1.
息を吐いて、私はそれからちら、と視線を滑らせる。もう少しもすれば乗合馬車が来るはずなのだが、あまりにも自分以外に人がいないものだから、少しだけ不安になってくる。
エレモス王国をぐるりと巡る乗合馬車は、乗り場が点々と存在している。私が住んでいる、北部辺境から一番近い乗り場がここ――の、はずなんだけれど。
それにしたって、人がいない。私一人だけ、ほとんど簡易的に立てられた小屋の中にいる。まさか乗り場が変わったとか、そんなことないよね、なんて少しだけ過【よぎ】る不安を慌てて振り払うように、小さく首を振った。
そうしてから、私は鞄の中から紙を取り出す。折りたたんだそれは、私に頼みごとをしてきた人が渡してきたものだ。中には渡す相手の住所が書かれている。
目を通しても、どこにある家なのかとか、そういったものは一切わからないけれど、まあ王都に着いたらどうにかなるだろう。紙を丁寧に折りたたんで、それから私はもう一度鞄の中にしまい込む。失くさないように、細心の注意を払いながら。
「王都かぁ……」
王都。――リュカの、いるところだ。
もしかしたら会えるかもな、と考えて、会ったら会ったでちょっと大変だろうな、とも思う。何せ先日、泣きながら「離れたくない」と抱きついてくるリュカをなだめすかして、王都に戻したばかりである。
発情期を共に過ごしてからというもの、リュカの私に対する依存のようなものが大変なことになっていて、帰ってくる頻度も高くなった。
今まではまとまった休みを取って帰ってきていたのが、細切れでも休みを取れるときに取り、その隙に帰ってくるようになった、というか。
一ヶ月に三日ほど帰ってきていた日程が、最近は十日に一日の頻度で帰ってきては戻っていく。疲れないのか、と聞いたとき、「フェルに会えない方が疲れる」と返されたので、私からはもう何も言えない。
ぼんやりとリュカのことを考えているうちに、遠くから地面を踏みしめて走ってくる音が耳朶を打つ。慌てて小屋の中から飛び出してみると、道の向こうに大きな馬車の姿が見えた。
手を振ると、馬車が私の前で止まる。大きな角のある馬に引かれた荷台は、人が座れるように改築してあるものだ。きちんと屋根があり、扉があって――一つの部屋を、馬が運んでいるような、と言えば良いだろうか。
暖気膜もきちんと張られているようで、開いた扉の向こうから温かな空気が滲んでくるのがわかった。
中には椅子がいくつか存在する。それがぽつぽつと埋まっているのを見て、ちょっとだけほっとした。
御者である男性に「王都まで」と伝えると、くい、と顎で中を示される。乗れ、ということだろう。頷いて荷台に乗り、椅子に腰を下ろした。僅かな間を置いてから、馬車が走り出す。
ちょうど窓のようになっている場所から視線を外に飛ばしながら、私はそっと目を閉じた。
――王都に住む息子から、最近手紙が来ないのだと、近くに住むおばあさんが私に相談をしてきたのが、元々の始まりである。
何かあったのかもしれない。だが、確かめることもできない。辺境から王都は遠く、馬車を乗り継いで行く必要がある。
お金持ちならば専用の馬車や、専用の魔法で王都と辺境を行ったり来たりできるのだろうが、そうでない場合、数時間は馬車に揺られる必要が出てくるのだ。
若いならばまだしも老人であれば、数時間も馬車に乗るのは難しい。手紙は何度も出しているのだが、もしかしたら届いていないのかも。そんな風に涙ながらに相談されてしまったら――『じゃあ、私が行って確かめてこようか』という言葉が出てしまうのも、無理はないと思う。
おばあさんは大変喜び、私に手紙といくつかの贈り物、そしてお礼だと金銭を差し出してきた。金銭は断った。元々、いずれ王都には下見をしに行こうと思っていたので、おばあさんからの提案は正直、ちょっとだけ好都合だったのである。
理由がないと、王都には少し足を運びづらい。辺境の村を出るわけにはいかない、と思っていた名残がある、と言えば良いのだろうか。今は――そんな風に思うことも少なくなったのだけれど。
ただまあ、なんにせよ、王都に行く決心がおばあさんのおかげでついたようなものだから、感謝しかない。
窓の外をじっと見つめる。室内の暖かさに少しだけ欠伸を零して、私はまどろむように意識を落とした。
目を覚ましたり、うつらうつらしたり、ということを繰り返しているうちに馬車は王都に着いた。早朝に出たものの、太陽の傾きからして、昼過ぎより少し遅いくらいの時間帯になっている。
凝り固まった体をぐっと伸ばして、私は馬車から降りる。少し歩いたところから道路が舗装されていて、高い塀に囲まれた王都の姿が見えた。
門は開け放たれていて、中にいる人々の雑踏が少し離れた私の元まで響いてくる。今からの時間なら、おばあさんの息子さんを探す時間もあるだろう。後は、そう、とりあえず宿も探さなければ。
頭の中ですることの優先順位を一つ一つ決めながら、私はそびえ立つ王都に、ゆっくりと足を踏み入れた。
門の傍には憲兵が立っている。不審な存在がいたら、恐らくすぐに捕まえるためか、眼光は鋭い。
憲兵は地元にはいないので、珍しさについ眺めてしまいそうになる。王都は中に入るのも、外へ出るのも手続きが必要で大変そうだ。これをリュカは毎回受けているのかと思うと少し感心する。今度帰ってきたときは労おう、なんて心中で頷いた。
簡単な手荷物検査を受けて、入場料を支払い、ようやく、中に入ることができた。
王都には暖気膜が張られている――とリュカが言っていたけれど、門を隔てて気温が急変すると、少しだけ驚く。室内ならばまだしも、王都全体を覆うように暖気膜が存在するとして、どれほどの魔法が使われているのだろう。想像ができない。
沢山の喧噪をくぐり抜けて、私は周囲へ目を走らせる。宿屋には、王様がこれを掲げよ、と定めたマークのようなものがある。温かな太陽をモチーフにして作られたそれは、宿屋のみが掲げることのできるものだ。外からやってきた人が、迷わずに宿を探すことができるのも、このマークが普及しているから、だろう。
太陽のマークを探してきょろきょろと視線を動かす。なんというか田舎から出てきました! 感がものすごい気がしてきた。服もなんだか――王都の人が着ているものは洗練されている気がする。恐らく、今はレース飾りが流行しているのか、先ほどから見かける女性の多くがレースの飾りがついた衣服を着ている。
可愛いな、と思う。あまり自分用の服を買っていなかったし、お金自体はずっと蓄え続けていたのもあって、余裕はある。後で服屋を見に行くのも良いかもしれないなあ、なんて思いながら、私は視線を動かして見つけた太陽マークに気付いて、慌てて道を逸れた。
扉のノブに触れて、そのままゆっくりと開く。
「すみません、失礼します」
声をかけながらゆっくりと室内に足を踏み入れた。柔らかな橙色のランプから零れ落ちる光が、室内を温かく照らしている。内装は素朴で、木のテーブルや椅子が、大事に使われているのだろう、艶やかに光を照り返しているのが見える。
入って少しいったところに受付があり、そこには女性が立っていた。年の頃は私より少し上、くらいだろうか。彼女は私を見ると、「いらっしゃいませ。お客様?」と首を傾げて見せる。
はつらつとした印象のある女性だ。
「はい。今日って一晩借りること、できますか?」
「ああ――今日、今日なら空いているはず。少し待ってね」
言いながら、女性は名簿のようなものを取り出した。恐らく、今日の宿泊人数を確認するのだろう。その手元を見ないようにして、私はそっと視線を動かす。
宿の人、ということは王都に詳しいだろうし、おばあさんの息子さんの住所も、見せたらわかるかもしれない。鞄の中から、おばあさんから渡された紙を取り出していると、不意に、僅かに木の板の軋む音が響いて、誰かが奥からやってきた。
「終わったよ、もう大丈夫だと思う」
聞き知った声だった。――軽やかで、柔らかくて、聞き心地の良い声。思わず声のした方向へ視線を向ける。相手も私に気付いたようで、視線がすぐに絡まった。
宿の宿泊名簿を確認していた女性が、「リュカ」と――私の幼なじみの名前を、口にする。
「ありがとう。急に腰が痛くて動けないとか言い出して、困っていたのよ」
リュカは反応しない。ただ、驚いたように目をぱちくりとさせてから、すぐに大股歩きで私に近づいてきて、有無を言わさずに抱きしめてきた。