第一話 愛のない交わり
この婚姻は、王命によるものだった。
言い方を変えれば、国の最高権力者からの〝有難いお言葉〟とも言えるけど。
王弟のひとり娘、公爵令嬢のわたくしと、侯爵家の嫡男で近衛騎士の彼。降嫁先として、一見よく出来た話のように思える縁談は、仕方なく結ばれた縁だった。
代々王家に厚い忠誠を誓う名門ピアーズ家と、結婚適齢期を迎えた王族の娘であるわたくし。
わたくしの従姉妹でもある王女は、一人は隣国の第二王子妃となり、もう一人はやはり国の重要なポストを担う臣下のもとへ降嫁した。
王族の中に他に妙齢の娘はいない。とすれば、王弟であるお父様のところへこの縁談が舞い込んだのも理解出来る。政治に疎いわたくしにだって、それくらいの道理は分かるわ。
わたくしの役目は、妻として後継者を産み育てる事。
そうする事で、両家の結び付きがより強固なものとなり、名門ピアーズ家を敬い、ピアーズ家に忠誠を誓う下位の貴族達にとってもこの結婚が大きな意味を持つ事になる。
形だけの婚約期間を経て数ヶ月。
身を刺すような寒い季節が過ぎ、草木の芽吹く、うららかな陽光を感じられる好い季節に――。
国内外から集めた最高級の素材で作られた純白のウエディングドレスに身を包み、はっきりとした目鼻立ちを最大限に活かす華やかな化粧を施されて、生涯このお方を心から愛する事を、神の前で誓った。
わたくし達は愛し合ってなどいないのに。
夫となった人には恋人がいた。身分が釣り合わない事を理由に結婚を許されず、この縁談の為に泣く泣く別れる事になった最愛の恋人が。
お父様は全て知っていた。知った上でわたくしには、『この婚姻に愛など期待するな』と。
これは、娘を想うお父様なりのお心遣いである事は充分理解しているし、わざわざ前もって釘を刺さなくとも、そんな事初めから分かっているわ。
わたくしに課せられた役目も、そんな状況では夫がわたくしを愛せる訳ない事も。
それならば、きっと新婚初夜も一人で夜を明かす事になりそうね。
そう思っていたのに――。
「フローラ様、力を抜いてください」
「力などっ入っていませんわ! それに、わたくしに敬称は必要ありませんっ……!」
「そうですか? では遠慮なく」
「ひぃっ! ……うっ……く……」
口では遠慮なく、と言いながらも、夫となった人はわたくしを気遣うようにゆっくりと腰を沈めた。
それでも、破瓜の痛みは想像を絶する痛みだった。閨【ねや】教育でもこんな事は言われていなかったのに。
殿方に全てお任せすれば、何も問題ないのではなかったの!?
いいえ、なんのこれしきっ! ですわ!
こんな事でヒイヒイ情けない声を出すなんてみっともない。
薔薇のように気高く美しいわたくしらしくないわ。これくらい耐えてみせる。
「大……丈夫、ですか……?」
目の前の精悍な顔つきの夫は、整った顔を少しだけ歪めてこちらに尋ねる。
「え、ええ……問題など、ないです、わ……これくらい、なんて事ない……ですものっ……いっ……」
たぁぁーい! 痛い! 痛い痛い痛い!!
夫となった人は、深い皺がよる額に優しいキスを落とし、少しずつ腰を揺らし始めた。
目を瞑り、何か別の、楽しい事でも考えて痛みを逃そうとする。
この儀式が終わったら、好物のマカロンをタワーのように重ねて、思う存分堪能して――。
くぅぅ……やっぱり痛い、痛くて集中出来ないわ!
言うならば、皮膚が張り裂けそうなほどの痛み。うまく息が吸えないほどの苦しさ。
でも息苦しさに喘ぐ中で、時折頭上で響く甘い声がどうしても気になってしまう。
どうにか片目ずつ瞳を開くと、優しく微笑む夫と目が合った。
このような醜態を晒してどう思われたのかしら。
この柔らかい笑みには、もしや嘲笑が含まれているのでは、と邪推したわたくしは、息を呑むほどの美しい瞳に耐えきれず思わず視線を逸らす。
すると、ゴツッとした硬い指先で顎を掴まれて、今度は唇を塞がれた。
「ん……んんっ……んー!」
唇をこじ開けるようにして無理矢理侵入してきた舌が、咥【こう】内【ない】を這うように動き回る。
「目を逸らさないでください。あなたの夫となった男を、その美しい瞳にしっかりと焼き付けてください」
どうしてそんな事を言うの?
たった一度の顔合わせをしただけで、わたくし達は、望んでもいない相手と結婚させられたのよ?
あなたなんて、この婚姻のせいで愛する恋人と引き離されたのでしょう?
「んっ……あ、アルカさまぁぁァ……!」
「あなたを大切にします」
何度か抽送が繰り返された後、「そろそろ出します」と声をかけられて、お腹の中に温かいものがドクドクと解き放たれた感覚がした。
あれが子種なのかしら?
よく分からないけど、閨事は殿方にお任せすれば良いわけだから、あれで問題はないのよね。
それに何か……何か、とても大切なことを言われた気がするのだけど、あまりに必死過ぎたから、途中からよく覚えていない。
重だるくなった身体は、身を清めることも忘れ、シーツに呑み込まれるように深く沈み込んでいった。
***
明朝、窓から差し込む白光が眩しくて目を覚ますと、隣に夫となった人の姿はすでになかった。
「デイジー? デイジーどこ?」
ベッドサイドのチェストに置いてある呼び鈴を鳴らせば、すぐに寝室のドアがノックされ、慣れ親しんだ人物が入ってくる。
「お呼びでしょうか、フローラ様」
デイジーは、生家のモーリス城から連れてきた私専属の侍女。燃えるような赤毛に、透き通る白い肌には夜空の星のようにソバカスがちりばめられており、瞳の色は深海を思わせる濃いブルー。膨【ふく】よかな体型を本人は気にしているらしいけれど、それは親しみやすい彼女の人柄を表す、チャームポイントの一つだと密かにわたくしは思っている。
そんな愛らしいデイジーは、わたくしがこの世で唯一本音を話せる相手でもある。
「あのね、アルカ様のお姿が見えないのだけど、お仕事かしら? 今日は、確かお休みの日だったと思うのだけど……」
「はい、若旦那様は、先ほどお客様がお見えになり、現在書斎にて応対されています」
新婚夫婦が初めて迎える朝にお客様?
それも、書斎にお通しするほどの……どなたかしら。
「そう。では、お茶をお持ちしないと」
「給仕が運ぶでしょうから、フローラ様はご心配なさらなくてもよろしいかと……」
「それなら、尚の事わたくしがお持ちするわ! 書斎にお通しするなんて、よほど親しい方よね? ぜひご挨拶しないと! 急いで支度するから、デイジー手伝って!」
昨晩あなたが抱いた妻はこんなにも美しいのよ、そんな風に思って欲しくて、生家から持参した一番お気に入りの淡いグリーンのドレスに身を包む。
ヘアアレンジはシンプルだけど品良く、装飾は質の良いものを最低限に。
昨晩の余韻を引きずった身体に鞭を打ち、夫の為に美しく着飾ったわたくしに、あれはあんまりな出来事だった。
第二話 諦めた恋心
支度が整い廊下へ出ると、ちょうど階段を上がって来たばかりの給仕と目が合った。
わたくしの姿を見るなり隅へ控えた彼に〝しー〟と人差し指を唇の前に当て目配せをする。
「それはわたくしがお持ちするわ」
有無を言わさずトレイを受け取れば、向かうは同じ階にある書斎。
自分の荷物すら持った事がないわたくしにとって、ティーポットとお茶菓子の載るこのトレイは、それなりの重さがある。
それなのに、背中に羽が生えたかのように不思議と重たさは感じない。
ふわふわした気分で、足取り軽やかに一直線の長い廊下を進めば、突き当たりにアルカ様のいる書斎のドアが見えてくる。
豪華な刺繍が施されているわたくしの室内履きは、柔らかい履き心地はもちろんの事、無駄にパタパタと足音が鳴らないところもお気に入り。
でも、その質の良さが却って良くなかったのね。
「お前も色々大変だな。それで、もうあの子の事は完全に吹っ切れたのか?」
「あぁ……」
「オレの前で強がるなよ」
「別にそんなんじゃない」
目の前に映るのは書斎のドア。中から微かに聞こえるくぐもった低い声。
わたくしの真後ろに控える、今にもこの部屋の中に乗り込みそうな勢いのデイジーを、首を左右に振り制止する。
重厚な造りに見えても、木製のドアは意外と声が漏れるらしい。
思いもよらぬ会話の内容に、心臓がバクバクと大きな音を立てる。
それにも拘わらず、『これだけ立派なドアでこれですもの、人に聞かれたくないような大切な話をする際は相当な注意が必要ね』などと、やけに冷静な事を考えてしまう冷めた自分がそこにはいた。
「でも正直、フローラ姫はお前のタイプじゃないだろ?」
「……まあな」
いつノックをしようかしら――その考えは急いで打ち消し、これ以上聞き耳を立てるのは良くない気がして、その場から逃げ出すように踵を返した。