プロローグ おまじない――いや、むしろ呪いでは?
「――つまり、今のお相手に嫌われているから結婚したくない、もっといい出会いがないか占ってほしい、ということでしょうか?」
紫のベルベットがテーブルクロスがわりにかけられたテーブルの向こう。
テーブルの真ん中に鎮座する水晶玉に手をかざしながら、真っ黒ローブの不審者――自称「フォーマルハウト王国一の魔女」が口にした言葉に、スピカは真剣な表情で頷いた。
「はい。子供じみた願いだとはわかっています。ですが、私、少しでも愛のある結婚がしたいのです」
「少しでいいんですか?」
「はい。少しでかまわないのです」
夫に恋などできなくていい。政略結婚にそこまでの贅沢を望めないのはわかっている。
――それに、恋ならもうしたもの……一度で充分よ。
遠くやさしい記憶が胸をよぎり、知らず口元に笑みが浮かぶ。
けれど、美しい思い出を大切にしまいなおすようにそっと胸を押さえると、スピカは言葉を続けた。
「女として愛してくださらなくても、互いに人として労りあえるような、やさしい関係になれればそれでよいのです。……本当に、それだけで……」
噛みしめるように告げ、小さな溜め息をひとつこぼす。
――そんなことさえ、リゲル殿下には望めないでしょうから……。
スピカは心の中で呟きながら、頬にかかる鮮やかな赤毛を指で払い、そっと睫毛を伏せて新緑の瞳を覆い隠す。
そうして、ここに来るまでの長い道のりを思い返した。
***
公爵家の一人娘であるスピカが、この国――フォーマルハウト王国の王太子であるリゲルの后候補となったのは十年前の秋。
リゲルが九つ、スピカが八つのときだ。
王宮に彼とつりあう年頃の令嬢が集められ、八人が候補として選ばれた。
それから、候補はそろって王太子妃教育を受けはじめたのだが、その厳しさに耐えかね、あるいはリゲル本人や国王から「君はもういい」と見切りをつけられて、一人、また一人と脱落していった。
十年という長い月日の間には、第三王子の誕生という吉報や、王妃が世を去る悲報、それなりに色々なことがあった。
そして、現在。
候補を決める期限――リゲルの二十歳の誕生日を前にして、残っているのはスピカを含めて三人。
十年前から今日まで、彼は誰を王太子妃にするのか、したいのかさえ、一度も明言したことはない。
けれど、ここしばらくの間、ずっとスピカは思っていた。
次に候補から弾かれるとしたら、きっと私だわ――と。
いくら成績が良くても、他の二人の候補者と違い、当の結婚相手であるリゲルに嫌われているのだから。
面と向かって「君では嫌だ」と言われたことはないが、態度でわかる。
――だって、一度も笑顔を向けてくださったことがないのだもの……。
初めてリゲルと引き合わされた日。
白金の髪に澄んだ空色の瞳を持つ美しい少年を前にして、スピカの小さな胸は高鳴った。
けれど、その高鳴りは恋の蕾になる前に、彼の冷たい態度に打ち砕かれた。
リゲルは、まじまじとスピカの顔をながめた後、真っ赤な髪に視線を移すやいなやグッと顔をしかめ、「燃えるような赤だな。目が焼けそうだ」と呟いて、プイッとそっぽを向いてしまったのだ。
どうやら、赤毛がお気にめさなかったらしい。
この国では透き通るような金の髪や神秘的な黒髪が魅力的とされ、赤毛の女は好まれないから。
――好きでこの色に生まれたわけではないのに……。
生まれながらの髪色を否定され、スピカは小さな両手で頭を隠しながら「もうしわけありません」と謝り、涙があふれそうになるのを必死にこらえたものだ。
それから十年。
リゲルはスピカに笑顔を見せるどころか、まともに視線も合わせてくれない。
人目があるところでは素っ気ないながらも話をしてくれるが、二人きりになった途端、話しかけても返事すらしてもらえないことも珍しくない。
その上、近ごろは夜会へのエスコートもしてもらえなくなった。
以前は公平を期するため、リゲルは夜会ごとに違う候補者をエスコートしていた。
だから、スピカにも機会が回ってきていたのだが、昨年、候補者が三人に絞られて以降、一度も順番が回ってこなくなった。
――そこまで露骨に差をつけるほどお嫌いなら、もう解放してくださればいいのに……。
何度そう思ったことか。
いっそこちらから身を引きたいところだが、父に何度「候補を辞退したい」と言っても、「もう少し我慢して頑張ってみなさい」とたしなめられるだけで、どうしても許してもらえない。
夜会のたびに、人々の嘲笑や同情の視線に晒され、二人の候補と代わる代わるに踊るリゲルを作り笑顔で見つめながら、いつもその場から逃げだしたくてたまらなかった。
王太子妃候補であるスピカを、王太子をさしおいてダンスに誘おうとする者などいない。
ポツンと一人取り残されて、涙がこみ上げてくるのを何度こらえたことだろう。
そんなときにリゲルと目が合うこともあったが、決まって彼は煩わしげに眉をひそめて顔を背けた。
拒絶されているのに解放もしてもらえない。
どうしようもなく虚しく惨めな日々に、ほとほとスピカは疲れ果てていた。
――ああ。もういっそ、すべてを捨てて修道院にでも入ってしまおうかしら。
そんなことまで思いはじめた、ある秋の日のこと。
屋敷のメイドたちが階段下で楽しそうに語る、とある噂を耳にしたのだ。
「ねえ、聞いた? 『フォーマルハウト王国一の魔女』の話!」
「ああ、あのパン屋の裏にあるショボイ占い小屋の?」
「小屋はしょぼいけど、当たるらしいわよ?」
「ホントにぃ~?」
「うん。おまじないもよく効くって! ほら、スカラリーメイドのアンに恋人ができたでしょう? あれ、魔女のおまじないのおかげらしいわよ? 運命の人に会えますようにって、お願いしたんだってさ!」
「へぇ~、ホントなら私もいっちょお願いしようかなぁ~?」
「いいんじゃない? 最高に幸せな縁を結んでくれるって話だもの!」
笑いまじりに交わされる、他愛のない噂話。
信憑性も何もない。魔女などいるはずがない。アンに恋人ができたのだって、きっと彼女の魅力によるものだ。
そう思い、そっとその場を離れながらも、その翌日にはスピカは馬車に乗りこみ、噂の占い小屋へと向かっていた。
最高に幸せな縁を結んでくれる――という言葉に、一縷の望みをかけて。
占いの館――いや、館と呼ぶには無理があるだろう――占いの小屋があったのは王都の外れにあるパン屋の裏庭だった。
日差しのまばゆさに夏の名残を感じる、秋晴れの空の下。
どこから見てもただの古ぼけた納屋にしか見えない、小さな木造平屋の前に立ったとき。
スピカは「本当にここなのかしら……」と思わず辺りを見回して、同じように小屋の前でキョロキョロしていた女性と目が合った。
あ、と互いに視線をそらして、気まずい沈黙が流れる。
「……あー、なんだか今日はもういいかなぁ……私、別に悩んでいないしぃ」
先客らしき女性は後れ毛を撫でつけながら、スピカの方に歩いてくると、すれ違いざまにそんな台詞を残して遠ざかっていった。
――絶対悩んでいるわよね、あの感じは……。
大丈夫だろうかと案じつつ、スピカは小屋に視線を戻すと、大きくひとつ深呼吸をしてから、覚悟を決めて古ぼけた木の扉を叩いた。
「……どうぞ、お入りください」
返ってきた声に扉をひらいた途端、四方に紫色の天幕を張った怪しげな空間が現れる。
そして部屋の奥から、黒いローブのフードを目深に被った自称魔女が、キラリと輝く水晶玉に手をかざしながら、ニヤリと笑いかけてきた。
「……ようこそ。今日、あなたが来るのはわかっていましたよ」
確信に満ちた言葉に、スピカはハッと息を呑む。
――まさか、本物の魔女なの……!?
ゴクリと喉を鳴らし、畏怖をこめて見つめるスピカの様子に、魔女は満足そうに頷く。
そして怪しげな笑みを深めると、思わせぶりにスピカを手招きして、誑かすような声音で囁いた。
「さあ、こちらへどうぞ……メアリー様」と。
一瞬の間を置いて、スピカはそっと答えた。
「……スピカです」
「えっ……あ、もしかしてご予約外の方ですか!?」
「はい」
「うわっ、ごめんなさい!」
変だなぁ、とぼやきながらローブのポケットからメモを取りだし、ペラペラとめくる自称魔女の素の声は意外に若い。
真っ黒なローブのフードを目深に被っているので鼻から下しか見えないがスピカと同じくらい、いや、もっと幼いような印象を受ける。
十二、三歳くらいだろうか。
――頑張って声まで作って、魔女らしくふるまってみたかったのかしら?
なんとも可愛らしいことだ。
先ほどまでの緊張もとけ、スピカは微笑を浮かべると、やさしく自称魔女に話しかけた。
「小屋の外で『今日はいいかな』と言って帰られた方がいらしたので、そちらがメアリーさんだったのではないかしら?」
「えっ、ええー、無断キャンセルは困るんですけど!」
自称魔女は頭を抱えて叫んでから、はああ、と肩を落として溜め息をついた。
けれど、すぐに気を取り直したように背すじを伸ばし、スピカに向き直るとニコッと白い歯を見せて――。
「まあ、おかげであなたのようなやさしいお嬢様に会えたわけなので、よしとしましょう!さあ、お嬢様、何にお悩みですか?」
カラリと明るく尋ねてきて、今に至るというわけだった。
***
「……そうですか。お貴族様って働かなくってよくていいなぁと思っていたんですが、他の部分で大変なんですねぇ」
スピカのささやかだが切実な願いを聞きおえた自称魔女は、しみじみと呟いたかと思うと、グッと拳を握り締めた。
「……よし! わかりました、おまかせください!」
力強く叫ぶなり、自称魔女はテーブルの下に手を入れ、ごそごそと探って一本の指揮棒らしきものを取りだした。
白い指揮棒の先には、星形のピンク色のガラスがついている。
「……あの、それはいったい?」
「おまじないステッキです!」
「おまじないステッキ」
「はい! これをひとふりするとあら不思議、素敵なおまじないがかかっちゃいます! さあ、かけますよぉ~!」
元気よくそう宣言すると、自称魔女はおまじないステッキを高く掲げて、くるりと回し、「きらきらりーん! えーい!」とスピカに向かって振り下ろす。
そして――。
ステッキの先の星がチカリと輝いたと思うと、ピンク色の光が爆発するように膨れあがり、スピカを包みこんだ。
「――っ」
視界がまばゆいピンクに埋めつくされる。
両手で顔を覆っても、目蓋の裏にピンクがあふれる。
そして、次の瞬間には幻のように光が引いていき、元の通りの視界に戻った。
「……あの、魔女さん。今のは……?」
「おまじないです!」
おそるおそる尋ねたスピカに、自称魔女――いや、魔女はニコリと笑いかける。
「どのような、おまじないなのですか?」
「あなたを好きな男の人がわかるおまじないです!」
「えっ、ど、どうやってわかるのですか!?」
息を呑み、身を乗りだすようにして問うと、魔女は腰に手を当てて胸を張り、自慢げに答えた。
「あなたへの異性としての好意が強ければ強いほど、その人の服が透けて見えます!」
「え?」
「名付けて、『彼の気持ちを丸見えに☆』もしくは『剥きだしの心を見せつけて☆』大作戦です!」
「えっ?」
「効果は、あなたが想い想われる人と結ばれるまで! これで相思相愛、運命の人ゲット間違いなしですよ!」
「ええええっ!?」
そんな予想外のおまじない――いや、むしろ呪いでは?――をかけられたスピカは令嬢にあるまじき悲鳴を上げたのだった。