校舎の窓から見下ろせる中庭に植えられた美しい花々の中を、ひとりの男子生徒が歩いていた。方角を鑑みるに移動教室に向かう途中なのだろうか、その秀麗なかんばせは周囲の色とりどりの花に一切の興味を向けることがなく、ただ真っ直ぐに前を向いている。
そんな彼の後ろから駆け寄ってくるひとりの女子生徒の姿が見えた。ピンクブロンドの髪を靡かせ、そのかわいらしい表情を緩めて満面の笑みで話しかけてくる彼女に、男子生徒の視線がふっと向かう。ほんの僅かに細められる目には、一体どんな感情が込められているのだろう。遠目からでは、その瞳に浮かぶ色を覗き見ることはできない。
「あれ、放っておいていいの?」
不意に話しかけられた私は窓の外から視線を戻し、私の後ろで隠そうともせずあからさまにふたりのことをじっと見つめている級友に微笑みかけた。
「いいのよ。止める権利なんて私にはないわ」
「何言ってるの、あるに決まってるじゃない! 貴方の婚約者とそれにちょっかいをかける身の程知らずよ?」
不快感を顕【あらわ】にする彼女は鋭い視線を私に向けて、「ステラ」と私のことを睨みつける。
「どうして放っておくの? 貴方たち、仲睦まじい婚約者同士だって周りみんなが言うくらいに仲が良いっていうのに……あんな女に割って入られて、黙ってる理由なんてないでしょう?」
「そうね。……でもそれは……」
――偽りだから。
そこまでは口にすることなく、私は曖昧に笑う。苛立った様子の彼女は深く溜息を吐いて「またあのふたりに口出しするなって言うんでしょう?」と言うのに、小さく頷き返した。
彼女も、そのほかの級友たちも。みな私と彼の関係を心配してくれている。彼女たちからは、婚約者同士であるはずの私たちの間に入ってこようとするあのピンクブロンドの髪の令嬢をどうにかしたほうがいいのではないかと何度も言われていて、けれど私はその度に「大丈夫だから」と断っていた。
「私は……カーティス様がどうなさるのか、見守っていたいの」
そう彼に判断を委ねるような発言をしつつも、私は自分の婚約者との関係が終わりに近づいていることを半ば確信していた。
周囲が言う私と彼の〝仲睦まじい〟関係は、どこまでも見せかけの、偽りの関係に過ぎないのだから。
「僕の両親、仲がいいでしょう?」
彼がそう私に話しかけてきたのは、彼が六つ、私が七つのとき、歳が程近い子供たちを集めて行われた茶会の場でのことだった。それは単なる茶会というよりも、幼い貴族の令嬢、令息を集めた見合い――主に親たちの思惑による――といった側面の方が強いものではあったけれど。
当時から幼いながらに美しかった彼は、茶会に集まった少女たちの羨望の眼差しを一身に受けていた。彼の金の髪は陽の光を受けて輝き、翡翠の瞳は母が身につけている宝石よりもよっぽど美しく、まるで少女たちの間で流行っている物語に出てくる王子様のようだった。もちろん彼の他にも令息たちはたくさんいたし、当時の私も会話を交わしていたはずだけれど、彼以外の少年たちの印象はほとんど覚えていない。
可愛らしい女の子たちの幼気【いたいけ】なアプローチを全てさらりと受け流していた彼がどうしてあのとき私に自ら話しかけてきたのか、私には今でも分からない。声をかけられて振り返った先にいた彼の美しさに、例に漏れずしばらく見惚れてしまった私は突然のことに驚きつつも、「こんにちは」となんとか辿々【たどたど】しく挨拶を返したことを覚えている。
「こんにちは。君の名前は?」
「ステラと申します。バルド伯爵家の長女です」
「そう。僕はカーティス。ハイドリヒ公爵家の長男だよ」
存じ上げております、とは言わなかった。幼心にも、下手なことを言って彼に悪い印象を持ってもらいたくないと思っていたからだ。私は黙ってぺこりと会釈を返して、彼の視線を追ってその先を見た。先ほど彼が話題に出した彼の両親であるハイドリヒ公爵と公爵夫人が、仲睦まじ気に話している。今日のこの会を主催したふたりだ。
「周りからはおしどり夫婦だって言われてるみたい」
「とても素敵だと思います」
カーティス様の言葉にこくりと頷く。幼い私でも、ハイドリヒ公爵夫妻の仲睦まじさが貴族社会において珍しいことだと理解していた。貴族の結婚は家と家とを繋ぐもので、ただ気の向くままに恋愛をすることとは違う。もちろん中にはお互い好き合っている夫婦もいるけれど、ハイドリヒ公爵夫妻ほど誰が見ても互いに愛し合っているとわかる夫婦はそう多くはなかった。
「ああいう結婚を、僕もしたいんだ」
カーティス様がぽつりと小さな声で呟いた。私が思わず公爵夫妻から視線を外して彼の顔を覗き見れば、彼はまっすぐに自分の両親のことを見つめていた。互いに見つめ合い、微笑みを交わし、誰が見たとて愛し合っているとひと目でわかる、そんなふたりを。
「……それなら、私とするのはいかがでしょうか」
当時の私のその言葉は、魔が差したと、その一言に尽きるだろう。彼が見つめる先のふたりのような関係に、私も彼となってみたいと……そのときの私はふと、そんなふうに思ってしまった。
自身の両親へと向いていた彼の視線が私に移る。見開かれた翡翠の瞳には驚きの色が乗っていた。それは至極当然の反応だった。さして知らない女に世間話の一環として家族の話をしただけだというのに、突然想い合う結婚をしませんかなんてプロポーズまがいのことを言われたら驚くに決まっている。
私は一瞬で告げた言葉を後悔した。下手なことを言って悪印象を持たれたくないと、先ほどそう思ったばかりだというのに。勢いで余計なことを言ってしまった。きっと彼にはおかしな女だと思われてしまっただろう。ここまではっきり言ってしまったら、今更もう誤魔化しようがなかった。
「……君が、僕と?」
「あ……ええっと、ごめんなさい。いきなり変なこと言って……」
「ううん。……本当にいいの?」
そう尋ねられて、逆に私の方が驚きに目を見開く。私を見つめる彼は、私の突拍子もない告白を悪いようには捉えていないようだった。いいの、なんて……そんなこと、むしろ私が聞きたいくらいだった。
「カーティス様こそ良いのですか?」
「君が……ステラがそれで良いなら」
驚くべきことにカーティス様はあっさりとそう言って私の提案を受け入れた。
「僕も君と、思い合う結婚がしたいよ」
そう言って美しく微笑んだカーティス様は、彼の言葉を信じられずにいた私の手をさっと掴んで、そのまますぐに彼の両親の所へと真っ直ぐに向かっていった。私の手を優しく引っ張る彼の手が私よりも大きく、そのあたたかさにどきりとしたことを覚えている。
私と婚約を結びたいと、カーティス様はその場でご両親にお伝えになった。驚く私の両親と、逆に不思議なほど落ち着いた表情を浮かべていた公爵夫妻に反して、どうにかしてカーティス様とそのご両親との伝手【つて】を作ろうとしていたのであろう令嬢やその親たちからの視線は随分と刺々しいものだったけれど、突然結ばれたカーティス様との婚約に対して高揚する当時の私にとっては、周囲の反応などさして気にならないことだった。
こうして私とカーティス様はあっという間に、ちょっとしたきっかけだけで将来を共にする婚約者という関係になった。私の不躾な提案で結ばれた婚約であるにもかかわらず、カーティス様は私にとても優しくしてくれた。私の邸にも何度も来てくれたし、逆に公爵邸に招きもしてくれたし、外でデートをすることだってたくさんあった。そんな私たちは、周囲からは随分と仲睦まじい関係に見えていると思う。
「カーティス様」
「ステラ、来てくれてありがとう」
私がいつ公爵邸を訪れても、カーティス様は笑顔で出迎えてくれる。いつもは彼が伯爵家まで馬車で迎えに来てくれるのだけれど、そればかりは申し訳ないと私が告げ、今日のように時折直接彼の邸に向かうようにもしていた。
「ステラさん、いらっしゃい」
そう言って客間に通された私に笑顔を向けてくれるのは、カーティス様の母親である公爵夫人だ。年齢を重ねてもその美しさに少しの翳りもなく、顔を合わせるたびに美しいひとだとしみじみと思う。と言ってもカーティス様のことをかなりお若い頃にお産みになったようで、実際の年齢も若い……と聞いている。彼女は見た目ももちろんのこと、それ以上に所作も言葉遣いもとても美しい。私は公爵夫人と顔を合わせるたびに、憧れを抱くと同時に将来カーティス様に嫁いだとして果たして私はこんなふうになることができるのだろうかと、不安にも思うのだ。
「カーティスに困ったことはされていない?」
「母上」
「い、いいえ! カーティス様はいつも私に優しくしてくれていますわ。むしろ私が彼を困らせていないかと思うくらいです」
慌てて首を横に振りながら私は夫人の質問に答える。公爵夫人は私と顔を合わせるたびにこうしてカーティス様との関係について心配して尋ねてくれる。カーティス様は私の前でいついかなるときも優しく、本当に困っていることなど何ひとつとしてないから、夫人の毎度の質問を不思議に思いながらも私は彼の名誉のためにも毎度夫人の言葉を否定していた。
「僕だって、ステラに困っていることなんて何もないよ」
カーティス様はそう言って私に優しく微笑んでくださる。嬉しくなって顔を綻ばせれば、公爵夫人は見つめ合う私たちを交互に見て「それならよかったわ」と首を傾げて微笑みを浮かべた。