトーンが違って、わたくしは「ユリウス様?」と首を傾げて彼の名前を呼んだ。わたくしの声に反応して、彼は俯いていた顔を上げてにっこりといつもの笑みを浮かべる。
「……なんの咎もないのに、すでに結ばれた婚約を破棄するなんてことはしないよ」
それは、咎が見つかれば破棄するということなのでしょうか、と。そう思ったけれど、さすがにそれを口にすることはない。
どうやらわたくしはまだユリウス様のお傍にいられるようだった。それが嬉しくて、頬を綻ばせて笑う。ユリウス様がほんの少しその瞳を見開かれたのがどうしてなのか、わたくしには分からなかった。
侯爵家では王宮での教育に先駆けて、理想的な王太子妃になるように厳しく教育を受けた。できなければ強く詰られ、食事を抜かれ、屋根裏に閉じ込められた。王城の面々にわたくしへの所業がバレないようにするためか、体罰だけは与えられることはなかった。
原作のリリーナは家族に反抗したり、教育に対する鬱憤を侍女やメイドにぶつけていたようだったけれど、わたくしはそうすることはしなかった。身の丈に合わない教育内容は正直つらいものだったけれど、いつか解放されるものだと自身に言い聞かせていた。前世の知識のおかげで補える分野も、多少なりともあったから。
厳しい教育を施す反面、家族はわたくしには無関心だったから、授業のない日に何をしていようと関与しないところがあった。わたくしは信頼している侍女と街へと出かけ、ギルドに通い、伝手を作った。そのギルドのおかげでナタリアを見つけることができたのだ。その過程で、本来ナタリアが奴隷商から逃げ出した後に引き取られるはずの酒場の夫婦とも顔見知りになった。わたくしはそこで、ユリウス様以外からも愛を受けることになった。
酒場で働いて過ごしていた原作のナタリアは、侯爵家でぜいたくな暮らしをしていたリリーナよりよっぽど幸せだったのではないかと思ってしまうくらいの優しい夫婦だった。わたくしの正体を知らないながらもなにか訳ありと察しているだろうに、とても親切にしてくれた。婚約破棄されたらここで過ごすことができないだろうかと思うくらいには。
けれどどんな状況で婚約が破棄されるのかはわたくしには分からないから、ギルドを通して修道院の目星もつけていた。男子禁制の、戒律の厳しい辺境の地だ。一度入ったらもう出られないとまで言われている。ギルドのマスターは修道院を探しているわたくしに「子どもだろ? なんで好き好んでこんなところ」と言っていたけれど、厳しいところの方が、婚約破棄後にも王家に対して何も企んでいませんというアピールになるだろうという思いからだった。修道院がいくら厳しくたっていい、きっと今の実家での扱いよりは、よっぽどマシだろう。婚約破棄された後も何かに利用されるかもしれないと怯えながら暮らすくらいなら、いっそ修道院から出られない方がいくらもマシだった。
「リリーナ」
「はい、なんでしょうか」
「王子妃教育は進んでる? つらいことはない?」
ユリウス様の言葉に、ほんの少しだけ身構える。正直つらいことばかりだったけれど、それは彼に伝えることではない。ゆるゆると首を横に振って、「問題ありません」とだけ答える。
「……そう」
ユリウス様の返事には少しだけ間があった。十二歳になった彼は、少年と青年の狭間の美しさを身に纏っていた。婚約から五年が経ち、わたくしたちふたりのお茶会という名の逢瀬は定期的に続いている。優しく美しい王子のことを、わたくしはどんどん好きになってしまっていた。
正規のストーリーでは婚約破棄まであと七年ある。まだ七年もあると、彼との残り時間に安堵するべきなのか、もっと大きく育ちかねないこの想いに怯えるべきか、わたくしには分からない。
「リリーナ、好きだよ」
いつからかこうしてユリウス様はわたくしへの好意を口にするようになった。わざわざそんなことをしてまでわたくしのことを繋ぎとめようとしてくれなくてもいいのにと思いつつ、そう告げられるたびにわたくしの心の奥は歓喜でざわめく。彼にとってはこの言葉はなんの想いもない政略の一部でしかないと、分かっているのに。