1.泊めてください
今週中で、と頼まれた仕事のボリュームに、私は心の中で顔をしかめる。現実の私は、無表情のままだ。
「どうしても大滝さんにと、取引先に言われたんだけど。負担になるなら、締め切りを延ばしてもらおうか?」
デスクを挟んで向こう側。原瀬さんは私に指示を出しながら、細い黒縁のメガネ越しにこちらを見た。この人の、この切れ長の目に見つめられるたびに、なんだか居心地が悪くなる。だからこういうとき、決まって私は目をそらす。正しい反応じゃないなあって、わかってるけど体が勝手に動くんだ。
ぷい、と顔を背けた私の仕草のこどもっぽさを、彼はきっとあきれているに違いない。
頼まれた仕事は、期限までにできないことはないと思うけど、その分、他の仕事には時間を割けなくなる。多少、他の人との調整があれば、問題なくいけそう。そのことを私は原瀬さんに伝えたい。
私はそっぽを向いたまま、のどに力を入れた……ああ、声って。どうやって出すんだっけ?
「いけます」
そして私の言いたかったセリフは、口を出るときには超短縮されてしまった。
いつもこうなのだ。私は原瀬さんの前では、言葉が上手く出てこない。
そっと視線を戻したら、原瀬さんは無表情な私をじっと見て、うなずいた。
「わかった。今、大滝さんが持ってる仕事は、手が空いてる人に振るから。こっちの作業優先で」
何で、「いけます」だけで、私の言いたかったことをわかってくれるんだろう。原瀬さんと会話すると、エスパーか?と思うことがある。
私はそんな驚きをすべて隠して、一言だけで返事する。
「はい」
すると原瀬さんはさっきまでの、きりりとした目元をふんわりと緩めて、笑って言った。
「よろしく」
一気に周囲の空気がやわらかくなる。対して、私は会釈するのが精いっぱいだった。愛想笑いすらできやしない。
それから私はすぐに原瀬さんのデスクから離れた。用が終われば長居は無用。……長居したところで、私はどうせこれ以上、気の利いたことなんか言えないから。
本当はお気遣いありがとうございますとか、助かりますとか、がんばりますとか、言いたいのに。
当の原瀬さんは、そういうことを言えない私を煙たがるわけでもなく、毎回フォローしてくれる。私は彼に甘えるつもりはないのに、結局、甘やかされている。
原瀬さんは、まじめで堅実、面倒見が良くて、皆からの信頼も厚い人だ。理想の上司だよね、と同僚たちが話してるのを聞いたこともある。七歳年上って、こんなに落ち着いてるものなのだろうか。
これまで同世代の男の子としか、付き合ったことのない私にとっては、原瀬さんはとても大人に思える。いや、私の今までの交際歴など、原瀬さんには無関係のはずだけど。つい比べては、七歳の差に思いを馳せてしまう。
……とりあえず、任された仕事をがんばろう。原瀬さんにがっかりされたり、迷惑をかけたりしないように。
◆
金曜日の朝、出勤したときには青空だったのに、昼を過ぎてからポツポツと雨が降り始めた。お天気サイトを見ると、発達した雨雲が、と、天気が急激に悪くなることを予報していた。
雨足が強くなるのは、会社にいても分かった。窓際から外の様子をうかがってみる。今日、ちゃんと自宅に帰れるだろうか。電車はまだ動いているけど、ひどくなれば運休になりそうだ。会社の置き傘は頼りないビニール傘だし、これでは駅まで行くのすら、大変な気がする。
しかし任されている仕事の締め切りは本日中。もう少しで片付きそうだから、早退もしたくない。
「大滝さん、家遠かったよな? 今日は無理に帰らないほうがいいんじゃないか?」
しつこく窓の外をのぞいていると、声をかけられた。私は無言で顔を向ける。原瀬さんだ。
私は実家から通勤している。帰らないほうがいいと言われても、家族が心配するので、帰らないわけにはいかない。
「帰ります」
とっさに私の口から出たのは、原瀬さんに反抗するみたいな言葉だった。
原瀬さんが、私の家の事情を覚えていて、心配して声をかけてくれたことがとても嬉しかったのに、そんな気持ちは、口に出せないままだ。
原瀬さんは私の言葉に、ふ、と息を漏らして笑った。
「まあ、家族と離れると不安にもなるか、こんな日は」
私は彼の穏やかな声に、小さくうなずく。原瀬さんは私の言えなかった部分まで、聞こえたみたいなことを言う。
「でも、明日は会社休みだし、近くのホテルとかに泊まったほうが安全かもな。家族には電話連絡すれば、心配もかけないだろう? 大滝さんも大人なんだから」
原瀬さんの口から、ホテルという言葉が出てきて、それだけで私は赤面しそうだった。ホテルって、ふつうの言葉なのに。
私は一瞬の動揺を外に漏らさないよう努力しつつ、彼への質問を準備する。原瀬さんは、家に帰るんですか? それともホテルに泊まるんですか? 原瀬さんも仕事が終わったら、会社を出るんだから、私のことを心配する前に自分の心配をしたほうがいいと思う。しかし、よし言うぞと力めば力むほど、口の中がからからになって、上手くしゃべれない。もう、どうして?
私は自分自身に苛立ちながら、なんとか声をしぼり出す。
「原瀬さんは?」
ようやく言えた私の問いに、原瀬さんは窓の外を指さした。
「私の家は、そこのビルの裏のマンション。歩いて一分」
え、と私は思わず爪先立って、窓の向こうに目を凝らした。たくさんの雨粒に遮られて見づらいけど、原瀬さんの示したビルの裏には、マンションらしき建物が並んでいる。知らなかったな。原瀬さん、こんな良いところに住んでたのか。毎日、けっこうな時間をかけて通勤している私からしてみれば、羨ましい限りだ。
「いいですね」
私にしては珍しく、思ったことがそのまま口に出た。視線を原瀬さんに向けたら、彼はやさしく笑む。そして流れるような動作で、私の耳に顔を寄せた。
「どうしても困ったら、泊めてやるから」
原瀬さんは確かにそう言った。そしてすたすたと窓辺から去っていった。私は時間差で、顔が赤くなる。まじめで評判の原瀬さん。本当に、まじめ、なの? 冗談だとわかっていても、さっきのセリフはだいぶ刺激が強い。
――泊めてやるから。
なんて、そんなこと。異性の部下に言うのはいけないやつだと思う。
原瀬さんにかけられた言葉に動揺しながらも、私は何とか終業時間前に、全ての資料をまとめて提出できた。
「さすが大滝さん。ありがとう、助かった。先方からも大滝さんに頼んで良かったって、早速連絡があった」
原瀬さんは褒めてくれた。締め切りが守れたのは、私だけの力ではない。彼が周囲に手をまわして、私が仕事しやすいように調整してくれていたからだ。助かったのは私のほうだ。
「他の皆も、大滝さんのサポートを快く引き受けてくれたから。大滝さんの人望だな」
違う、それは原瀬さんの人望だ。皆、原瀬さんに頼られるとがんばれるから。
「この短い期間で仕上げられるのは、すごいことだから」
褒め過ぎである。もうほんとにそれ以上は言わないでほしい。仕事中にしてはいけない表情になってしまう。
「お疲れ様でした」
私は一言そう残し、ぺこりと頭を下げて立ち去る。原瀬さんにいっぱい褒められて嬉しい気持ちを、どう処理したらいいのかがわからない。胸のあたりがとにかくあたたかい。
窓の外は土砂降りの雨だけど、私の心の中は紛れもなくぴかぴかの青空だった。
とはいえ。現実の雨に私は途方に暮れた。
終業時間を過ぎても、雨はちっとも止まなかった。帰宅しようと会社の玄関に出てみれば、思った以上に風が強い。私は手にしたビニール傘を見つめる。嫌な予感しかしない。いっそ、開かないほうがいいんじゃないだろうか? 悩んでいると、隣に人が立った。大きな黒い傘が目に留まる。
「大滝さん、この風でその傘は無茶だろう?」
私は声の主を見上げる。原瀬さんだった。ちょっとあきれたような言い方をされたのが悔しくて、私は傘を開き、雨の中に一歩足を進めた。その瞬間、もろいビニール傘は風を受けて裏返る。
一瞬のことだった。
私の体は雨に打たれ、すっかりずぶ濡れだ。ビルのエントランスに反射的に戻って、自分の行動を悔やむ。
放心した私の横で、原瀬さんは肩を震わせていた。笑いをかみ殺しながら、また、あきれた声。
「やっぱり無茶だった」
私は恥ずかしさで顔が歪む。私もこの場で裏返って、消えてなくなりたい。
「服、透けてる」
追加の言葉に、私は慌てて胸元にかばんを抱きしめた。濡れたシャツに下着が浮き出て見えていた。恥ずかしすぎる。
どうしよう、とうつむく私の耳に、彼のつぶやきが聞こえた。
「電車、止まったらしいぞ」
原瀬さんの言葉が、私を更に動揺させる。
「この天気では、タクシーもつかまるかどうか」
たしかに会社の前の大通り、いつもより車の数が少ない。走ってくれるタクシーがあったとしても、もう誰かの予約済みなのでは。
家には帰りたい。けど、帰れないかもしれない。もう帰ることを諦めて、近くに宿を取るほうが賢いのでは? だけどそのとき、会社のビルから出て行く同僚たちの、会話が耳に入ってくる。
「近くのホテルどこも満室だろ?」
「ネカフェでも行く?」
「朝までどっかで飲むとかは?」
まるで、今の状況を楽しむみたいな口調だった。私はとても、楽しめない。ホテルがダメならどうしたらいいんだろう。私がひとりで朝までいられる場所ってどこ? ネカフェ? カラオケ? ファミレスとか? ……でも、この濡れた服で、長時間どこかにいるのも、気が滅入る。というか、どこに行くにしろ、傘もない私は動きようがない。
これからのことを考えたら、一気に不安な気持ちが押し寄せてきて、ちょっと泣きそうだった。ぼやけかけた視界を、ふいに黒いものが覆う。隣から、原瀬さんが傘を差し出したのだ。
そして、傘の内側で、隠れるように彼は言った。
「私の部屋に泊まればいい」
私は驚いて原瀬さんを見た。原瀬さんはいたってまじめな顔をしている。会社の中から一緒に外を見ていたときにも、彼は似たセリフで私をからかったけれど。あれは冗談じゃなかった?
でも、この申し出をあっさりOKしていいわけがない。私は答えに困る。
いや、しかし、こんなにもごく自然に自宅に誘うのだから、原瀬さんには下心などないんだろう。たぶん私のほうが、意識しすぎなんじゃないだろうか。いつも、そのせいで、原瀬さんとまともに話せないんだし。
私の頭の中をぐるぐるといろんな気持ちが駆け巡る。今の状況を考えて、一番良い判断はどれ? ああ、でも、早く。早く答えを出さなくては。この人をいつまでも待たせてはいけない。激しい雨風が私を急かす。そんな焦りもあって、私は勢いに任せて答えを出す。
「泊めてください」
消え入りそうな私の声を、原瀬さんは聞き取ってくれていた。
「行こう」
促され、私は雨と風の中、原瀬さんに守られるようにして歩く。
原瀬さんの住むマンションは、本当に、会社から徒歩一分の場所にあった。でも、とても長くて、心乱れる一分間だった。
彼は私がなるべく濡れないように、半分以上傘を譲ってくれた。風にあおられないように、くっついて歩いてくれた。私が水たまりを踏まないようにもたもた歩いても、嫌な顔ひとつせず歩幅を合わせてくれた。原瀬さんの態度が全部やさしかった。
私は一歩進むたびに、自分の行動が間違ってないと、自分自身に言い聞かせた。