1:いつもの階段
名札なき者は不審者と思え。
それは入社後まもなく、先輩から教わった言葉。必ず名札を付けましょう、という社内ルールを、社員の皆はできる限り守っている。なので私も先輩たちに倣い、首には紐付きの吊り下げ名札。社名と所属部署と名前の記入されたカード――ごく普通の名刺用紙に社内のプリンターで印刷されたもの――が挟まっているこの名札が、社内では必須のアイテムだ。
朝、会社のビルに入ったら。エレベーター待ちの列に挨拶をしつつ、まっすぐ向かうのはその横の階段。混雑緩和のために二階と三階勤務の人は階段を使いましょう、の、これまた先輩から教えられた言葉を守り、私はせっせと階段を上る。
階段上って、踊り場。それを曲がってまた階段。二階のフロアをスルーして、次の階段。そして踊り場に差し掛かったところで、上の階から誰かが下りてくる気配。
階段の幅は余裕で人がすれ違える広さだけど。右か左かに避けなくてはぶつかってしまう。
右にする? 左にする?
こういうときはさっさと動かないと、向かってくる人にも迷惑。ああほら、結局判断が遅くなって、踊り場でお見合いすることになる。
私のせいで立ち止まらせてしまった人に、通せんぼしたことを謝ろうと視線を動かす。足元から、ゆっくり上へ。
――『北見泉』、その人の胸に揺れている名札の名前を見て、私は「あ」と小さく声を漏らす。
「土江さん、おはよう」
私の謝罪より先に、聞こえた朝の挨拶は穏やかだった。進行方向をふさがれたことを、怒っても困ってもいない声色に、私は安堵する。
「おはようございます」
挨拶を返し、視線を名札から、さらに上。目が合えば、まるで私が顔を上げるのを待っていたかのように、彼が微笑む。
名札で確認したとおり、その人は紛れもなく北見さんだった。
北見さんは五階に勤務なのに、いつも階段を使っている。一階から上がるときだけじゃなくて、今みたいに、上の階から下りてくるときも。健康志向? 意識が高い? はたまたエレベーターの狭い空間が苦手だったり? 機会があればその理由を尋ねてみたい気もするけど、なかなかそんな機会はないままだ。
踊り場で立ち止まってしまった私たちの横を、他の社員が通り過ぎる。追い抜かれて、ふたりきりになったところで。北見さんはぽつりとつぶやく。
「ひっくり返ってる」
そして彼は私の名札に手を伸ばした。視線を向けたら、たしかに私の名札は裏返って、真っ白だった。
紐の向きなのか、金具のせいなのか。私の名札はよく裏返っている。名札のメインの役割は、自分が何者かを示すこと。だから表に名前が来ないと意味がない。
そしてそのことを北見さんに指摘されるのはこれが初めてではない。なんのかんのと会うたびに、私は彼に名札を直されている気がする。
北見さんはくるりと、私の名札を表に向けた。『土江紅美』が彼に向き直る。
彼の名札の名前、『北見泉』はまっすぐ表を向いている。彼の背筋もまっすぐで、とても姿勢がいい。そして彼の視線も私をまっすぐ撃ち抜くから、ドキドキしてしまうのは、仕方ないことだと思ってる。
私の名札を直したら、彼は満足そうに階段を下りて行く。私は遠ざかる足音に、自分の鼓動が重なるのを感じながら、再び階段を上る。
それは階段ですれ違った、ごくわずかな時間のできごと。その短い時間に、北見さんは朝の挨拶と、名札回しと、いい笑顔を同時にこなして行った。マルチタスクができすぎる。
彼は社内でも人望を集める、いわゆる仕事のできる人だ。そしてとても親切。ふつう、誰かの名札がひっくり返ってたって、わざわざ教えてくれないよね。視野が広くて、よく気がつく。あと顔がいい。個人的な感想だけどすごくいい。北見さんの特徴を挙げてみたら、良いことばかり。悪いことはひとつも思いつかない。
でも欠点のない人なんていないはず。北見さんにだって悪いところ、弱点、裏側があるはずだ。
裏側裏側……北見さんの裏側かあ。
それは知りたくないような、でもやっぱり知りたいような。
そんなことを考えているうちに、私は三階の自分の部署に到着していた。
「おはようございます」
先に出勤している皆に挨拶しながら席に着く。
裏側といえばどうしていつも、私の名札は裏返ってしまうんだろう。考えながら、名札を外してみた。何度か向きを入れ替えながら、首からかけ直してみる。
こっち向きだとこうなるね。紐がねじれたりもしてないし。きちんと名札の金具は真ん中にあって、ぐらぐら傾いたりもしていない。
「紅美ちゃん、どうかした?」
私の行動に気づき、隣の席の先輩がのぞきこんできた。
私は困り顔のまま、名札を示して見せる。
「私、名札がよく裏返るんです」
そういえばと思って、私は先輩の胸元を見た。彼女はシャツの胸ポケットに、名札をクリップで留めている。
「先輩、紐付けてないんですね」
私の言葉に、先輩は目を瞬かせ、それから少し首を傾けた。
「すっごい肩が凝るから。ペンダントとかもダメ。苦手」
たしかに、入社してかれこれ半年一緒にいるけど、先輩が首から何かをぶら下げてるのは記憶にない。
私は先輩の胸を……正しくは、そこに留められた名札を目を細めて観察した。ポケットに名札だけ付けるなら、ぶらぶら率が少ないから、くるくる率も少ないかもなあ。
奇遇にも今日は、自分も胸ポケットのあるシャツを着ている。
「私もポケットに付けようかな」
つぶやいたら、先輩は私の名札に手を伸ばす。
「紐のところ外せるよ」
先輩に教えてもらって、名札の金具を動かした。そして紐が外れてスッキリした名札を、胸ポケットに挟んでみる。
少し体を揺らしてみたが、私の名前はゆらゆらするだけ。ひっくり返ったりはしない。よし、これだったら、名札は裏返らないんじゃないかな。
「いいんじゃない?」
先輩もにこりと笑ってくれて、名札のカスタマイズは成功した。
でも、これまでずっと首からぶら下げてたものの位置が変わるというのは、けっこう違和感。
午前中、ふとしたときに、いつも首にある紐の感触がないことにハッとして、そういえばポケットに付けたなと思い出し、よしよし裏返ってないぞと確認する……という一連の流れが数回。
名札のことなんか、気にしてなければ忘れっぱなしなのに。一度気になるとやたらと気になる。
あ、もしかして北見さんも、今の私と同じ状態だったのかも。名札が気になる症候群……この症状に仮に名前をつけるならそんな感じ?
ちょくちょく名札を確認するうちに思うのは、自分で確認するときは私の名札はちゃんと表を向いてるのに。北見さんに会うときは裏返ってることが多い気がする、なんてこと。
持ち主に似ちゃったのかな名札。私の名前を入れられて、私に似てしまったのかな。だって私自身も北見さんの前ではなんだかすぐに背中を向けたくなるもんな。あのまっすぐな目に撃ち抜かれたら、どきどきそわそわ落ち着かないし。くるくる回りたくなる気持ちもわかる。
今だって、北見さんのことを考えたらちょっと、意味もなく回りたい気持ちになるもんなあ。
お昼休憩を挟んで午後になる頃には、ようやく名札のこともそんなには気にならなくなっていた。
隣の席で先輩が電話応対している。漏れ聞こえてくる言葉から推測するに、どうやら玄関からの内線電話。
受話器を置いた先輩が言う。
「紅美ちゃん、お客さんが一階に来てるって」
こういうときは率先して雑用を承ること、というのは社内ルールにあるとは聞いてないけど、そうしたほうがいいなって働き始めてから気づいたこと。
「あ、じゃあ、書類受け取ってきますね」
お願い、と先輩に見送られて席を立つ。階段階段。たぶんエレベーターを待つよりこっちの方が速い。
私は階段を下りる。三階と二階の間の踊り場で、階段を上がって来る人影が見えた。その髪型と服装と雰囲気と。すべてにしっかり見覚えがある。
あ、北見さんだ。
今朝はお見合いしちゃったけど今度はどっちに避けたら正解? 右か左か。朝はどっちに避けたんだっけ? 結局どちらも選べなかったんだっけ。とろとろしてたらぶつかっちゃうよ。ええい、こっち! 私から見てこちら側。向かってこちらだったら逆になる。とにかくこっち。
ぶつからないように避けたら、彼は顔を上げて、私に気づいた。咄嗟に会釈した私の逆側を、彼が上って行く。
よかった無事にすれ違えた。
通りすがりに北見さんの質問が落ちてくる。
「お客さん?」
「はい。ロビーに」
話しかけられたことに驚いてちょっと声が裏返る。
北見さんは私を見てふっと目を細めた。
「名札」
「え?」
すれ違いざまに、彼の手が私の名札に触れた。それは今朝もされたこと。裏返った名札をくるりと表に返された。いつの間にかまた、私の名札は真っ白になってしまっていたらしい。
紐を外した名札はクリップ留めで私のシャツの胸ポケットにある。朝から何回も確認したのに。自分の名札が裏返ってないか。そのたび大丈夫だったのに。最後に確認したときにはちゃんと表向いてたのに。
なんで北見さんに会うこのタイミングでひっくり返っちゃってるの?
北見さんに名札をくるりと直されて。『土江紅美』が表を向くと同時に、私は顔が熱くなる。私の心臓の上を彼の手がかすめたから。
紐付きのときよりもっと、私の胸の近くに彼の手は添えられて。そして、私のささやかな膨らみに、何かが触れる感触。
それは彼の指が私の胸に触れたわけではなくて。ほんのわずかにぶつかった硬いものは、名札の角。だからつまり、彼が私の名札をひっくり返したときに名札の角が胸に当たっただけ。それだけのこと。
だけどなんだか間接的に、北見さんに胸を撫でられたみたいで。
私は思わずびくりと肩を震わせた。声を出さなかっただけ上等だと思う。
一方の彼は何の動揺もなく、いつものように私の目をまっすぐに見て、お疲れ様とつぶやいて、階段を上って行った。
私が北見さんの動作ひとつで、こんなにも心乱していることを。彼はきっと、知らない。