泊まりに行ってもいいですか

著者:

表紙:

先行配信日:2024/10/25
配信日:2024/11/08
定価:¥770(税込)
「どうやったら、大滝さんはもっとしゃべってくれるんだろうな。この、かわいい唇で」

会社員の大滝三春は、上司である原瀬岳と上手く会話ができないことを密かに悩んでいた。
気づけば口から出るのは数文字の短い言葉ばかり。彼のことを嫌っているわけではなく、むしろ尊敬しているのに。
そしていつも原瀬は口下手な三春を煙たがることもなく、エスパーかと思えるほどに考えを読み取りフォローしてくれる。三春は日々彼に感謝しているのだけれど、今のところそれを伝えることもできないまま。
そんなある日、大雨に降られ電車も止まったと聞き、三春は会社で途方に暮れる。そこへ原瀬が「私の部屋に泊まればいい」と言ってきて……。

成分表

♡喘ぎ、二穴、NTR、非童貞、などの特定の成分が本文中に含まれているか確認することが出来ます。

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1.泊めてください



 今週中で、と頼まれた仕事のボリュームに、私は心の中で顔をしかめる。現実の私は、無表情のままだ。
「どうしても大滝さんにと、取引先に言われたんだけど。負担になるなら、締め切りを延ばしてもらおうか?」
 デスクを挟んで向こう側。原瀬さんは私に指示を出しながら、細い黒縁のメガネ越しにこちらを見た。この人の、この切れ長の目に見つめられるたびに、なんだか居心地が悪くなる。だからこういうとき、決まって私は目をそらす。正しい反応じゃないなあって、わかってるけど体が勝手に動くんだ。
 ぷい、と顔を背けた私の仕草のこどもっぽさを、彼はきっとあきれているに違いない。
 頼まれた仕事は、期限までにできないことはないと思うけど、その分、他の仕事には時間を割けなくなる。多少、他の人との調整があれば、問題なくいけそう。そのことを私は原瀬さんに伝えたい。
 私はそっぽを向いたまま、のどに力を入れた……ああ、声って。どうやって出すんだっけ?
「いけます」
 そして私の言いたかったセリフは、口を出るときには超短縮されてしまった。
 いつもこうなのだ。私は原瀬さんの前では、言葉が上手く出てこない。
 そっと視線を戻したら、原瀬さんは無表情な私をじっと見て、うなずいた。
「わかった。今、大滝さんが持ってる仕事は、手が空いてる人に振るから。こっちの作業優先で」
 何で、「いけます」だけで、私の言いたかったことをわかってくれるんだろう。原瀬さんと会話すると、エスパーか?と思うことがある。
 私はそんな驚きをすべて隠して、一言だけで返事する。
「はい」
 すると原瀬さんはさっきまでの、きりりとした目元をふんわりと緩めて、笑って言った。
「よろしく」
 一気に周囲の空気がやわらかくなる。対して、私は会釈するのが精いっぱいだった。愛想笑いすらできやしない。
 それから私はすぐに原瀬さんのデスクから離れた。用が終われば長居は無用。……長居したところで、私はどうせこれ以上、気の利いたことなんか言えないから。
 本当はお気遣いありがとうございますとか、助かりますとか、がんばりますとか、言いたいのに。
 当の原瀬さんは、そういうことを言えない私を煙たがるわけでもなく、毎回フォローしてくれる。私は彼に甘えるつもりはないのに、結局、甘やかされている。
 原瀬さんは、まじめで堅実、面倒見が良くて、皆からの信頼も厚い人だ。理想の上司だよね、と同僚たちが話してるのを聞いたこともある。七歳年上って、こんなに落ち着いてるものなのだろうか。
 これまで同世代の男の子としか、付き合ったことのない私にとっては、原瀬さんはとても大人に思える。いや、私の今までの交際歴など、原瀬さんには無関係のはずだけど。つい比べては、七歳の差に思いを馳せてしまう。
 ……とりあえず、任された仕事をがんばろう。原瀬さんにがっかりされたり、迷惑をかけたりしないように。

 ◆

 金曜日の朝、出勤したときには青空だったのに、昼を過ぎてからポツポツと雨が降り始めた。お天気サイトを見ると、発達した雨雲が、と、天気が急激に悪くなることを予報していた。
 雨足が強くなるのは、会社にいても分かった。窓際から外の様子をうかがってみる。今日、ちゃんと自宅に帰れるだろうか。電車はまだ動いているけど、ひどくなれば運休になりそうだ。会社の置き傘は頼りないビニール傘だし、これでは駅まで行くのすら、大変な気がする。
 しかし任されている仕事の締め切りは本日中。もう少しで片付きそうだから、早退もしたくない。
「大滝さん、家遠かったよな? 今日は無理に帰らないほうがいいんじゃないか?」
 しつこく窓の外をのぞいていると、声をかけられた。私は無言で顔を向ける。原瀬さんだ。
 私は実家から通勤している。帰らないほうがいいと言われても、家族が心配するので、帰らないわけにはいかない。
「帰ります」
 とっさに私の口から出たのは、原瀬さんに反抗するみたいな言葉だった。
 原瀬さんが、私の家の事情を覚えていて、心配して声をかけてくれたことがとても嬉しかったのに、そんな気持ちは、口に出せないままだ。
 原瀬さんは私の言葉に、ふ、と息を漏らして笑った。
「まあ、家族と離れると不安にもなるか、こんな日は」
 私は彼の穏やかな声に、小さくうなずく。原瀬さんは私の言えなかった部分まで、聞こえたみたいなことを言う。
「でも、明日は会社休みだし、近くのホテルとかに泊まったほうが安全かもな。家族には電話連絡すれば、心配もかけないだろう? 大滝さんも大人なんだから」
 原瀬さんの口から、ホテルという言葉が出てきて、それだけで私は赤面しそうだった。ホテルって、ふつうの言葉なのに。
 私は一瞬の動揺を外に漏らさないよう努力しつつ、彼への質問を準備する。原瀬さんは、家に帰るんですか? それともホテルに泊まるんですか? 原瀬さんも仕事が終わったら、会社を出るんだから、私のことを心配する前に自分の心配をしたほうがいいと思う。しかし、よし言うぞと力めば力むほど、口の中がからからになって、上手くしゃべれない。もう、どうして?
 私は自分自身に苛立ちながら、なんとか声をしぼり出す。
「原瀬さんは?」
 ようやく言えた私の問いに、原瀬さんは窓の外を指さした。
「私の家は、そこのビルの裏のマンション。歩いて一分」
 え、と私は思わず爪先立って、窓の向こうに目を凝らした。たくさんの雨粒に遮られて見づらいけど、原瀬さんの示したビルの裏には、マンションらしき建物が並んでいる。知らなかったな。原瀬さん、こんな良いところに住んでたのか。毎日、けっこうな時間をかけて通勤している私からしてみれば、羨ましい限りだ。
「いいですね」
 私にしては珍しく、思ったことがそのまま口に出た。視線を原瀬さんに向けたら、彼はやさしく笑む。そして流れるような動作で、私の耳に顔を寄せた。
「どうしても困ったら、泊めてやるから」
 原瀬さんは確かにそう言った。そしてすたすたと窓辺から去っていった。私は時間差で、顔が赤くなる。まじめで評判の原瀬さん。本当に、まじめ、なの? 冗談だとわかっていても、さっきのセリフはだいぶ刺激が強い。
 ――泊めてやるから。
 なんて、そんなこと。異性の部下に言うのはいけないやつだと思う。

 原瀬さんにかけられた言葉に動揺しながらも、私は何とか終業時間前に、全ての資料をまとめて提出できた。
「さすが大滝さん。ありがとう、助かった。先方からも大滝さんに頼んで良かったって、早速連絡があった」
 原瀬さんは褒めてくれた。締め切りが守れたのは、私だけの力ではない。彼が周囲に手をまわして、私が仕事しやすいように調整してくれていたからだ。助かったのは私のほうだ。
「他の皆も、大滝さんのサポートを快く引き受けてくれたから。大滝さんの人望だな」
 違う、それは原瀬さんの人望だ。皆、原瀬さんに頼られるとがんばれるから。
「この短い期間で仕上げられるのは、すごいことだから」
 褒め過ぎである。もうほんとにそれ以上は言わないでほしい。仕事中にしてはいけない表情になってしまう。
「お疲れ様でした」
 私は一言そう残し、ぺこりと頭を下げて立ち去る。原瀬さんにいっぱい褒められて嬉しい気持ちを、どう処理したらいいのかがわからない。胸のあたりがとにかくあたたかい。
 窓の外は土砂降りの雨だけど、私の心の中は紛れもなくぴかぴかの青空だった。

 とはいえ。現実の雨に私は途方に暮れた。
 終業時間を過ぎても、雨はちっとも止まなかった。帰宅しようと会社の玄関に出てみれば、思った以上に風が強い。私は手にしたビニール傘を見つめる。嫌な予感しかしない。いっそ、開かないほうがいいんじゃないだろうか? 悩んでいると、隣に人が立った。大きな黒い傘が目に留まる。
「大滝さん、この風でその傘は無茶だろう?」
 私は声の主を見上げる。原瀬さんだった。ちょっとあきれたような言い方をされたのが悔しくて、私は傘を開き、雨の中に一歩足を進めた。その瞬間、もろいビニール傘は風を受けて裏返る。
 一瞬のことだった。
 私の体は雨に打たれ、すっかりずぶ濡れだ。ビルのエントランスに反射的に戻って、自分の行動を悔やむ。
 放心した私の横で、原瀬さんは肩を震わせていた。笑いをかみ殺しながら、また、あきれた声。
「やっぱり無茶だった」
 私は恥ずかしさで顔が歪む。私もこの場で裏返って、消えてなくなりたい。
「服、透けてる」
 追加の言葉に、私は慌てて胸元にかばんを抱きしめた。濡れたシャツに下着が浮き出て見えていた。恥ずかしすぎる。
 どうしよう、とうつむく私の耳に、彼のつぶやきが聞こえた。
「電車、止まったらしいぞ」
 原瀬さんの言葉が、私を更に動揺させる。
「この天気では、タクシーもつかまるかどうか」
 たしかに会社の前の大通り、いつもより車の数が少ない。走ってくれるタクシーがあったとしても、もう誰かの予約済みなのでは。
 家には帰りたい。けど、帰れないかもしれない。もう帰ることを諦めて、近くに宿を取るほうが賢いのでは? だけどそのとき、会社のビルから出て行く同僚たちの、会話が耳に入ってくる。
「近くのホテルどこも満室だろ?」
「ネカフェでも行く?」
「朝までどっかで飲むとかは?」
 まるで、今の状況を楽しむみたいな口調だった。私はとても、楽しめない。ホテルがダメならどうしたらいいんだろう。私がひとりで朝までいられる場所ってどこ? ネカフェ? カラオケ? ファミレスとか? ……でも、この濡れた服で、長時間どこかにいるのも、気が滅入る。というか、どこに行くにしろ、傘もない私は動きようがない。
 これからのことを考えたら、一気に不安な気持ちが押し寄せてきて、ちょっと泣きそうだった。ぼやけかけた視界を、ふいに黒いものが覆う。隣から、原瀬さんが傘を差し出したのだ。
 そして、傘の内側で、隠れるように彼は言った。
「私の部屋に泊まればいい」
 私は驚いて原瀬さんを見た。原瀬さんはいたってまじめな顔をしている。会社の中から一緒に外を見ていたときにも、彼は似たセリフで私をからかったけれど。あれは冗談じゃなかった?
 でも、この申し出をあっさりOKしていいわけがない。私は答えに困る。
 いや、しかし、こんなにもごく自然に自宅に誘うのだから、原瀬さんには下心などないんだろう。たぶん私のほうが、意識しすぎなんじゃないだろうか。いつも、そのせいで、原瀬さんとまともに話せないんだし。
 私の頭の中をぐるぐるといろんな気持ちが駆け巡る。今の状況を考えて、一番良い判断はどれ? ああ、でも、早く。早く答えを出さなくては。この人をいつまでも待たせてはいけない。激しい雨風が私を急かす。そんな焦りもあって、私は勢いに任せて答えを出す。
「泊めてください」
 消え入りそうな私の声を、原瀬さんは聞き取ってくれていた。
「行こう」
 促され、私は雨と風の中、原瀬さんに守られるようにして歩く。
 原瀬さんの住むマンションは、本当に、会社から徒歩一分の場所にあった。でも、とても長くて、心乱れる一分間だった。
 彼は私がなるべく濡れないように、半分以上傘を譲ってくれた。風にあおられないように、くっついて歩いてくれた。私が水たまりを踏まないようにもたもた歩いても、嫌な顔ひとつせず歩幅を合わせてくれた。原瀬さんの態度が全部やさしかった。
 私は一歩進むたびに、自分の行動が間違ってないと、自分自身に言い聞かせた。

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