1.体感温度三十四℃
「あぁ、暑い……」
異世界の街アデッロの騎士団詰め所にある食堂。私の仕事は、ここで煮炊きするための火と水を放出すること。
三十歳の誕生日に魔法の世界へ転移した私は、なんだかんだとあって魔力量の多さを活かしてこの仕事に就いた。元の世界で家族も恋人も学もなかった私は、どうにかこうにか異世界に順応してのん気な異世界生活を送っている。
「トウコ、まだ出来るようにならなさそう?」
「無理そうです。氷の魔法も使えれば良かったのに……」
私は幸い人より魔力量が多かった。火と水と風の三大魔法を自由に使うことが出来る。しかし、それだけでは暑さには勝てない。
この世界の人々は三大魔法を組み合わせて身体に巡らせることで、体温を調節している。気化熱とか表皮温度とか、そういうのを上手いことアレしているらしい。この世界にやってきた冬の日、凍えるほどの寒さだというのに人々が薄着で驚いたものだ。
最初は種族の違いか──なんてったって獣人もいるくらいなのだ──と思ったが、魔法を使い慣れていないからだろうと結論付けられた。
やり方を説明されてもよくわからなかったし、異世界の人々は幼少期に自然と身につけるものらしい。最初に魔法をレクチャーしてくれた領主様の息子レバンカくんには『うまく説明できなくてごめん』と謝られてしまった。
この世界の人は親切な一方で他人に無関心なところがある。魔法で基本的な生活を賄えるから、個人主義なのかもしれない。『どこそこに異世界人がやって来た』という話があっても、その後どのように過ごしたのか記録がほとんどないらしい。だから、異世界からやって来た人々がどうしているのかはわからない。
セルフ冷暖房魔法が使えなくても、その年の冬はまだ平気だった。自己冷却は理屈がさっぱりだったけれど、暖房は風と火の魔法でそれっぽく温めることができる。いざとなればコートやセーターを着込めば良いのだし。
──でも、夏は駄目だ。死ぬ。
「氷の魔法は三大獣族の中でも氷狐だけが使える特別な魔力なのよ」
「氷狐の獣人は滅多に北の地から出ることはない……でしたっけ」
この世界には獣人と人間がいる。見た目ではわからないから、意識することはあまりない。獣人と恋人や家族としてやっていくなら知っておくべき違いもあるらしいけれど、私には関係のない話だろう。
氷や雷のような特殊な魔法を操れるのは限られた獣人だけで、アデッロのような大きな都市に出てくることは滅多にないらしい。
「冷房機、とかないんですもんねぇ」
同い年で肝っ玉母さんなクララさんが、鍋をかき混ぜながら申し訳なさそうな顔で私を見ている。この世界で出会った人はみんなとても親切だ。
「魔法の使えない赤ん坊でも、母親が自分を冷まして抱っこすれば良いからね。大人になっても使えない人は聞いたことがないわ」
何度も聞いた説明だけれど、諦めがつかない。どうしたら良いのだろう。まだ死にたくない。
流石に赤の他人に暑いのでくっついて私を冷まして下さい、とはお願いできない。それに、子どもはともかく大人を冷やせるほどの魔法ではないらしい。あくまで自己冷却、の魔法。
異世界転移ではなく異世界転生だったら暑さに苦しむことはなかったのに、とぼうっと考える。暑さで頭がぼんやりしてきた。
食器でいっぱいのシンクに少しでも涼めるように、と勢いよく魔法で水を吹き付けていく。放出するだけならこんなに簡単に使えるのに。
「あっつい……」
竈の火のせいで蒸し暑さが増しただけだった。
この街の人は優しい。治安も良いし、仕事もある。寒い地域へ移住したとして、それでは冬が乗り切れないかもしれない。
「じゃ、トウコ気をつけてね。お疲れ様!」
「はーい、お疲れさまです!」
夕飯の準備を終えたら夜番の人と交代だ。休憩室で水をがぶがぶ飲みながら、空元気に挨拶してクララさんを見送った。年齢の割に体力には自信があった方だけれど、夕方になっても下がらない気温にバテながら帰路についた。
***
私のアパートは騎士団の詰め所と街の広場の間にある。
室内は外より涼しいだろうか、いや、暑い気もする。水風呂は最後の手段にとっておこう。いや、今こそ入るべきか。あれこれ考えていたら余計に暑く感じる気がする。
「あつい、あつすぎる……」
家に着くなり、木箱の冷蔵庫で冷やした蒟蒻をぺたりとおでこに載せる。取り出してきたジュースの瓶はそれなりに冷えている。
生鮮食品は自己冷却の魔法と同じ原理で、風と水の魔法を組み合わせて木箱の中に保存されている。要するにちょっとした魔道具の冷蔵庫だ。冷凍は出来ないけれど、冷蔵なら十分。
異世界で借りた部屋は、元の世界で住んでいたボロアパートより広くて快適だ。落ち着けるこの部屋が、今は少しだけ恨めしい。どうして一軒家を借りなかったんだろう。私のお給料ではどのみち借りる余裕はないけれど。
実は夏になってすぐに、魔道具の冷蔵庫の仕組みを真似して部屋ごと冷やそうと試みた。結果、あちこち水浸し。修繕にひと月分のお給料が飛んだ。
アパートの周りは建物が密集している。この世界の人は自分を冷やせるから、みんな容赦なく夕食に風呂にと火を使うから余計に暑い。日が沈んでなお、熱気が身体にまとわりつくようだ。頭の良い人なら、この状況を打開出来ただろうか。
「あぁ、エアコン……」
愛しい人の名前を呼ぶように、愛しい家電様の名前を呼んだ。だが、この世界のどこにもない。
天涯孤独の私に、前の世界への未練はない。むしろ魔力が豊富だから、高卒でアルバイトよりも安定した生活が送れる、と前向きに考えていた。それがどうだろう。エアコンへの未練だけで元の世界に戻りたくなっている。いっそ外の方が涼しいだろうか。
扉を開けようとしたところでなにかに阻まれた。
「も、だめ……」
開いたわずかな隙間を覗くと、銀髪の頭が転がっていた。
「ひぃ!?」
「うぅ、グ、ラタン……」
愛おしい人を呼ぶように、銀色の頭が切なげに呟いた。良く見れば整った顔の青年だ。三十路の私よりいくらか年下だろう。
「あのー、酔ってます?」
道端に転がっている大人は酔っ払いと相場が決まっている。
「お、なか、すいた……」
くてん、と頭が揺れた。気を失ったのかとぎょっとして、隙間から手を出して青年の腕を掴んで揺さぶる。
「あの! ちょっと……って、うわ! 冷たい?」
触れた青年の身体は嘘みたいに冷たかった。
──え、死んでる?