入学して初めての体育祭で、わたしは一目惚れをした。
やる気なさそうに玉入れをしている姿に釘付けになって、次の瞬間には恋に落ちていた。
ゼッケンで名前を、運動靴に入っているラインの色で学年を素早く確認した。
三年の、高橋(たかはし)先輩。
しかし、わたしの恋心は情報通の友人によって、ものすごい速さで砕かれた。
「やめといたほうがいいよ。三年の高橋先輩っていったらヤリチンで有名なんだよ」
確かに、見るからにチャラそうで軽そうな顔をしていると思ったけど……そのまんまなのか……。絶望を顔に浮かべるわたしに友人の真澄(ますみ)はよどみなく続ける。
「なんでも童貞喪失は五歳の時、経験人数千人越え。セフレが常に三十人はいるって噂だよ」
「さすがに五歳は嘘じゃないの……」
だいぶでかい尾ひれが付いていそうなものの、その噂はまったくの嘘でもないようで、その後も真澄は廊下を歩いている三年の女の先輩をそっと指さして「あれも高橋先輩のセフレだよ」などと教えてくれたりする。見たくないのに見てしまう。
そう言われたからかもしれないけれど、確かにその先輩は軽そうだったし、セフレ感のある顔をしていた。
弱った……。
ヤリチンは嫌だ……。付き合うなら絶対浮気しない人がいい。
しかし、理性ではそう思っているのにわたしの恋心は彼の姿を見かけるたびにボウボウと燃え上がる。
学年が違うから普通にしていればそう姿を見ることもないのに、用もなく三年のフロアをうろついてしまう。同じ階に図書室があったので、わたしは日に何度も図書室に行き、ろくに本も見ずに引き返す、という行動を繰り返していた。通り過ぎる時に教室の中に姿が一瞬だけ見えるか見えないか、くらいなのに。重症だ。やっぱり好きなのだ。
そのたびに真澄によって「あ、あの先生ともヤってるって噂があるよ」「あの人はそこらへんじゅうに精子をまき散らして走るホース付きザーメンタンクローリーと言われている」「人でも動物でも無機物でも穴があれば見境なく突っ込むらしい」など、それは本当に人間なのだろうかと思うようなことを言われて、また諦めよう、早く忘れよう、と思い直す。真澄は高橋先輩と同学年の三年にお姉さんがいるので、無駄に詳しいのだ。
しかしそれでもなかなか鎮火の気配を見せない恋心に終止符を打つために、わたしはある日、ついにひとつの決心を固めた。よくあるアレ。一回抱いてもらって諦めるってやつ。ヤリチンならその難易度はそこまで高くない気がする。
わたしは処女だったけどヤリマンを装うことにした。べつに付き合ってほしいわけでもないし、ヤリマンが性欲が余ってヤリチンを誘うのはごく自然なことだから名案だと思った。
「高橋先輩!」
帰り際に校門を出ようとしている先輩に声をかける。
先輩はひとりで歩いていて、ペットボトルのお茶を飲むために立ち止まっていた。こうして見るとやっぱりわたし好みで格好良いし、清潔感があって、とてもザーメンタンクローリーとは思えない。普通の男子校生に見える。
「……俺?」
高橋先輩は、あたりをすこし見まわしてから、わたしに聞いた。大きく頷く。
心臓がドクドクと音をたてる。でも、もう呼び止めちゃったんだからあとには引けない。
「その……よかったら、わたしと…………しませんか?」
肝心な部分で小声になってしまったため、聞き取れなかったのか高橋先輩はきょとんとした顔で聞き返す。
「うん? なにを?」
「せ、セックスです!」
「は?」
先輩は目と口を開けて驚愕した。顔にはありありと困惑が浮かんでいる。
そりゃそうだ。セフレ関係にだって、たいていはそうなるまでにそれなりの流れやなりゆきぐらいはある。友達ですらない初対面のわたしに急に一足飛びでそんなこと言われたらびっくりもするだろう。
「なんでいきなり?」
当然のことを聞かれて用意していた答えを引っ張りだす。
「あ、わたし、ヤリマンなんで!」
そう言うと先輩がまた目を丸くした。それからお茶を一口飲んで、わたしの姿をまじまじと確認するように、上から下まで眺める。だいぶ怪訝そうな視線だった。
しまった。わたしはわりとおとなしそうに見える素朴な容姿なので、ヤリマンなんて、信じてもらえないかもしれない。
「本当なんです! 以前からさんざん男を食いまくってて、あだ名はバナナカッターって呼ばれてたんです!」
あわてて付け足すと先輩は飲んでいたお茶を噴出した。
用意していたとはいえ言うタイミングを誤ったかもしれない。少なくともぜんぜん自然なタイミングではなかった。
「大丈夫ですか……?」
気管に入ってしまったらしく、激しくむせこむ彼の背中をさする。
「大丈夫ですかはこっちの台詞なんだけど……」
「駄目、ですか? それなら……」
先輩が顔を上げてこちらを見る。わたしは顔を伏せた。
「…………わ、忘れてください」
猛烈に恥ずかしくなってきた。
なんだかんだ恐いので半分くらいは断られることを期待してもいた。落胆と安堵と羞恥が交じり合う。すばやく退散を決め込もうと踵を返すと肩を掴まれた。
「待った」
「はい?」
「あのさ……俺のこと好きとかじゃないの?」
先輩がわたしの顔をじっと覗き込み、確認するように聞いてくる。
「ちっ、違います! ヤリマンなだけです! わたしこう見えて、ものすごいヤリマンなんです!」
勢いよく言って激しく首を横に振った。
「あっそう……」
彼は何か不満げな顔をしていたけれど「まぁいっか」と言ってわたしの肩を抱いて歩きだす。
「あの……どこへ?」
「俺んち」
短く返されて、どうやらお願いが受理されていたことに気づく。顔がカッと熱くなった。
しばらく行ったところで肩にあった手がなくなって、代わりに手を取られて指を絡められた。
すごい! 恋人繋ぎだ!
先輩と、手を繋いで下校してる。
「すごい……ドキドキします」
「へっ?」
「だって、手……」
先輩は妙な顔をした。
しまった。今のはヤリマンらしからぬ発言だったかもしれない。
慌てて「なんでもないです」と言うと、先輩は前を向いて少し考えてから繋いだ手を少しだけ上げて「俺も」と言って笑ってくれる。きゅんきゅんした。
「ちょっと、寄っていっていい?」
唐突に手が離されて、先輩は通り道にあるドラッグストアに入っていく。
わたしは店の外で突っ立ったまま、これから起こるであろう大スペクタクルに想いを馳せた。
冷静に考えたら、処女なのにヤリマンの演技なんてできるだろうか……。アレ、初回は痛いって言うよね。あんあん言ってればわからないかな。だんだん、ヤリチンを欺ける自信がなくなってきた。はたして処女なのがバレずにヤリマンを演じきれるんだろうか……。
悶々としていると、買物を済ませた先輩が出てくる。
引き続き、うわついた現実感のない脳みそで歩いていると、先輩が立ち止まった。地面を凝視していた視線を上げる。どうやら彼の住むマンションに着いたようだ。
ドキドキしながらエレベーターに乗り込み、三階にある部屋の玄関を先輩が開ける。
「おじゃまします」
小さな声で言って、慌ててあとを追いかける。
先輩は「ここ、俺の部屋」と言ってさっさと部屋に入っていく。わたしは扉の前で息を呑み、一瞬動きを止めた。
真澄の話によれば先輩の部屋はヤリ部屋と化していて、常に裸の女がふたりくらい手錠で繋がれているらしい。
ドキドキしながら覚悟を決めて入室する。
裸の女の人はいなかった。
ほっとした。ちょっと散らかっていて、お菓子の空袋が出たままになっていた。
先輩の噂は人間離れしたものが多かったので、こんな普通のことでもだいぶまともに感じられる。
「適当に座って」
先輩はお菓子の空袋を手早くゴミ箱に入れて、窓を開けて換気した。それからベッドのシーツを手で払い、形を整える。そうしてわたしのほうに振り向いて、聞いてくる。
「シャワー使う?」
「え、でも……」
「大丈夫。九時過ぎまで誰も帰ってこないから」
そりゃそうだ。親が常駐していたらヤリ部屋になんてできないだろう。
緊張で大量に汗をかいていた。ありがたく使わせてもらうことにする。
バスタオルを渡されて、そっと脱衣所に踏み込む。
洗面台に並ぶ歯ブラシや歯磨き粉をしみじみと眺める。先輩の普段生活している空間にこうしていることにドキドキした。あ、このボディソープ、わが家のと同じだ。自宅のと違うのでお湯の出し方に少し難航したが、きちんと汗を流すことができた。
部屋に戻ると先輩が入れ替わりで出ていった。
ここまで来たらもう引き返せない。
メンタル最終調整の段階に入り、少しでも緊張から気を逸らそうと、先輩の部屋を観察する。
勉強机にノートパソコンが開きっぱなしで置いてあった。電源は切られていなくて、デフォルトっぽいスクリーンセーバーが流れている。近くに家で使っているのか眼鏡ケースもあった。机の端には携帯ゲーム機があり、すぐ近くまで充電ケーブルが延びているのに差し込まれていない。それから本棚には人気の少年漫画があったが、巻数は整列しておらず、四巻の隣に十八巻、その横に一巻がささっている。逆さにささっているものもあった。部屋に入った時には出しっぱなしだった読みかけの漫画と、脱ぎ散らかした服は片付けられていた。
その雑然としたさまは、わたしの頭の中にあった『ヤリ部屋』とはかけ離れた生活感があった。
しかし、先輩がヤリチンなのはゆるぎない事実であるのだから、その生活感は逆に生々しく感じられる。この部屋に、いったい何人の女の子が来たんだろうと思うと気持ちが萎えそうになってくる。
ベッドに座って窓の外を眺めると、平和な日常を感じさせる、なんてことのない駐車場が見えた。わたしは今、そことは違う非日常な建物の中に区切られている。
ちょっとだけ、帰りたくなってきた。
しばらく外を眺めてから窓を閉じると真新しいボックスティッシュを手に持った先輩が身体から湯気をほかほかとさせながら入ってきた。
「服着てるんだ」と言われてはっとなる。
「す、すぐ脱ぎます」
しまった! ヤリマンならヤリマンらしく全裸でお出迎えするべきだった! ヤリマンとしての真摯さがまったく足りていなかった。
大急ぎで脱ごうと、着ていた薄手のカーディガンに手を掛ける。指がぶるぶると震える。なんとかボタンを外して、ロボットみたいな動きで脱ぎ捨てた。残るシャツのボタンはカーディガンのものより小さいので震える指だとなかなか外せない。第二ボタンを外すのに、だいぶ時間がかかってしまった。
顔を上げると先輩がわたしの前に座っていた。肩を震わせて可笑しそうに笑っている。
「いいよ。脱がせてあげる」
そう言ってわたしのシャツの残りのボタンを両手で丁寧に、ぷつんぷつんと外していく。
バレてないといいけど……。大丈夫かな。
黙ってシャツを脱がされて、今度はスカートのかぎホックを外されて抜き取られる。
下着だけになってしまうと、もう先輩がまともに見れない。
「キスしてもいい?」
急に聞かれてバッと顔を上げると視線がかちりと合った。速攻で逸らして床を見つめながら二度ほどこくこくと頷いた。
先輩がわたしの頬に手を添えて、上向かせる。
ぎゅっと目を瞑っていると、ふにゅ、と温かくて柔らかいものがわたしの唇に押し付けられる。
今のが……先輩の……くちび……思考の途中でまたふにゅ、と同じ感触がして目を開ける。
先輩の顔がすごく近くにあった。そりゃそうだ。キスしてたんだから。わかっていたのにびっくりしてしまってひゅっと息を呑む。
先輩はくすくす笑って今度はわたしの頬に唇をちゅっと付けた。唇が触れるたびに体温が一度ずつ上がっていく感じがする。
それから連続して唇に唇をぶつけられてもう何がなんだかわからない時にぬるっとした舌が口内に入ってきた。それはわたしの舌を最初遠慮がちにとらえていたけれど、だんだん口内をわがもの顔で浸食しだす。ヤリチンすごい。やばい。ついていけない。
酸欠で思わず「ふんご……」と色気のない息を鼻と口からもらすと先輩が顔をぱっと離して、また笑いをこらえるような顔をした。
「お前……あだな……なんだっけ……バナナ……」
「バナナカッターです!」
先輩は口の中に笑いを押し込んでるみたいな、なんとも言えない顔でこくりと頷いた。
それからわたしに背中を向かせて、ブラのホックに手をかけた。