プロローグ
小さいころ、公園で近所の子たちと遊んだ日。
誰かのお母さんが棒付きの小さな飴をみんなに配った。
みんなは色とりどりの飴を手に、嬉しそうにしていた。
私はそのとき水飲み場にいて、みんなの手に綺麗なそれが握られているのを見て、羨ましくなった。
急いでそちらに行ったけれど、そのお母さんはもう配り終えたと思って、どこかへ行ってしまったあとだった。
私だけ飴をもらえなかった。
卑しいかもしれないけれど、ずっとその記憶は残った。
1 ファーストキス
沢口君はキス魔だ。
沢口君は私と同じ大学のサークルの同級生で、長身に整った容姿の、都会的でとても華がある人だ。アーモンド型の人懐っこい目は表情が豊かで人目を引く。明るく人見知りしない性格の人気者で、彼の周囲はいつも賑やかだ。
ただ、彼はキス魔で、酔っ払うと男だろうが女だろうが、見境なくキスをする。
もちろん唇でこそないが、彼氏がいる女の子やむさくるしい男子にも平気でちゅっちゅする。
二年生の十月にもなると、もはやサークルで沢口君にキスをされていない人間はいなかった。
────私以外は誰も。
沢口君は私にだけキスをしない。
私はべつにキスをされたいわけじゃない。全然されたくない。当たり前だ。迷惑行為なのだ。
だけど妙なもので、私ひとりだけされていないとなんとなく差別的な、意地悪されているかのような気持ちになる。
私は沢口君のことを好きでも嫌いでもないのに、いや、どちらかというと苦手なタイプなのに、なぜか寂しいような気持ちになる。
とはいえ私はもともと沢口君とは関わりがない。サークルの飲み会でも近くにいることがまずない。だから、そこに深い意味などないだろうと思って過ごしていた。
十月初頭。大学の敷地内では樹々の葉が色を変え始めていた。
私はぼんやりそれを見ながら帰宅のために歩いていた。
「そういや沢口さぁ、お前、屋良にだけキスしてないよな?」
どこかで誰かが自分の名前を話す声が聞こえて、ドキリとしてあたりを見まわした。
すぐそばの柱の近くに同じサークルの森田君がいるのを見つけた。柱の陰にいる話し相手の顔はここからだと見えないけれど、沢口君なのだろう。彼が最近よく着ているピンク色のシャツの端がちらりと見えた。沢口君は私よりもよほどピンクが似合ってしまう風体だった。
森田君は軽い気持ちで聞いたのだろう。スマホ片手に、軽い口調だった。
けれど、それに対して沢口君が少し険のある声で返すのが聞こえてきた。
「……あいつ苦手」
胸がずくんと痛み、びっくりして動きを止めた。人を嫌うことなんてあまりなさそうな沢口君は、私のことが苦手だったらしい。
確かに私は沢口君の友達に多い、ノリが良いタイプではない。小学校のころ、どんくさい眼鏡女、略して『ドンガネ』という怪獣のようなあだ名を賜ったこともあるくらいにぼうっとして、覇気がないタイプだった。人との会話はだいたいテンポよく進められない。そのくせ悪気なく余計なことはよく口走る、立派なコミュ障でもあった。そもそも私が向こうを苦手だと思っていたのだから、向こうもこちらを苦手と思っていてもおかしくない。
私はぼんやりしていないで、その場を早く離れるべきだったのだと思う。
けれど、どこまでもどんくさい私はそれにも遅れた。
森田君がこちらを見たことで、沢口君も私がいることに気づいてしまった。
私は沢口君と森田君と共に、その場に広がった気まずい空気をお腹いっぱいに吸い込んだ。
沢口君は私と目が合うと、露骨に、しまったという顔をした。顔に出やすいタイプなのだ。
私はその顔を見たらなんだか申し訳なくなって、気にしてません、といわんばかりの薄い笑みを浮かべた。どこまでも力のない愛想笑いだ。
ぺこりとお辞儀してなんとかその場を離れる。
帰宅して一時間後くらいに急に悲しくなって、ちょっと泣いた。少し怒りも湧いてきた。
なんで私は悪口を言われて愛想笑いなんてしたんだろう。
***
週末にサークルの飲み会があった。
そこはアイス研究会というふざけた名前のついたゆるいサークルで、私は数少ない友達に誘われて入ったけれど、その友達はすぐに辞めてしまった。
私は地方から出てきてひとり暮らしで、大勢でご飯を食べるような場所が欲しくてその後も在籍していたが、だいぶ浮いている気がしていた。
だけど、周りと比べてテンションが低くて馴染めないのはいつものことだからあまり気にしないようにしていた。お酒を飲むのは好きだし、一緒になって騒げなくても賑やかな雰囲気は楽しめる。
沢口君は相変わらずハイペースで飲んで、ニコニコしながら周りの人にちゅっちゅしていた。
沢口君は顔がいいので周りに座る女の子たちも満更でもない顔をしている。沢口君は女の子に対してはそこまで強引に行かないし、もとより飲みの席で遠慮なく沢口君の隣に座るなんて、キスをされても構わないという子たちだけだ。
私は、沢口君とほぼ対角線上の離れた席に座っていた。
あんなことがあったあとなので、気まずくて沢口君の顔が見れなかった。
けれど、気にはなってしまう。またそっと窺うと、やっぱりニコニコしながら見境なく周りの人の頬やおでこなんかに豪快に唇を付けていて、周りも最早いつものことなので誰も気にしていない。
沢口君はいつもより酔うのが早くて、唐揚を持ってきてくれた店員さんの手の甲にまでキスをしていた。店員さんはいかつい男性だったので若干嫌そうな顔をしていたが、周りは笑っていた。
あんなことがあっても、沢口君のほうは全然気にしていない。いつも通りの明るい沢口君だった。
よく考えてみなくても、それはそうだろう。相手は私だし。気にするほどのことでもない。そんな当たり前のことにちょっとがっかりしつつも安心した。
トイレに行って戻ると、ちょうどお開きの時間だったらしく、座敷にはもう誰もいなかった。
おそらく何人かは帰って、残りはいつも行く次の店に移動したんだろう。
みんなお酒がまわると細かいところに気がまわらなくなる。それでなくても私は影が薄いので、うっかり置いていかれるなんてのは珍しくもなんともない。何を隠そう私は中学の林間学校で、パーキングエリアにおいてけぼりになったこともある。その辺は筋金入りで、ベテランといってもいいくらいだった。
帰ろうとして店の外に出ると、酔っ払いが目の前の歩道の植え込みの脇で蹲っているのにつまずいた。
「す、すみません!」
足を軽くひっかけてしまったが、びくともしていない。おそるおそる、よく見ると沢口君だった。
彼はどうやら、着ていた深緑の上着が植え込みの緑と同化して見逃されて、おいてけぼりをくらったらしい。
沢口君でも置いていかれることがあるのか。そう思うと少し嬉しくなった。
季節的には放っておいても凍死するようなことはない。だから一瞬どうしようかと迷ったけれど、結局小声で声をかけた。
「あの、沢口君……? みんな次の店に行った……と思うよ」
「んん?」
沢口君は胡乱な目で私を見上げた。でろでろの酔っぱらいの目だ。
声はかけたものの、次のアクションが特に浮かばず、すぐに後悔した。オタオタしてその場を去るタイミングすら逸しているうちに、沢口君がすっくと立ち上がった。
「かえる」
沢口君は短く言うとヨロヨロと歩き出した。
沢口君の家は外壁のペンキの塗装が真っ黄色で、妙な小さい石の像が玄関前にある個性的なアパートなので一部で有名で、私も知っていた。ここから五分もかからないはずだ。
ぼんやり背中を見送っていると、沢口君は赤信号の横断歩道にフラフラと突っ込んで行こうとしていた。
「さっ、沢口君! 信号! 赤いよ!」
渾身の力で背後から引き戻す。彼はもう一度胡乱な目で私を見てから、しなだれかかるように肩に手をまわしてきた。
「沢口君?」
「……うん」
沢口君は立ったまま私にもたれかかって、半分寝ているように見えた。この状況をどうしたらいいのかわからない。
結局私は沢口君に肩をかして、ヨロヨロと車の通りの少ない道を選んで歩いていた。
繰り返すが沢口君のアパートはここから五分もかからない。すぐ近くのはずだった。
こんなに重くなければ。
なんで私がこんな目に……。
沢口君は遠慮なく体重を乗せてくるのですごく重かった。
いわずもがなドンガネである私に体力や運動神経などあるはずもない。そもそも中肉中背の私に、長身の彼を背負うのは無理がある。こんな力仕事、やったことがない。素直に辛い。あまりに苦行。疲れてきて、沢口君がどんどん重く感じられるようになっていく。沢口君はあれなんじゃないか。重くなる妖怪。
あと半分くらいの距離まで来たとき、苦行のコツをつかんだのか、急に楽になった。沢口君が少し軽くなった気さえした。
そうすると、鼻先に薄く沢口君の服の匂いがすることなどにも気づいてしまって、不思議な気持ちになる。
等間隔に並んでる街灯のひとつから、次の街灯を目指し歩く。
間ひとつ、街灯が切れていてひどく暗い道の途中、沢口君が急に、ぎゅっと抱きつくように身を寄せてきた。
上目でちらりとそちらを見ると、彼の大きな目がギョロリと開いていた。
その目は、もう酔ってるようには見えなかった。
なんだろう。酔いが覚めてるなら、ちゃんと起きて歩いてほしい。そんなことを思い、顔を上げてもう一度その目を確認するように見た。
かちりと目が合う。
けだものみたいな視線に射抜かれて、動けなくなった。
沢口君は黙って私に顔を近づけた。
街灯の切れたその場所で、それは影のようにゆっくりと視界を黒く染めてゆく。
その動きはすごく緩慢に感じられたのに、動けなかった。
沢口君はゆっくり、ゆっくりと顔を近づけて、私の唇にやわらかな何かが当たって塞がれた。私はぎゅっと目を瞑る。
多分これは、アレだろう。沢口君の、唇。すごく温かくて、生々しい感触だった。
「……っん」
こわばって閉ざしていた唇に濡れたものがたどり、びくりとした。こじ開けるように、熱い舌が入ってくる。アルコールの香りがして、遠くに酩酊の感覚を思い出す。舌で舌を舐めとられる。ぬる、ぬる、ぬると舌は絡みついて、背中にぞくぞくが駆け上がり、力が抜けていく。沢口君の手のひらが私の頭を押さえつけながら支えている。毛穴が開ききったような頭皮に彼の手のひらの感触がぞわりとあって、頭がどんどん甘く痺れていく。
「ふっ……んん……」
まるで意思を持った動物みたいに口内を這いまわる沢口君の舌に翻弄される。
一瞬だけ、息継ぎのように離された唇はまた性急に重ねられる。彼の舌がごく小さくぴちゃ、と音を響かせ再び侵入して暴れまわる。口からこぼれたどちらのものかわからない唾液が口の周りに少しだけ垂れて、空気に当たって冷えていく。
膝が少し震えたけれど、沢口君は私の頭と背中に腕をまわして、倒れないようにがっちりと支えて貪り続けた。