第一話 今日、貴方を忘れます
「卒業したら君と結婚する。だから、卒業の日まで恋をする事を許して欲しい」
私の最愛の婚約者は、とても辛そうな顔をして私に告げた。
私との結婚が不幸の始まりみたいな顔ね。本当に愛してるのは彼女なんでしょう?
それでも国の為に、この国に住まう民の為に、自分達の愛を犠牲にして、貴方は私との結婚を選んだ。
まるで私が二人を引き裂く悪者みたいね。いいのよ。そんな苦しそうな顔しないで。
いいの――。私から解放してあげるから。だからそんな悲しそうな顔しないで。
貴方が辛いと私も辛い。だから、愛する人を諦めなくていいわ。私が貴方を諦めるから。だから貴方は、幸せになって。
愛する人と、どうかお幸せに――。
◇◇◇◇
「……んっ、……あぁっ、あん! マシュー様!」
「マリア……っ、マリア! 愛してる!」
ソファが激しく軋む音、お互いの吐息と肌を打つ音、そして、愛を囁き合う声が部屋の中から聞こえる。
学園の王族専用サロンの扉の前で、私は立ち尽くしていた──
最終学年に進級し、最初の生徒会の仕事である入学式の進行について、最終確認を殿下にお願いしようと放課後サロンに来たけど――来なければ良かった。
ああ……、二人はついに一線を越えてしまったのね。
私は公爵令嬢で、この国――バーデン王国王太子であるマシュー様の婚約者。婚約したのは七歳の時。初めての顔合わせで、私の一目惚れだった。
キラキラと陽の光を反射して艶めく銀髪に、透き通った蒼い瞳。
とても綺麗な顔立ちをした王子様。
殿下は私の手を握って王宮庭園に連れて行ってくれた。そして言ってくれたの。
『僕、この前のお茶会でセイラを見かけてからずっと会いたかったんだ。ありがとう。婚約者になってくれて。これからよろしくね。セイラ』
『はい。よろしくお願いします。第一王子殿下』
『殿下じゃなくて、マシューって名前で呼んで』
『マ……マシュー様』
『本当に可愛い。セイラ。大好きだよ』
優しい笑顔に私の目は釘付けになった。
貴方がそう言うから、ずっと好きでいた。
十年間、よそ見したことなどなかった。ずっと貴方だけを見てきた。
でも貴方は、違う人を愛してしまった――
誰もいない廊下を一人で歩く。
夕焼けのオレンジ色の光が辺りを照らしていて、それがとても綺麗で、切なくて──
「セイラ!」
ふいに呼ばれた声に振り返る。
そこにいたのは、もう一人の幼馴染のジュリアン様。
「ジュリアン様……?」
そんなに息を切らして、どうしたのだろう。何か緊急の用件だろうか?
「セイラ……」
振り返った私を見て、ジュリアン様の顔が悲しそうに歪む。そして私に近づき、頬に触れて何かを拭った。
「……サロンに行ったのか」
ビクッと肩を揺らした事で、肯定してしまった。
私にこの質問をするということは、ジュリアン様も二人のことを知っているのだ。その事が、やっぱり先ほどのでき事が嘘でも夢でもなく、現実なのだと私に告げる。
「泣くなら……ちゃんと泣け。俺が誰にも見られないように顔隠してやるから」
――え?
「私……泣いて……?」
言われて自分の頬に触れてみる。すると、涙で頬全体が濡れていた。
「あれ……?」
だって……私は殿下の恋を応援するって決めたの。殿下を愛してるから、幸せになってほしくて。
もう、あんな辛い顔してほしくなくて。自分の人生を犠牲にしてほしくなくて。
――だから私が身を引くって決めたの。
なのに涙は次から次へと流れて、止まらなくて、胸が苦しくて息がうまく吸えない。
「ふっ、……うぅっ」
「セイラ」
ジュリアン様が私の頭を抱きしめて、顔を隠してくれる。
「これで誰にも見えない」
優しい声が頭上に降ってきて、私は堰を切ったように泣いた───。
「ありがとう――ジュリアン様」
そして、ごめんなさい。
弱い私を、許して───。
◇◇◇◇
「ケイト、今日はもういいわ。ありがとう」
「わかりました。おやすみなさいませ。お嬢様」
「おやすみ」
早めに侍女を部屋から出して、机の引き出しを開けて小瓶を取り出す。今日の為に用意した、魔女の毒薬。北の森に住む魔女の薬剤店に行って、記憶を消す毒を買った。
――最愛の人を忘れる毒を。
殿下の恋を応援する気持ちは嘘じゃない。本当に彼を愛してるから、幸せになってほしい。
彼の幸せの邪魔をしたくない。私が彼の足枷になるなんて、そんなの耐えられない。
卒業したら彼女と別れて私と結婚すると貴方は言ったけれど、ごめんなさい。
私は、他の人を愛する貴方と結婚できません。
私のことはもういいから、殿下には真に愛する人と結ばれて欲しい。だってきっと、卒業しても貴方は彼女を忘れることはできないもの。
私が二人の間に立つ障害である限り、愛し合う二人は心で繋がり続けるのだ。
そんな貴方と結婚して、国王と王妃になっても彼女を愛する貴方を側で見続けるなんて、私には無理です。もう、限界なんです――
だからどうか、忘れさせてください。
貴方達の愛を壊さないかわりに、貴方を忘れさせてください。
共に過ごした十年を、なかったことにさせてください。
「さようなら、殿下。どうか愛する人とお幸せに」
第二話 彼女の中から僕が消えた
僕には、七歳の時からの婚約者がいる。
初めて彼女を見たのは年の近い貴族の子供を集めたお茶会で、側近候補であるネイビス侯爵家次男のジュリアンと一緒にいたセイラを見て、僕は目が釘付けになった。
薄紫色の長い髪に、アメジストのような宝石眼を持った小さな少女。その妖精のような容姿に他の令息たちも見惚れているのがわかった。
立ち振る舞いから一目で高位貴族の令嬢だとわかる。でもその高貴な印象とは似つかわしくない無邪気な笑顔。
ジュリアンと親しいのか、彼の隣で完全に気を許し、ビュッフェメニューのケーキを食べながら幸せそうに笑うセイラを見て、僕は彼女に一目惚れしたんだ。
そのお茶会の後すぐに、国王である父にセイラを婚約者にしたいとお願いした。
だって僕はすぐにわかったんだ。ジュリアンもセイラの事が好きなのだと。
あまり笑わないジュリアンが、セイラを見て優しい顔で笑っていた。
五歳くらいから彼と一緒にいるけど、そんな笑顔一度も見たことない。
だから、ジュリアンに取られる前にセイラを僕の婚約者にした。
婚約者になったセイラはやっぱりとても可愛くて、僕が好きだと言うと、いつも顔を真っ赤にして「私もです」って言うんだ。それがまた可愛くて、嬉しくて、抱きしめちゃったりして。
母上に「貴方達にはまだ早いです」ってよく引き離された。でもセイラにいつも触れていたいんだ。毎日抱きしめたい。それくらい、大好きだったんだ。
でも妃教育と同時に、僕も王太子教育が始まって、お互い忙しくなってセイラと会う時間が減ってしまった。
あまりの指導の厳しさに、最初の頃は泣いてるセイラを慰めたりして、お互い支え合って勉強を頑張っていたけど、いつしかセイラは教師達に絶賛されるほどの令嬢になっていた。
彼女が死に物狂いで努力していたのは知っている。僕の隣に立つのに恥ずかしくない自分になりたいと、セイラが貴族令嬢の仮面ではない、心からの笑顔でそう言ってくれたから、僕も彼女に相応しい男でありたいと、努力しつづけたんだ。
そうやって、十年の時を一緒に過ごして、僕はそれが当たり前になってしまったんだろう。
君が隣にいることに慣れ過ぎて、君の大切さを見失ってしまったんだ。
いつも隣で僕に愛を伝えてくれるから、それが当たり前で、永遠に変わらないと思っていた。
君の愛は、生涯僕だけに捧げられるのだと、根拠もなく思い込んでいたんだ。
それがどんなに傲慢か気づきもしないで、僕は新しい刺激に夢中になった。
学園の入学式で出会った男爵令嬢に、僕は惹かれてしまった。
セイラとは違う、人懐っこい笑顔にくるくる変わるその表情。貴族特有の腹芸など一切なくて、素直に自分の感情を、言葉でも態度でも相手に伝える。
そんな純粋なマリアが可愛くて可愛くて、僕は好きになってしまった。セイラを嫌いになったわけじゃない。ただ僕が、マリアに二度目の恋をしてしまっただけだ。
セイラとの婚約を解消するつもりなんてなかった。僕の希望で叶った婚約だったけど、王家と公爵家の政略的な意味も持っているから親も反対しなかった。
セイラと結婚する事は僕の中では決定事項だ。ただ、卒業したらもうマリアと会えないと思うと、とても辛かった。
「すまない、マリア。僕はこの国の王太子だ。そして婚約者がいる。セイラは幼い頃より厳しい妃教育を受けて、王妃になるために育てられた。この国で彼女ほど王妃に相応しい女性はいないんだ。だから婚約を白紙に戻すことはできない。君との仲は、卒業までとなる」
僕の言葉に、マリアは涙を浮かべて悲し気に笑う。その笑顔に胸が張り裂けそうなほどの痛みを覚えた。彼女が愛しくて仕方ないのに、僕の立場がそれを許さない。
「――いいんです。私のような身分の低い者が殿下と釣り合わないことはわかっています。でも、卒業の日で終わりを迎えるとわかっていても、もう引き返せないほどマシュー様のことを愛してしまいました。どうかその終わりの時まで、お側に置いてもらえませんか?」
溜まっていた涙が彼女の頬を濡らした。
「マリア……っ」
僕はたまらず彼女を抱きしめ、その涙を唇で吸い取る。そして、その悲しみで震える唇を塞いだ。
――期間限定の恋。とても切なく、甘く、そして背徳感という刺激に僕らは燃え上がってしまった。初めて触れた彼女の唇は甘く、最初は触れ合うだけのものから、次第に深まって舌と舌を絡め合わせた。
角度を変えるたびに彼女の口から洩れる甘い喘ぎが、僕の劣情を煽る。
マリアが可愛くて仕方ない。触れたくて仕方ない。
その心も体も欲しくて欲しくて仕方ない。
この後ろ暗く、もどかしい状況をどうにかしたかった。
これ以上、自分の気持ちを抑えるのが辛かった。
そんな状況に堪らなくなって――だから僕は、セイラにお願いしたんだ。
卒業の日まで、マリアと恋する事を許してほしいと。
卒業したらセイラと絶対に結婚するからと。
セイラは困ったように笑って、ただ一言。
「承知しました」
──と、小さく呟いた。
僕のこの時の選択がどれだけ彼女を傷つけたのか、期間限定の切ない恋に酔いしれていた僕は、気づきもしなかった。
それから僕は箍が外れたようにマリアと二人で過ごした。
想い合っている男女が二人で会えば、どうしたって体に触れたくなる。
マリアと一線を越えるのに、そんなに時間はかからなかった。
マリアを抱くたびに切なさが募る。気持ちよくて、愛しくて、僕は完全にマリアの体に溺れて周りのことが見えていなかった。