プロローグ
「桜。いいことを教えてあげるよ。オレはきみを還さないと決めた」
シャルさんはやわらかくほほ笑みながらそう言った。
彼の紺青の髪が暖炉の光のなかで揺れ、その青い瞳は温もりを宿している。長身に纏う白衣が、彼の若々しい美貌をいっそう優しげに見せていた。
けれどその外見とはうらはらに、彼の言葉は横暴だった。
彼の両腕のなかで、わたしはその言葉を衝撃と共に受け止めた。ドレスに身を包んだわたしの小柄な体は、彼のたくましさに完全に包まれていて、逃げ場はない。
「きみは運が悪かったね。よりによってオレのような人間に捕まってしまうなんて」
そう甘くささやきながら、シャルさんは形のいい唇をわたしのそれに優しく重ねた。
やっと元の世界に還れる目処がたった矢先のことだった。
暖炉の火が、宰相邸に用意されたわたしの部屋を温かく照らしていた。時計は夜の八時を過ぎ、静寂が部屋を包んでいる。
傍若無人な宮廷医術師、シャル・エリオットの策略により、普通の女子大生だったわたしは、人生最大の危機的状況に陥ってしまった。
これからその一部始終を、お話ししようと思う。
1
「おお、動いたぞ爺」
「さようでござりますなぁ」
若い男の人と、おじいさんの声が耳に届く。
どうやらわたしは眠っていたようだ。目をあけるとそこには、見覚えのない石造りの天井が広がっていた。
わたしは眉をひそめる。ここはどこだろう? というかわたしは、いつのまに寝てしまっていたんだろう。
「見ろ爺。なんという可憐な娘だろう。瞳の色が黒曜石のように神秘的だ。しかし色気が……まあ、それもまた魅力だろう」
その声に、わたしはむっとして目を向ける。そこには金髪碧眼のイケメンがいた。
思わず二度見する。なに、このキラキラしたの。
服装はイギリスの王子さまみたいなひらひらの服で、おとぎ話の絵本から飛び出してきたみたいだ。現実感を完全に無視した出立ちだが、イケメン過ぎるがゆえに絶妙にハマっている。
ちなみにわたしは、半袖Tシャツにミニスカートとスニーカーというありふれた格好だ。自分を見下ろしていると、だんだん記憶が戻ってくる。
わたしは今日、同い年の幼なじみ・柊と一緒にテーマパークに遊びに来た。入場ゲートをくぐって、まずどのエリアから回ろうかと話していたところまでは覚えている、そこから記憶がない。なんとなく、そのとき強いめまいに襲われたような気もする。
首を傾げるも、この現実離れした状況こそ、アトラクションの一種かもしれないと思い直す。うん、きっとそうだ。
わたしは起き上がった。
「起きたぞ爺」
「さようでござりますなぁ」
おじいさんは丈長のローブを着ている。身長はわたしより低い。その割にひげが長く、床にくっついていた。
「ここどこですか? こんなアトラクション、パンフレットにありましたっけ」
お尻の下の、ひやりとした台座をなぞる。
ピカピカした台座は立派な一枚岩だ。室内を見回すと、ファンタジー映画に出てくる神殿のような、荘厳な造りになっている。最近のテーマパークは世界観の作り込みがすごいなぁ。
そのあとわたしは部屋を移動させられた。移動中に通った廊下は赤い絨毯が敷き詰められた立派なもので、外国のお城に迷い込んだかのようだ。
案内されたのは暖炉のある豪華な部屋である。キラキラしたイケメン王子に促され、ひとりがけのソファに座らされた。部屋の造りもまた。イギリスの王族が住んでいそうな豪奢なものだ。
次に室内に現れたのは、緑色の短髪をした男だった。
メガネをかけた生真面目そうな人物だ。歳は二十代半ばくらいかな。王子に比べたら地味だが、こちらもキリッとしたイケメンである。
服装はダークグレーのスーツだ。凝ったデザインで、銀のふち取りや金色のボタンがついていたりするけれど、あのキラキラ王子のひらひらっぷりよりは動きやすそうである。
メガネは恭しくひざまずき、「失礼いたします」と断ってわたしの右手を取る。
お嬢さま設定なのかな。ちょこっと気分がいい。
しかしメガネは突如、顔色を変えた。
「大変です王子殿下。この娘、《雪》を持っていません!」
ゆき?
あの空から降ってくる、雪のこと?
「まことか。きちんと調べたのか!」
「はい。殿下もご覧ください」
キラキラ王子が金髪をサラサラさせつつ、わたしの手を覗き込んでくる。
そしてうめき声をあげた。
「なんということだ。よもや失敗したというのか。ウェインよ、召喚主を呼んでくるのだ!」
緑髪メガネは「はっ」と一礼して、部屋から出ていく。
代わってさっきのおじいさんが近づいてきた。深いシワに囲まれた、灰色の目が穏やかにわたしを見る。
「ふむ。歴史書によると、いままでこのような前例はなかったはずなのだが。おぬしはいったい何者かね?」
「ただの女子大生ですけど」
メガネが戻ってきた。うしろに男を連れている。
年齢はメガネと同じくらいに見えた。赤い髪をしていて、目つきが鋭い。鋭いをとおりこして、極悪な印象である。
彼の服装もまた独特だ。ファンタジー映画に出てくる魔法使いみたいな、丈の長いローブを着ている。そのローブは真っ黒で、銀糸の刺繍がなされていた。
「見せてみろ」
赤髪に、乱暴な素振りで手首を引っ張られた。
「ちょっと痛いんだけど」
「《雪陰》どころか術力のカケラもねえな」
赤髪は忌々しげに舌打ちする。そうしたいのはこっちだと思いつつ、わたしはあらためて彼らを見回した。
よくここまでイケメンをそろえたな。どこかのモデル事務所から連れて来たんだろうけど、すごい演技力だ。それにしても赤と緑の髪色、綺麗に染まってるなぁ。
「待てよ、もしかしたら。おいマルス。この女と一緒に召喚された、あやしい男はどこにいる」
「いくらレヴィ殿といえど、マルス殿下を呼び捨てにされるのはいかがなものかと」
メガネが苦い顔つきで苦言を呈している。さっきから出てくる『殿下』という呼び名は、たぶんキラキラ王子のことだろう。彼は本当に王子さま設定のようだ。
そして『召喚された男』とは、もしかして柊のこと?
「うむ。あの男はたしか、地下牢にとじ込めさせたはずだが」
「待って、地下牢ってなに? いくらアトラクションっていっても、やり過ぎでしょ」
わたしは焦って抗議する。王子が気まずそうな表情を浮かべた。
「すまぬ。あの男は召喚する予定になかったから、魔獣の類かもしれぬと思い……」
「もういいよ、このアトラクションはおしまいにしてください。最初は少しおもしろかったけど、目当てはパレードだったし」
立ち上がると、メガネがあわてた。
「ご無礼をお許しください。すぐに彼を連れてまいります」
「まだ続けるんですか? 柊を連れてきてくれるんだったらいいですけど、次のエリアに行きたいから、早くしてくださいね」
「御意」
メガネはていねいに一礼して、部屋から出ていった。
赤髪がため息をつく。
「おいマルス。この女、状況わかってないぜ。ちゃんと説明したのかよ」
「説明? そんなものがいるのか?」
「これだからお坊ちゃんはめんどくせえな」
「ほっほ。おいおい、ゆっくり説明してさしあげればよい。一度に話しても、混乱するだけじゃ」
おじいさんがゆったりと言う。
なに、どういうこと? これ、アトラクションじゃないの?
しばらくして、苦いものを噛みつぶしたような顔でメガネが戻ってきた。
「やはりこの男が雪を持っていました」
隣には柊がいる。女性アイドルみたいに可愛い顔が、憔悴しきっていた。ちなみに柊はれっきとした二十歳の成人男性である。
「さくちゃん。よかった、無事だったんだ」
柊はわたしを見るなり抱きついてきた。わたしの身長は一五〇センチ前半で、柊は後半だ。お互い小柄である。
柊の背中をなだめつつ、わたしは安堵の息をついた。
「そっちこそ、無事でよかったよ」
柊は弟みたいな存在だ。同じ大学の三年生だけど、誕生日が四月と三月で、一年近くわたしのほうが上である。
柊は女の子に間違えられるほど可愛い顔立ちと華奢な体型をしている。サラサラのショートカットの髪、卵形の顔に、大きな目。まつ毛は長く、鼻は小さく、お肌はつるつるで色白だ。いまはポロシャツにジーンズを合わせているが、女装したらわたしより可愛いに違いない。
王子が口を挟む。
「さくちゃん、というのがそなたの名か。柊はさくちゃんの従者なのか?」
「従者って。友達ですよ。わたしは成沢桜です。あなたはマルスさんっていう設定ですよね」
「や、やはり雪姫だけのことはある。私の名を知っているとは」
王子、もといマルスさんは慄いた。
雪姫だからというわけじゃなく、さっきから赤髪がそう呼んでいるだけのことだ。
と、柊が小さな声で耳打ちしてきた。
「さくちゃん、この人たち危ないよ。僕、刃物で脅されたんだ。それから真っ暗な牢屋に連れて行かれて、とじ込められたんだよ。きっとここテロ組織のアジトだよ」
「テロ!? アトラクションじゃないの?」
「僕も最初はそう思ったんだけど。ねえ見てよ、僕の手首。縄で縛られて連行されたんだ。こんなに痕が残っちゃった」
柊の両手首に痛々しい赤みが残っている。
サッと血の気がひいた。
「やだ、わたしずっとアトラクションだと思ってた」
「うん、ほんとにそうだったらよかったんだけど」
チラチラと男たちを見つつ、柊と小声でささやき合う。
「隙を見て逃げようよ。僕このお屋敷の出口、覚えてるから」
「えらい、柊。ここ出たら警察に行こう」
「おい、おまえら」
低い声に、体が強張った。
おそるおそる振り返ると、赤髪がこっちをにらんでいる。
「ぜんぶ丸聞こえなんだよ。誰がテロ組織だって?」
「えっと、その」
柊がしどろもどろに答えた。
「僕たち善良な一般市民で、親も心配してると思うから、この辺で帰らせてもらおうかなって思って」
「おまえらはバカか」
赤髪が吐き捨てた。
「いいか、《雪姫》のことならオレが全部知っている。成沢桜、二十一歳。偏差値五十四の国立N大学三年生。ドーナツ屋でアルバイト中だが時給が安いわりにコキ使われるのを不満に思っている。家族構成は父、母、シスコン気味の兄がふたり。仲はいいほうで、月一回はみんなでファミレスに行く。容姿はまあまあだがチビで貧弱。Aカップなのを気にしている。美点はサラサラのストレートヘアだが、手入れがめんどくさいから長く伸ばさずに肩のあたりでいつも切っている。気性は猪突猛進型、取り扱いには注意が必要」
すべて合っている。あいた口がふさがらないとはこのことだ。
王子が口を挟んだ。
「レヴィ。えーかっぷとはなんだ?」
「なんでそこまで知ってるの? いま初めて会ったのに!」
わたしは無理やり話をさえぎった。
赤髪は不遜に笑う。
「おまえの召喚主がオレだからだ。おまえのことだけじゃない、柊のことも知ってる」
「召喚? それっていったいなんのこと?」
「おまえの住む東京から、この王都に喚びよせた。ここは東京と時空を異にした、まったく別の面に存在する世界だ」
「別の面って……」
そんな、マンガやゲームみたいな設定を説明されても。
「結論から言ってやる」
混乱するわたしたちに、赤髪は容赦ない事実を突きつけた。
「おまえらはオレたちの望みを叶えるまで、元の世界には還れない。逃げ出そうなんて無駄なこと考えるのはやめろ。どうせ寒さに野垂れ死にするだけだ」
赤髪は窓を指さす。このとき初めて、わたしは外を見た。
そこは銀世界だった。
広過ぎるほどの立派な庭園は、隙間なく雪に塗りつぶされ、寒々しさに覆われていた。