憧れのおふたりとの出会い
憧れている人がいます。さらさらのシルバーの髪にアメジストの色をした切れ長な瞳、文官だというのに程よく鍛え上げられて均整の取れた身体、低く鋭く正論を述べる声。私が誰よりも憧れるクロン・ダリアー様は、思い出すだけでどきどきしてしまうような、そんな方です。
私……シュリア・モルドレがそんな彼の双子のお姉様であるベローチェ様とお話ししたのは、本当にたまたまの出来事がきっかけでした。
「ちょっと! やめなさい」
夜会の最中にバルコニーから聞こえてきた女性の声に、私ははっとして振り返りました。夜会をそれなりに楽しみ、少し喧騒に疲れてしまいひと気のないバルコニー近くを通りがかっただけだったのですが、どうやらどなたかが外で揉めているようです。仲裁に入ってもらおうと思い近くの使用人を探して声をかけようとして、やっぱり、と思いとどまりました。もしこれが痴情のもつれだったりした場合、私が使用人に知らせたことで騎士が呼ばれ、騒ぎにつられて人が大勢集まって……というふうに大ごとになって不特定多数の方にいざこざがあったことが知られてしまうと、男女共に……特に女性側にとってあまりよくなかったりするからです。
「無礼よ、立ち去りなさい」
「少しお話をしたいと言ってるだけじゃないですか」
社交界の華というだけあって気高いのですね、とどこか揶揄するように答える声に、私はぴくりと身体を揺らしました。
社交界の華――今この場でそんなふうに形容される人は、ひとりしかいません。私が憧れるクロン・ダリアー様の双子のお姉様である、ベローチェ様です。クロン様と同様の銀の髪にアメジストの瞳をしたベローチェ様は、少し前に王弟殿下との婚約を正式に結ばれた方です。地位と美貌と品位を兼ね備えた彼女は、周囲から社交界の華と呼ばれていました。
そんな彼女に声をかけるなんて恐れ知らずなことだと内心で戦きます。けれど――そういえば今日の夜会の主催は、ベローチェ様のご実家である、ダリアー侯爵家と対抗する派閥だった気がします。彼女の経歴に傷をつけようとか……もしかして、そんなことを考えているのでしょうか。
「人を呼ぶわよ」
「別にかまいませんが、お呼びになって、男とふたりでバルコニーにいたと知られて困るのはそちらでは?」
聞こえてきた男性の声に、やっぱり思っていた通りなのかもしれないと私はひとりで目を瞬きました。男性の方は、ご自身が王弟殿下の婚約者に言い寄ったと周囲に知られても問題ないと思っているようです。どう考えたってそんなことはありえないと思うのですが、ベローチェ様の敵対派閥のどなたかにそそのかされたのでしょうか。
ひとまず他の方が気づいて大きな騒ぎにならないように、さりげなくバルコニーの入り口に陣取りました。もしこの夜会自体が彼女を追いこむためのものだとすると、使用人も共謀者かもしれないので、そちらに助けを求めるのもまずい気がします。この場を離れ、会場のどこかにいらっしゃるであろう王弟殿下かクロン様かに助けを求めに行くという時間もなさそうです。
他を頼ることができないのなら、私にできることはひとつしかありません。緊張に震える手をぎゅっと握って、なけなしの勇気をかき集めました。
「大ごとにしたくないのなら、このまま俺と――」
「あら、先客がいらっしゃいましたか?」
意を決した私は手に持っていたシャンパンのグラスを半分ほど呷って、酔っ払っているふりをしてバルコニーに足を踏み入れました。突然の乱入者に驚いたのでしょう、その場にいたふたりともがぱっと私の方を見ます。わあ、ベローチェ様、改めて拝見すると、やっぱりとても美しいです。
私はベローチェ様の顔を見てさっと彼女の方へ駆け寄りました。恐れ多いことですが、不躾に彼女の手を取り、入り口に向かって引っ張ります。
「まあ、よかった、ベローチェ様! こんなところにいらっしゃったのですね。クロン様がお探しでしたわよ」
「え、ええ、ありがとう」
私のことなど知らないでしょうに、優しく応対してくださるベローチェ様は、見た目の美しさだけではなく、内面もとても素敵な方です。私の登場にあっけにとられていた様子のご令息が、ベローチェ様を引き連れてバルコニーから出ようとする私を見て慌てて「おい!」と声を荒らげます。
「誰だお前は……! 彼女は今俺と話していたんだぞ!」
「まあ、貴方様とのお話が、クロン様とのそれよりも重要だと?」
誰かに見られる前にさっさとこのバルコニーから退出したかった私は、足を止めずに振り返って眉を顰めました。
「私、マナー違反をした貴方のことを見ていましたわ。そのようなお方のお話が大切なものだとは思えませんの。もしご用事があるなら、こんな場所ではなくて、今から王弟殿下とクロン様の前で直接お話しになればいかがでしょう」
小首を傾げてそう言うと、ご令息はぐっと唇を噛んで黙りました。言い返す言葉が考えつかなかったようです。激昂して向かってくるような人ではなくてよかったと内心ほっとしつつも、私は表情を変えないように意識してベローチェ様をひと気の多いホールの元へと誘導しました。
「あ……ありがとう、どなたか存じ上げませんけど助かりましたわ」
「モルドレ子爵家のシュリアと申します。ご無事でよかったですわ。どうぞお気をつけて」
憧れの人のお姉様……というよりベローチェ様自身も社交界では憧れの存在ですから、話しているとすごくどきどきしてしまいます。ぺこりと頭を下げて立ち去ろうとしたら、「待って」と呼び止められました。まだ何かあったかしらと、私は振り返って首を傾げます。
「どうかなさいましたか?」
「せめて何かお礼をさせて。できる範囲のことでなら何でも叶えますから」
「えっ? いえ、かまいません。お気になさらず」
そう言ってお断りしようとしましたけれど、ベローチェ様は義理堅く「駄目です、受け取っていただかないと」と首を横に振られました。
「でも……」
「この場で思いつかないのであれば、貴方のご実家を後日訪問しましょうか?」
その言葉に私は慌てて首を横に振りました。しがない子爵家の屋敷に、ベローチェ様にわざわざ来ていただくなんて恐れ多すぎます。
ここで私がお礼を思いつかなければ、きっと彼女は今の言葉を実行するでしょう。そう思った私の中に、ふっとひとつの欲が浮かびました。何でも――と、クロン様のお姉様に言われて、誘惑に抗うことなんて、きっと無理なことだったのです。
「――それなら……」
続く私の望みを聞いたベローチェ様のアメジストの瞳が、大きく見開かれるのが見えました。
「あのときは、てっきりクロンを紹介してほしいって言われるのかと思ってたわ」
「まさかそんな、恐れ多いです。あ、いえ、今のこの状況もとても恐れ多いんですが……!」
目の前にいるベローチェ様に向かってそう言うと、彼女はおかしそうに笑いました。口元に手を当てて微笑む姿が美しくて、思わずぼうっと見惚れてしまいます。
「だって貴方、あいつに憧れているなんて言うんだもの」
「だ、だってそれは本当のことですし……そのことを隠したままベローチェ様とお近づきになるのも、いけないことですから」
そう俯いて呟く私にベローチェ様が「ほら、背中が曲がっているわよ」と声をかけます。私は慌てて背筋を伸ばして「はい!」と答えました。
「けどまさか、お礼っていうのが一度でいいから作法を教えてほしい、なんてものだとはね」
くすくすと笑いながらそうおっしゃるベローチェ様に、私は頬を赤くします。
「その……クロン様にもそうなのですけど、ベローチェ様にもとっても憧れているんです。だから、ベローチェ様みたいに凛とした態度を取れるようになりたい……というか、少しでも教えていただけたらって。もう少し、自分に自信が持てるようになりたいんです」
作法を教えてほしいと言った私をベローチェ様は快く受け入れてくださって、しかもあの夜会から数日経った今日、屋敷へ招待してくださいました。とても恐れ多いことです。私は自分の屋敷にお招きするか、どこか外でお会いすることを提案したのですが、「うちが一番落ち着くの」と言われてしまったら、もう何も言えません。子爵家の屋敷で侯爵家以上の落ち着きを提供できるとは思えませんし、確かに外という衆人環視の中で長時間過ごすことは、常日頃から注目されているベローチェ様からすれば煩わしいことでしょうから。
「でも基本的なマナーは身についているじゃない。少し自信がなさそうになってしまうのはよくないけど、十分美しいと思うわよ」
「お、恐れ多いです……」
「どちらかというと化粧とかドレスとかをもう少し考えてもいいんじゃないかしら。こちらにいらっしゃい」
そう言って颯爽と立ち上がったベローチェ様に慌ててついていきます。そのまま彼女のドレスをたくさん着せてもらったり、化粧の方法を教えてもらったりしました。私に合う色とか、ドレスの形とか……そういう諸々のことは初めて知ることが多く、とても勉強になりました。
そんなふうにして過ごしていたら、侍女のうちのひとりがベローチェ様のところまで来て何かを囁きました。他にご予定があるのかと思って慌てた私に、ベローチェ様は「大丈夫よ」と笑います。
「クロンが屋敷に帰ってきたみたい。せっかくだから会う?」
「え、えっ? そんな、恐れ多いです。あ、でも屋敷にお邪魔しているのですからご挨拶をした方がいいですか……?」
「別にそんなに気を遣う必要はないわ。シュリアが会いたいか、会いたくないかで答えてくれたら」
ベローチェ様のアメジストの瞳にじっと見つめられると、とてもどきどきしてしまいます。ベローチェ様でこんなふうになってしまうのに、クロン様に会うなんて考えられません。それにベローチェ様とこうしてお話しして、彼女みたいな素晴らしい方を見慣れているであろうクロン様の前に出ることが、余計に恥ずかしく思えてしまいました。
「そ、それならお断りしていただけると……」
「ふふ、そう? 勿体ないと思わないの?」
「夜会でクロン様のお姿を見ることはできるので……」
それで十分です、と。そう答えた私にベローチェ様はくすくすと笑い、侍女に「挨拶は不要だと伝えておいて」とおっしゃいました。
それから、化粧の講座もドレスの合わせも一通りが終わってふたりでお茶を飲んでいたら、また侍女の方がやってこられました。一言二言話をされたベローチェ様は、なんだか意味ありげな視線を私に向けます。
「えっと……? どうかされましたか?」
「クロンが今からここに来るそうよ」
「え、えっ!?」