1.わんこお兄さんとの出会い
葉山花梨【はやまかりん】は犬と猫が好きだ。
幼い頃、実家で犬や猫を飼う機会に恵まれなかったこともあってか、ずっと犬猫に対する憧れのようなものを根底に抱きながら、花梨は育った。
そうして、大学を卒業し、晴れて大人になり、一人暮らしを始め、自分の好きなようにお金を使うことが出来るようになったことを契機に、花梨の犬猫接触欲は爆発した。
犬カフェ、猫カフェに通いつめ、犬猫に顔を覚えてもらうまでに至り、更には犬猫の誕生日には必ず、仕事が忙しく大変であろうが向かい、犬猫の誕生を祝いながら金銭をカフェに落とし続けた。
今日も、ほとんど日参しているといっても過言ではない犬カフェからの帰り道を歩きながら、花梨は触れあったわんちゃんたちのことをぼんやりと脳裏に流し、小さく息を零した。
花梨が入店すると同時に、駆け寄ってきて盛大に尻尾を振るわんちゃんたち。本当に、とってもかわいかった。わんちゃんは本当に良い。何よりもこちらを見つめる瞳が眩しく、尻尾などの愛情表現が多彩で、見ているだけで楽しいのだ。
ふりふりと尻尾を振りながらこっちに近づいてきて、ぺろ、と舌で手を舐められたりしたらもう、たまらない。ふわふわの毛並みをぐしゃぐしゃに撫でると、嬉しそうに転がるところも好きだ。
先ほどまで居た店内のことを考えて、花梨は小さく息を零す。少しだけ頭が興奮しているのは、滞在していた犬カフェで、飼い主を探している、という話をされたから、というのも関係あるのだろう。
ルイちゃんは花梨さんに凄く懐いているから、花梨さんが良ければどうだろう、と。
犬カフェの犬スタッフが引退する時、店が譲渡先にと常連の相手に声をかける、ということもあると聞いていたが、まさか自分がその相手に選ばれるとは思ってもみなかった。
花梨は頭の中で、今日触れあったルイちゃんのことを思い出す。薄い茶色の毛並みで、柴犬の血が混ざった、雑種の子だった。撫でると、とろりと目を細め、花梨に体を預けてくれる、可愛い女の子だ。
実際、いずれ自分の家族の一員として、犬や猫、どちらかを迎えて末永く共に居たい、という気持ちをずっとずっと抱き続けていた。薄給ながらもそろそろペット可物件に引っ越しして数ヶ月はやっていけるくらいの資金も貯まってきている。
本気で物件を探してみるべきかもしれない、今後の人生をルイちゃんと一緒に過ごすためにも――なんて考えていると、思考を遮るようにカバンが震えた。花梨はそっとカバンの中にしまい込んだ携帯に触れる。
僅かに震えたそれは、何かのメッセージが届いたことを示している。
恐らくは企業からの広告メッセージだろうな、なんてあたりをつけつつ、立ち止まって携帯を取り出す。スワイプで画面を開いた。
――瞬間、文字を認識するよりも先に、得体の知れない浮遊感が花梨を襲った。立っていられず、その場でほとんど崩れるようにして膝を突く。
ぐわんぐわんと頭の奥底が鳴るような違和感に耐えきれず、ぎゅうっと目をつぶった瞬間、誰かが駆け寄ってくるような音が聞こえた。
「大丈夫ですか? 怪我は?」
男の人の声だった。テノールの、甘くて、優しい声だ。花梨はぎゅうっと目をつぶったまま、首を軽く振る。酩酊したような感覚は一向に収まらない。
「す、みません、大丈夫です……」
「大丈夫には見えないよ」
直ぐに否定の声が返ってくる。触れるね、と優しい声がとろりと降ってくる。肯定も否定も出来ずに居る間に、男性は花梨の背に触れ、そのままなだめるように指先を動かした。触れられたところがぽわぽわと、そこだけ陽だまりが当たっているかのように温かくなる。それと同時に、前後がわからないような感覚がすうっと消えていくのがわかった。
「うん、これで大丈夫――かな。どう?」
穏やかな声が聞こえて、そっと指先が背中から離れていく。ぎゅうっと閉じていた目をゆっくりと開いて、花梨は顔を上げた。そうしてから、迷惑をかけてしまったらしい相手を見る。
「すみません、ありがとうございま――」
す。吐き出しかけた言葉が、不意に、喉の奥に落ちていく。男性は軽く小首を傾げるようにして、それから照れたように笑った。どういたしまして、良かった、と囁く声を聞きながら、花梨は男性の頭上でぴくぴくと震える――耳を、じっと見つめた。
大きな耳。犬耳だ。一瞬、パーティーグッズか何かを着用しているのだろうかと思ったが、男性の耳はそれ自体がまるで生きているように震え、動いている。
え、と小さく息を零す花梨を見て、男性はゆっくりと立ち上がった。柔らかな眼差しをこちらに向ける瞳は薄い茶色、後ろでまとめられているらしい髪はプラチナブロンドのような、美しい彩りをしている。長い睫毛に、少しだけ線の細い面持ちは、なんだか一見すると女性的にすら見えた。僅かに垂れがちの瞳をそっと細めて、男性は、薄い唇から言葉を紡ぐ。
「転移酔いをする惑い人は多いらしいから」
「……あの、えっと……」
転移酔い。惑い人。聞いたことのない単語を、一瞬理解出来ず、花梨は僅かに顎を引く。男性はそっと瞬きを一つ、二つと零してから、不意に頭上の耳に触れた。花梨が驚いている間にも、ゆるゆると指先で耳を軽く弾くようにして、「本物です、これ」とだけ続ける。
「ほ、本物……?」
「そう。作り物じゃないです。触ってみる?」
「え? え?」
疑問が頭を回る。本物って。何が本物だと言うのだろう――なんて思いながら、花梨は誘われるままに男性の耳――犬耳らしきものに手を伸ばす。触れると、柔らかな皮膚の感触がじんわりと花梨の指先に広がった。すりすりと撫でると、生きもののようにそれが僅かに震える。
それはどこまでも、――犬の耳の感触にそっくりだった。
花梨は小さく息を詰まらせて、それから周囲に視線を向ける。
先ほどまで自分がいた路地とは、風景が様変わりしていた。
建ち並ぶ露店に、軒を連ねる色とりどりの家。電灯のようなものが等間隔に建ち並んでいた。ガス灯に似ているが、そうではない。中には鉱石のようなものが入っているのが見て取れる。それらが、様々に光を零しているようだ。ひときわ明るいものもあれば、少しばかり薄暗いものもある。色も様々で、それらが美しく街路を照らしていた。
周囲には人が居た。心配そうな視線が半分、興味深そうに眺める視線が半分ずつ、花梨に注がれている。
その中には、小さな子どもはもちろん、老若男女、多種多様な人々が居た。――目の前の男性よろしく、猫耳っぽいのや、兎耳っぽいのが頭上から生えている人も、多い。花梨のような、丸くて小ぶりな、これぞ人間の耳、というような耳を備えている人は、あまり――というより、全く居ないように見受けられた。
は、と喉の奥が震える。明らかに見たことの無い場所だ。転んだ瞬間に数メートル進んでしまったとしても、こんな風に風景が様変わりするとは考えにくい。そもそも、路地に居たのに、今は開けた広場に居るのだ。
おかしい、と、そう考えた瞬間、心臓がひやりとする感覚に陥る。
「こ、ここって、地球……? 日本……?」
震えながら発した問いかけに、男性は僅かに瞬いた。そうしてから、軽く首を振る。
「地球でも、日本でも、無いです。ここは――リモの街。王都、ルテンから少し離れた西部に存在する、街です。知っていますか?」
花梨は首を振る。全く聞き覚えの無い言葉だった。男性はつとめて柔らかい声で、「貴方は多分、惑い人、なんです」とだけ続けた。
惑い人。先ほども告げられた言葉だ。意味のわからないそれを、花梨は必死に飲み下すようにして口の中で繰り返す。惑い人。惑い人。
「僕はベスティのルーイです。ルーイ、って呼んでください。ええと、多分、貴方は今、凄く……不安で、怖くて、仕方無いと思うけど、大丈夫です。ここには貴方を守る沢山の法律が存在していて……」
ベスティのルーイ。紡がれた言葉を繰り返す。恐らく、ルーイというのが男性の名前なのだろう。ならば、ベスティとは一体何のことなのか。名字なのかと思ったが、口ぶりからしてそうではないのだろう。
口の中で囁いたそれを、恐らく聞き留めたのだろう、男性が嬉しそうに目を細めた。肩越しに、ぶんぶんと動く何かが見える。
「うん。ルーイです。……立てますか? 無理なら、背負います。ここだと人目に晒されたままになるので、少しだけ……そこのベンチまで行きましょう。貴方のことについて、きちんとお話しさせてください」
よくわからない。どう考えてもおかしい状況で、全く体験したことのない状況に陥っているのは確かなことだった。
だから、訳の分からないことを話す相手の誘いを断って、その場から逃げ出すことだって花梨には出来ただろう。
けれど、花梨はそれをしなかった。それは多分――ルイちゃんと似た名前を持つ相手の男性が、おおよそ悪い人には、見えなかったからだろう。
僅かに速くなりがちの呼吸を必死に押しとどめ、花梨はルーイの手を取る。ゆっくりと力を込めて立ち上がる。石畳で出来た地面を踏むと、押し返してくるような感触が靴の裏に広がった。
その瞬間、ああ、ここ、現実なんだな、なんて、花梨は思った。
2.お手
花梨が異世界転移してやってきた世界には、異世界からの客人が来ることがままあるらしい。
そしてそういった客人は、一様に『惑い人』と呼ばれ、第一発見者に保護されることがこの国の法律で決まっている。
そのための保護政策や、金銭の支給なども行われており、それもあって、この世界の人々は惑い人を保護することに対して積極的な姿勢を見せているようだった。
元の世界に戻るには、王都に居る王様に戻りたいです! というお願いをする必要がある。そうすることで初めて、元の世界へ戻るための転移魔法の準備を進めてくれる。
転移魔法というものは、大変な労力と準備が必要なため、お願いをしてからおおよそ数ヶ月経って、ようやく元の世界に戻ることが出来るのだという。
それまではどうして過ごすのかと言うと、基本的に保護してきた人の家に住まわせてもらうのが通例だ。
つまり、花梨の場合は、ルーイの家にお世話になる形となる。
のだが。
「――何かすること、ありませんか?」
朝食の途中。パンを口元に運びつつ、花梨は目の前のルーイに問いかけた。ルーイは、花梨からの言葉に僅かに驚いたように目を瞬かせ、それから朗らかに笑みを零した。
「すること? 特に花梨にしてもらうことは無いけれど……」
「いや、あの、だって待って、私ここに来て一ヶ月、何もせずに過ごしていて……! 太ってる、絶対に太ってる!」
「そう? そんなことは無いと思うけれど……。そんなにも気になるなら、散歩にでも行く? 付いていこうか」
「ルーイさんは仕事があるでしょ!」
「あるけれど……、でも、急ぎのものはないから。大丈夫。花梨と過ごす時間の方が大事だよ」
ルーイは薄い茶色の瞳を細め、言い含めるように言葉を続けた。
「いつ行こうか? 今日から、でも良いよ」
ルーイの中で、既に散歩は決定事項のようである。それではルーイが大変なのではないか、と花梨は思うが、言った所で優しく諭されて終わりだろう。この世界に来て一ヶ月、ルーイの家にお世話になってからというもの、何度も繰り返したやりとりを思いだし、花梨は小さく息を零す。